第二章 三十六
そこに駆けつけたシュードが素早く剣を振るった。牽制どころか本気で首を狙った太刀筋に、魔物のボスはたまらず跳んで大きく後退する。殺気を纏った斬撃はボスを掠め、その被毛を幾本かはらりと極寒の森に舞わせるのみに止まったが、一番の目的は果たせた。物理的な重圧から突如解放されたセージは思わず声を上げてよろめくが、かろうじて持ち直す。
「悪い、助かったぜ」
セージは礼を言うなり、シュードが返す間もなく魔物のボス目がけて駆け出した。お返しだと言わんばかりに槍を振りかざすが、進行方向に取り巻きの最後の魔物が飛び込んでくる。
「邪魔すんな!」
金髪の青年は思わぬ妨害を受けても止まることはなく、直ちに標的を眼前の個体に変えた。魔力を纏わぬ突きで敵の前足を狙うが、呆気なく躱される。魔物が襲い掛かろうと体勢を整え、セージがもう一度と槍を振りかぶったところに、左から魔物のボスが害意を露に飛び込んできた。
「うわっ!?」
明るい茶色の目が驚きと焦りに見開かれると、彼の痩身がぐらりと傾ぐ。雪に足を滑らせたのだ。シュードとベテルギウスの民二人が常に懸念していたことを、セージはこの非常事態において不本意ながらも実行してしまった。
「!」
仰向けに転んで無防備を曝したアルデバラン王国第三王子の危機に、シュードが動く。よりにもよってこのタイミングで、といった文句が頭に浮かぶ暇すらなかった。だが、駆けても防魔術を発動させてもセージを守ることは叶いそうにない。ナスタの防魔術も今度ばかりは間に合わない。リコリスがセージの名を呼び、リリィとカトレアが顔を両手で覆った。
しかし、事は一行と魔物達の予想を裏切る展開となった。セージが転倒したことで魔物達の狙いが大きく外れ、二体の攻撃は彼に当たらなかったのだ。それだけではない。魔物達は互いの爪で傷付け合いそうになり、慌てて身を捩ってすんでのところで回避する結果となった。二体は動揺したのか、着地するとそのまま走って距離を取った。それは魔物同士だけでなくセージとも離れたことになり、少なくとも直ちに危害を加えられる状況ではなくなったのだ。
「はー、やばかった」
当の金髪の青年は危機感にいまいち欠けた声色と表情でそう呟いた。一歩間違えれば狼型の魔物二体の爪の餌食になっていたというのに、見た者に彼が今置かれている状況を忘れさせそうな呑気さを隠そうともしない。派手に転んだものの頭も体も打ち付けた様子はなく、「よっ」と小さな掛け声と共にぱっと立ち上がってすぐに構え直す程度には元気そうである。
駆けつけたはいいが出番のなかった、いや、出番がなくて済んだ深緑の髪の青年は、短いため息を吐いて簡潔に問うた。湧き上がる感情を抑え込んだ真顔であった。
「お怪我は」
「ねえよ、大丈夫だ」
転んだことへの照れ隠しか、未だ敬語が抜けないシュードへの不満か、それとも戦場における緊張感か、セージはどことなくぶっきらぼうに返す。白い頬がほのかに赤くなっているが、その理由は気恥ずかしさともこの厳しい寒さとも、戦闘で血の巡りが良くなっているからとも取れる。羞恥心故のささやかな悪態であれば、赤と黒の毛糸と白いファーの帽子にくっついた雪と人型に窪んだ白い大地が動かぬ証拠であるし、そもそもこの場に居合わせた全員が一部始終の目撃者だというのに、なかったことにしたいのだろうか。
離れた所から見ていたリリィとリコリスは、安堵と呆れの息を吐いた。愛らしい顔は張り詰めていた何かがぷっつりと切れた様子で無事の喜びと文句を、幼い顔はげんなりとした様相で皮肉をそれぞれ漏らす。
「よ、よかったぁ……危ないなぁ、もう」
「……随分と運がいいんだね」
少女達の感想のいずれかはカトレアも抱いたようで、今にも叫び出しそうだった顔を半ば残して胸を撫で下ろしたような複雑な表情であった。表情の変わらないナスタとルージュの心境は分からないが、両者共に何かの魔術の準備に入っているのは確かである。
それを認めた狼型の魔物のボスが、今度はナスタを標的にしたようだ。気付いたシュードが直ちにボスとナスタの間に割って入る。ボスが回り込もうと動いたところに、セージも続いて立ち塞がり、妨害を図った。槍の穂先が牽制を繰り出す度に、紫の飾り帯がひらひらと挑発するように踊る。二人がかりの足止めに、魔物のボスが苛立たし気に唸った。
そこに、取り巻きの最後の一体が加勢に飛び込んできた。爪の一撃をシュードが剣で受け止めたその時、後方でまた平坦な声が攻魔術を詠唱する。
「〔フレイムバレット〕」
三発の炎の弾が魔物達目がけて飛んできた。しかし、軌道を読まれたのか、二体はそれぞれ横に跳んで燃える凶弾を避ける。火属性の攻魔術は命中するどころか、毛の一本すら焦がすことはなかった。
「……外した」
狙いが逸れたナスタは、小さく静かに呟いた。共に戦う者達が聞き取ることも難しかったが、攻撃を当てられなかったことへの動揺も苛立ちも、何の感情も読み取れない声であった。すぐに次の手に策を回らして用意する様は冷静そのもので、とても初めての実戦がわずか十日前だとは思えない。
カトレアの「今よ」と言う声に着地したばかりの魔物のボスが反応したその時、頭上から大量の花粉が降ってきた。ルージュの〔パラライズポーレン〕だ。好機を窺っていたらしいルージュの間の良さはあまりにも絶妙で、およそ争いごとを好まぬ性質の魔物らしくない。戦闘に慣れておらず、人の三歳児程度の知能だとされるドーリィローズの幼体の独断ではなく、先程聞こえたカトレアの指示なのだろう。
そのカトレアも頃合いを見計らっていたようで、ルージュの花粉の毒が魔物のボスを回って動作があからさまに鈍くなった途端に何らかの魔術を発動させた。
「〔スネアバイン〕!」
すると、カトレアが杖で指し示したその先、魔物のボスの足元に攻魔術の魔陣が展開したかと思えば、そこから幾本もの蔓が生えてきたのだ。蔓は触手のように蠢き、ボスの四肢に強く複雑に絡みついて緑の足枷となる。これだけでは大したダメージは与えられないが、この術の真価は標的の動きを封じることにある。どんなに俊敏な相手であろうが、上手く決まればしばらく足止めできるのだ。
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