第二章 三十九
これ以上進むのは危険だと判断したシュードが、今日の宿はここにしようと提案する。反対する者は誰一人としていなかった。皆が、特に狼型の魔物の群れと戦った者が、思ったよりも長引いた戦闘で疲れていたのだ。この調子で次の宿を目指せば、真っ暗で危険な極寒の森を彷徨う羽目になるであろう。おまけに、どんよりと暗い鈍色の空はいつ雪が降り出してもおかしくない印だとベテルギウスの民二人が警告するのだ。安全を最優先にすることにした一行はようやく取れた昼食を噛みしめつつ、夕食はいつもより一、二時間遅らせると決めた。
それまでは建物の中で自由行動にしようと、六人が食堂で解散した直後であった。
「……あの、カトレアさん。ちょっとだけ、いいですか?」
「どうしたの? リリィちゃん」
部屋に戻ろうとするセラピストを呼び止めたのは、ヒーラーの沈んだ声であった。あからさまに元気のない様子に、カトレアは中腰になって少女の愛らしい顔を覗き込む。伝えたいことがありそうなのにただ視線を足元に落とすリリィに、カトレアは慈母のように微笑んだ。
「私達のお部屋でお話ししましょうか」
リコリスにルージュの世話を言付けてから部屋に入ると、カトレアはリリィにソファーを勧めた。言われるままに腰を下ろした明るい茶髪の少女に「お茶はいかが?」と尋ねると首を横に振るので、赤茶色の髪の女性はそのまま向かいのソファーに座る。
「どうしたの? リリィちゃん」
リリィは膝の上の両手をきゅっと握ったが、拳を見つめるだけで口を開こうとしなかった。余程言いにくいことなのだろうかと慮ったカトレアは、頬を撫でるような声色でそっと促す。
「何でも言っていいのよ」
それでも黙りこくるリリィを、カトレアはただ待った。雪が降り始めて静けさの増した部屋で、暖炉の火が爆ぜる音だけが響く。数時間のように感じられる数分の沈黙の後に、リリィのおずおずとした声が静寂を震わせた。
「……あたし、その……戦うのが、嫌なんです」
未だに落としている視線の先にある握り拳は、声と同じように震えていた。ようやく零せた一言を皮切りに、呟くような擦れ声がぽつりぽつりと続く。
「どうして、こ……た、倒さなきゃ、いけないんですか」
リリィは命を奪う行為を直接言葉にするのも憚られるのか、わざわざ言い直してまで心情を吐露する。焦げ茶色の大きな瞳が揺れ、眉と手が涙を堪えようと強張る。
「魔物だって、生きてるのに」
今にも泣き出しそうなリリィの前に両膝をついたカトレアは、少女の華奢な肩にそっと右手を置いた。はっと顔を上げたリリィは、その手の柔らかさと慈悲深き女神のような笑みを湛える若葉色の垂れ目に、妙に気恥ずかしくなってきた。顔に熱が集まるのが抑えられない。それと同時に、沈んだ心を両手で掬い上げられたような気がした。何も言われていないのにその笑顔だけで全てを肯定されたような、そんな心地だ。
(これがセラピストなのかな……?)
心理的なケアに長けた癒しの国家資格保有者の仕草に、リリィは何故だか葛藤を鎮められた。根本的な解決など何一つしていないのに、言葉も使わずに悲しみを宥められたのだ。
呆然と見つめるリリィに、カトレアは一層目を細めただけだった。
一行は夕食を口に運びながら、翌日の予定を立てた。出立は昨日と同じ時刻、次に向かうのはここから北西にある憩いの小屋だ。アルバウィスの森の中央部にも関わらずなかなか出会えない捜し人を不思議がるリコリスとカトレアに、シュード達は内心で申し訳なく思いつつも「約束したのではない」「こちらが勝手に追いかけているだけだから」と、ここ数日で何度も絞り出した言い訳を交えて相槌を打っていた。
食事も入浴も済ませたセージがナスタとリリィの部屋に赴き、一人残ったシュードが部屋のソファーである物を眺めていると、ドアを叩く軽やかながらも控えめな音がした。
「シュード君、少しだけいいかしら」
ノックの後に聞こえてきた女性の穏やかな声に、シュードは顔を上げた。忍びの旅の一時的な同行者に応え、立ち上がりながら手の中の物を巾着袋にしまう。チェルシーが落としていった、円く青いエレメントストーンに金細工が施されたブローチであった。主たる姫君から桜色の巾着ごと預かっていたそれを腰の鞄にしまい、何事もなかったかのような顔でドアを開ける。
「ごめんなさいね、ちょっとだけお話をしても?」
頷いたシュードがソファーを勧めると、彼女は応じつつ、こちらが何も訊いていないのにリコリスには部屋で留守番をさせているのだとまったりとした調子で笑った。そしてセージの所在を訊ねてくるので、正直に告げると「そうなの」と何の疑問も持たない顔でまた笑う。本題に入らんが為にどうしたのかと問えば、カトレアは柔らかな曲線を描く眉を八の字にした。
「リコリスのことなのだけど」
空色の髪の言霊使いがどうしたのだろうか、と深緑の髪の青年が内心で首を傾げると、赤茶色の髪の女性のぽってりとした唇からこんな文言が飛び出してきた。
「あの子は……十年前に保護したの」
あまりに突然の打ち明けに、心の準備ができていなかったシュードの心臓が大きく脈打った。それでも尚、シュードはどこかに冷静な自分がいることに気が付いていた。カトレアはわざわざ一人で自分を訪ねてきたのだから、只事ではない可能性は最初からあった。それに、リコリスとカトレアとの間に恐らく血縁関係はない、その二人が同居しているのは訳ありなのだろうと、既にナスタと話していたのだ。それが今、当人から明かされるだけの話だと、騒ぐ鼓動を鎮めようと己に言い聞かせながら、シュードは続きを促した。
「私が十七歳の時だったわね。あの子は、私の家の前をうろうろしていたの」
視線を膝に落としたカトレアの若葉色の垂れ目は、憂いを帯びて見たことのない色をしていた。長い睫毛が影を落として物理的に彩度を落としているのとも異なるように思えるそれは、すぐに額の中央で分けた前髪に隠れてしまう。出会って一週間も経っていないシュードが言えることではないかもしれないが、そのわずかな間の中でずっとリコリスとルージュ、そして異国からの訳ありの旅人四人を慈しんで微笑んでいたカトレアらしくない、似つかわしくないとただ感じた。
その単純な思考に引っ張られたシュードは、つい疑問を口から滑らせてしまった。
「十七歳ですか?」
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