第二章 三十七
 狼型の魔物のボスは己を大地に縫い留める蔓から逃れようと足掻くが、カトレアの魔力に適わずふらついていた。麻痺した巨躯を思いのままに操れずに難儀しているのだ。これなら当分の間は動けまい。
(動きを封じた!)
 シュードは足を捕らえる罠のような攻魔術の成功に勝機を見出して、ほんのわずかに口角を上げた。その隣で取り巻きの最後の一体の爪を得物で押し返したセージが、一人と一体の術者に短い称賛を送る。
「カトレアさん、ルージュ、ナイス!」
 カトレアもルージュも単体では戦闘能力に乏しいが、息を合わせれば高い効果の補助が見込める。ナスタが先程攻魔術を外したのが却って好機となったのも大きいが、彼女達の連携がなせる業であった。
 反撃の狼煙を上げた四人と一体の前に、取り巻きの最後の一体が立ち塞がる。明らかに劣勢なのは――もっと言えば、勝ち目がないのは痛い程分かっているであろう。それでも毛を逆立てて低く唸り、身を挺してまで群れの長を守ろうとするその姿に、リリィの胸がきゅっと締め付けられる。
 魔物と直接対峙するメンバーはヒーラーの心痛を知る由もなく、ただ相手の出方を窺うだけだ。ただし、それも悠長に構えてはいられない。魔物のボスにかけた足止めがいつ解けるか分からないのだ。皆が積極的な攻めに転じるべきだと判断したが、真っ先に突っ込んでいったのは金髪の青年であった。
(ご自分のお立場を分かっておられるのか!)
 我が身を顧みないアルデバラン王国第三王子に、プレアデスの近衛騎士は顔を苦々しく歪めた。セージが魔術を不得手とするのは致し方ない、故に前衛で体術に専念するより他ないのは重々承知している。それでも、わざわざ先陣を切らずともよかろう。その御身に何かあれば国際問題になりかねないことを、この御仁は本当に理解しているのか。一拍遅れて、シュードも駆け出す。
「待っ――」
 シュードの荒くなりそうなのを抑え込んだ呼びかけはセージの咆哮に掻き消される。
「喰らえっ!」
 魔力を纏わぬ突きが、取り巻きの最後の個体の額から頭頂部を抉った。だが、傷付いても尚、槍の下を掻い潜るようにセージの懐に飛び込んだ敵が細身の胴体に噛みつこうと牙を剥く。肉を切らせて骨を断つのを目論んだのだ。惨劇を脳裏に描いたリリィの悲鳴が上がる。
 しかし、「うわっ」と叫んだセージが咄嗟に身を捩って鋭い牙を回避した。捨て身の攻撃を躱された相手は黒いロングコートの内側、灰色のキルティング生地に鼻先から突っ込み、肩から先の胴体の被毛がセージの痩身を掠めていく。ぎりぎりのところで衝突も免れたのだ。
「危ねえな!」
 着地し損ねた個体を、後方で待ち構えていたシュードが斬り伏せた。前のめりになっていた体は勢いを失うことなく、そのまま雪に頭から突っ込んで沈黙する。危ないのは貴方だ、とシュードの中で文句が生まれたのは、魔物が動かなくなったのを目視で確かめてからのことだった。
 前衛で得物を振るう二人が魔物のボスを見据えたその時、またもや敵の頭上から大量の花粉が降り注いだ。ルージュの無属性攻魔術〔スリープポーレン〕だ。ボスは痺れている上に束縛を受けた体では避けることはできず、対象を一定の確率で深い眠りへと誘う花粉をたっぷりと浴びてしまう。
 だが、狼型の魔物のボスは毒が効き始める数十秒を経過しても一向にその膝を折ることはなかった。四肢が痺れているのは緩慢な動作と全身の震えを見れば間違いないが、その目は開かれたままだ。
「失敗……!?」
 カトレアの動揺がシュードの背後から聞こえる。ルージュの攻魔術の催眠作用が上手く働かなかったのか、相手がこの手の毒に耐性があるのか、どちらなのかは定かではないが、敵を眠らせる企てが叶わなかったことは確かである。
 さらに悪いことに、ボスの脚に絡みついていた蔦がするすると解け始めた。魔術の効果が切れたのだ。
(まずい、足止めが破られる!)
 それを目の当たりにしたシュードは、考える間もなく後衛のナスタにカトレアとルージュ、そして傍らのセージを背に庇った。セージが何か言おうと口を開いたその時、魔物のボスがぶちぶちと蔦を力任せに引き千切る音が雪に閉ざされた森に響く。全身を痺れさせる毒に苛まれてもまだこれだけの余力が残っていたのか、とシュードが唇を軽く噛めば、低く唸るボスと目が合った。怒りに燃える黒真珠のようなそれと歯茎も剥き出しの牙が作り出す形相は、その巨躯と相まってこちらの臓腑を鷲掴みにするような凄まじさだ。魔物と称するに相応しい恐ろしさと未だかつてない激しさの憎悪を向けられて、シュードの足が一呼吸の間だけ射竦められる。
 そのわずかな怯みに付け入られた。魔物のボスがこちらに突進してきたのだ。シュードが受け止めようと剣を構えたその隙に、いつの間にか隣に立っていたセージが迎撃の意志を携えて槍を振りかぶる。ボスの最高潮に達した怒りは、何もシュードだけに向けられたものではない。そして、アルデバラン王国第三王子はただ守られることを是としない人物であった。
「なっ――」
 深緑の髪の青年が止める暇もなかった。氷属性の魔力を纏った大きな爪が、セージのほっそりとした左の前腕をざっくりと引き裂く。取り巻きを奪われて自らも窮地に陥った魔物のボスの、一矢報いたいが為の執念の一撃だ。セージは左腕を襲った衝撃に白く端正な顔を歪め、短い呻き声を漏らす。
「きゃあ!」
 とうとう生じたセージへの被害に、戦線から離れているリリィが悲鳴を上げる。シュードは叫ぶのをどうにか押し堪えたが、血の気が引くのはどうすることもできなかった。
(しまった……!)
「セージ君!」
「来ちゃ駄目だ!」
 だが、セージもただでは済まさない。カトレアが駆け寄る気配を察して制しながら、自らの後方に着地しようとする魔物のボスに鋭い一撃を見舞ったのだ。
「忘れんなよ……!」
 狼型の魔物の脇腹に突き刺さった穂先は煌々と揺らめく炎に包まれている。火属性の体術〔バーニングランス〕だ。
「てめえが俺の弱点突けんなら、オレもお前の弱点突けるんだよ!」
 氷属性の狼型の魔物は、火属性の攻撃に苦悶の叫びを上げる。アルデバラン王家の特殊術〔炎眼の剣舞〕で高められた物理攻撃力と火の属性攻撃の効果は覿面なようで、ついに魔物のボスはがくりと頽れる。

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