第二章 三十八
 その隙を狙ったルージュが再び〔スリープポーレン〕を浴びせた。カトレア達が成功を祈る数十秒の後に、今度は魔物の瞼が落ちてぴくりとも動かなくなる。何が功を奏したのかは分からないが、勝負を決めるのは今しかない。誰もがそれを悟ると、魔物の足元から直径五メートルはありそうな大きな魔陣が展開した。
「――〔シューティングボライド〕」
 ここぞとばかりにナスタが発動したのは、火属性の攻魔術であった。やはり静かで平坦な詠唱が呼び寄せたのは、大人の握り拳から頭程の大きさのいくつもの火球だ。魔陣目がけて降り注ぐ燃える流星に魔物は身を焦がされながらも、眠りの花粉で目覚めることはない。それを見つめるナスタのミッドナイトブルーの瞳には尾を引く火球の光が映り込んで、夜空に星々が煌めいているようだ。だが、平時と異なるのはその一点だけである。人形のように整った顔からは今も尚、何の感情も読み取れない。
 火球の雨が止んだその刹那、シュードが動いた。雪に閉ざされた極寒の森にあるまじき熱を物ともせず、魔物のボスに向かって駆けていく。右手の得物の刀身が黒々とした深い紫色に光るのと同時に、シュードの足取りが奇妙に変化した。まるで踊っているようだ。ナスタが見せた〔ホーリィワルツ〕のように――
「――〔スリーピングワルツ〕」
 闇属性の魔力を纏った剣が、狼型の魔物のボスの首を正確に斬った。それに込められているのはステップの優雅さとも、そこから繰り出される一閃の鋭さとも異なり、子守歌のように相手を眠りに誘う魔力だ。斬られた衝撃で腹這いだった巨躯が横倒しになり、そのまま呼吸と脈動を止める。深い眠りに落ちていた魔物は、そのまま永遠の眠りについた。一行は襲い掛かってきた魔物四体を全て仕留めたのだ。
 しかし、勝利を確かめたシュードには安堵に浸る暇など微塵もなかった。あろうことか、プレアデス王国第一王女と同じぐらい守るべきアルデバラン王国第三王子に怪我を負わせてしまったのだ。責任云々よりもまずは創傷の治療である。
(セージ殿下!)
「大変、早く治さなきゃ!」
「セージ君!」
 戦闘中は終始言霊使いに支えられていたヒーラーの少女がふらつきながら、セラピストの女性がルージュをリュックサックに乗せたまま、金髪の青年に駆け寄る。彼は右手の槍を支えに立っているように見えた。
「っ……!?」
「……こ、これは……」
 癒しのスペシャリスト二人がセージの左の前腕を見た途端に、顔と体を強張らせる。遅れて到着したナスタとリコリスも、同じような反応を見せた。そんなに酷い有様なのか――青ざめたシュードが最前衛から後衛に走って戻り、五人と一体に合流する。
「リリィ、カトレアさん、傷は――」
 セージの左腕を覗き込んだシュードもまた、怪我の具合を問う言葉と動きを途中で止めざるを得なかった。前腕の三分の二を派手に裂かれた黒いロングコートの袖から見えるのは、皮膚でも血でも、ましてや肉でも骨でもなく、紫色の何かである。
 この状況も紫色の物体の正体も掴めない五人は、しばし沈黙するより他なかった。当のセージだけがきょとんとした顔で平然と立っているが、彼らの不自然な硬直と気まずい静寂を崩す勇気がないらしく、気圧されて何も言えずにいる。
「……人の腕に紫色のものって、何かあったっけ?」
 たっぷりの間の後に、リコリスがようやく言葉を絞り出した。それは、五人が上手く働かない頭でどうにか導き出そうとした疑問の一つであった。
 生真面目だが頓珍漢な問いかけに答えたのは人体に精通したヒーラーでもセラピストでもなく、セージだった。
「違うぞ、これはオレの防具だよ」
 明るい茶色の目を瞬いてそう言うなり、彼は左の袖を捲ってみせる。分厚い生地を一度に何枚も引き上げるのは前腕の半ばまでが限界であったが、それで十分だった。黒いコートと暗い灰色のニット、真っ赤なインナーの下から現れたのは、金の縁取りに赤と緑のエレメントストーンがあしらわれた紫色の防具である。
「……ああ、そういえば、キミ、着けていたね」
 カトレアとルージュは知る由もないが、これはアルデバラン王国の服を着ていた時に確かに彼の両の前腕を覆っていた代物だ。アルバレアの港に着いたばかりの四人と出会ったリコリスが、意訳すれば見覚えがあると呟いた。驚きと呆れのあまりに感情と抑揚が吹き飛んだ、見事な棒読みであった。
「じゃあ、怪我は」
 微かに震える声で呆然と尋ねるリリィに、セージは頭を掻いて視線を逸らしてからぼそっと答えた。
「……してねえよ」
 どことなく気まずそうで気恥ずかしそうなのは、五人の心配が伝わっていたからであろうか。彼にしては女性に対する態度なのに少々ぶっきらぼうな物言いで極々簡潔に語られた事実に、ナスタを除いた四人は一斉に脱力した。今になって思えば、負傷したにしては随分とあっさりとした反応だった。短い呻き声だけで耐えたのも、痛がっているにしてはそこまで酷くなかった顔の歪みも、セージが痛みに強いのか、あるいは浅い裂傷で済んでいたのかと勝手に解釈していたが、そもそも怪我をしていなかったのだ。そういえば、狼型の魔物のボスから攻撃を受けた際、腕から出血したのを確認できなかったのはシュードだけではないが、誰もが患部をこの目で見ていないだけでてっきり負傷したのだとばかり思っていた。そして、骸と化したボスの爪には血液など付着していない。本人にも敵にも確認する余裕などなかったが、あの反応は本当に衝撃に耐えただけの話らしい。ついでに言えば、ヒーラーとセラピストが駆け寄った時のセージが槍を杖代わりに立っているように見えたのも、単にシュード達の誤った思い込みによる補正が働いた錯覚だったのだ。
「なんだ、キミの血は紫色なのかと思ったよ」
 皮肉をさらりと言ってのけたリコリスの笑みは、引きつって歪んでいる。
「……んな訳ねえだろ」
 そう返すセージの頬が赤いのは、寒さと立ち回りで良くなった血の巡りの所為だけではなさそうだった。


 大物を倒した一行はアルバウィスの森を引き続き歩いて、六つ目の憩いの小屋に辿り着いた。昼食時を大分過ぎて、甘い間食を楽しむ時間帯に差し掛かった頃合いだった。

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