第二章 四十三
 何の前触れもなく、何かが爆発したような音が雪に閉ざされた早朝の森を裂いたのだ。爆発というには幾分小さいが、その鋭さは只事ではない。聞いたことのない音に一行は思わず身を竦める。一拍遅れてシュードが伏せるように指示を飛ばそうとしたところで、ナスタを除いた四人の足元にいつの間にか魔陣が展開しているのが視界に飛び込んできた。この魔力が一行の誰のものでもないと一目で悟ったシュードは、弾かれたように叫ぶ。
「これから出て下さい!」
「――〔マリオネット〕」
 迅速なシュードの避難命令は、誰も実行できなかった。従わなかったのでもないし、薄紫の髪の女の詠唱にかき消されて届かなかったのでもない。チェルシーが黒い革の手袋に包まれた左手を掲げた途端、四人の体がぴくりとも動かせなくなったのだ。瞬きと呼吸、発声はできるが、体の大部分の自由が利かない。
「っ!?」
「なっ、何これ!?」
「体が全然動かせねえ!」
「しまった……!」
 三人の狼狽える声を聞いて、シュードの血の気が引いた。ナスタの無事を確かめるべく本人に問えば「……平気です」と微かに揺れた返事が聞こえる。近衛騎士は姫君の現状がその言葉通りであることを願いつつ、せめてこの魔陣の効果と術者を暴こうと、意のままに動かせた眼球を足元と敵に向けて分析を試みる。
(この魔力はあの女のものだが、魔陣は別人……?)
 体を縛める魔力の持ち主はすぐに判別できたが、眼下のこれは誰が描いたのか――深緑の目が辿り着いたのは、アズール・ブルーなる組織の幹部だと名乗った二人の女ではなかった。
(……あの者か!)
 四人の足元に描かれている魔陣の術者を見破ったシュードは、チェルシーの後ろに控えている人影を睨みつけた。長いローブとフードでよく分からないが、背丈はチェルシーよりも低い。ナスタとそう変わらないか、ほんの少しだけ高い程度だ。目元だけを隠す蝶のような仮面の下の目と視線が交わった気がしたが、すぐに逸らされてしまった。その瞳は灰色だったように思えるけれども、今はそんな些細なことに気を取られている場合ではない。
「……そなたは……操り師、ですね」
 魔の手を逃れたナスタが、ミッドナイトブルーの目を細めて四人を捕らえた者の正体を言い当てた。視線を受けたチェルシーが、左手はそのままに再びその豊かな胸に右手を当てて恭しく腰を折ってみせる。一礼の際に左脚を前に出すと、太腿の半ばよりも深い大胆なスリットからすらりとしているのに艶めかしい脚が零れた。
「左様にございます、ナスタ様」
 ――操り師とは、特殊民族の一つだ。その能力はその名の通り、対象を意のままに操ることである。細工師と呼ばれる特殊民族と似た性質を持つように思われがちだが、決定的な違いがある。細工師は操作の対象が術者の手製の創作物に限られるが、操り師は人工物でも自然物でも生体でも、家系ごとに異なるがその血が定めるもの全てだ。また、操り師は紫色の髪と緑色の目、向かって右側が大きく膨らんだ歪なハート型の赤い魔紋を持ち、一族の証を魔紋と同じく歪なハート型の赤いエレメントストーンの装飾品としていた。チェルシーもまた、彼らの身体的特徴とぴったり合致している。イヤリングもそうだ。魔紋はどうだか知る由もないが、今まさに三人にかけられている魔術も操り師の特殊術である可能性は否めない。
(不覚……! 操り師だったとは!)
 まんまと嵌められたシュードは己の迂闊さを呪うより他なかった。王族と霧の民の王家直属ヒーラー、そして何の罪もない一般人と魔物の幼体という守るべき存在がありながら、呆気なくこんな窮地に立たされたのだ。追っていた女が稀有な特殊民族だとは知らなかったなどという言い訳が通じる筈がない。
「さあ、ナスタ様。この魔陣にお乗りいただけますね?」
 意地の悪い笑みが堪えきれないエリカの半ば脅し文句の言葉に、シュードは反射的に声を張り上げた。今できることはこれしかなかったのだ。
「ナスタ様、お逃げ下さい!」
 しかし、ナスタはその場を離れようとしない。チェルシー達の顔を真っ直ぐ見据えてから、シュード達の背中を見つめて首を横に振った。
「……できません」
 小さく平坦で、しかし通る声がシュードの懇願を拒否したのを、この場にいる全員が確かに聞いた。エリカが嗜虐的な笑みを浮かべ、チェルシーが半開きの目をさらに細める前で、血相を変えたシュード達が口々に促しを背後のナスタに叫ぶ。
「なりません! どうかお逃げ下さい!」
「お願いです、ナスタ様!」
「オレのことなんか気にすんな、逃げろ!」
「ナスタ、駄目だ!」
 それでも、ナスタは動こうとしなかった。一行の言うことには耳を貸さないとの意思表示か、四人の真後ろから右にずれて彼らの前に進み出てからチェルシー達を睨むと、こんなことを言い出したのだ。
「……私が、その魔陣に乗れば……皆さんを、解放しますか?」
 とんでもない交換条件を持ち出してきた姫君に、近衛騎士は愕然とした。唇を噛み切るか奥歯を割る程噛みしめたいのにそれすらも叶わない自分が、そもそもこのような事態を引き起こしてしまった自分が憎い。煮えくり返りそうな腸が薄紫色の髪の女の冷たい手に掴まれているような、そんな心地がする。
「勿論ですよ、お約束致します」
「んな訳あるか! いいから逃げろ、ナスタ!」
 妖しく美しい笑みがするりと言ってのけた胡散臭いことこの上ない快諾に、セージが吼えた。アズール・ブルーの者達は仮に四人を自由の身にしたところで、その瞬間にでも捕縛の魔陣を発動させてくるだろう。そうしない理由など皆無だ。十中八九、いや間違いなくナスタが捕らわれの身になるだけである。それは提案した本人も重々承知している筈だ。
 しかし、それでもプレアデス王国第一王女はこうするより他ないのだと明確な意思を以て静々と歩を進め、魔力で描かれた円陣に何の躊躇いもなく乗ってしまった。
「っ!」
 すると、魔陣からごく淡い水色の光の壁が迫り出してきたのだ。魔力の障壁は六角柱の片方の底面に六角錐を付け足した立方体を瞬く間に形作り、ナスタを内包する鉱物のような美しい檻となる。巨大な水晶に見えるそれに閉じ込められたナスタの目が見開かれ、その様を目の当たりにしたシュード達が絶叫する。ほぼ確定していた事態だと頭では理解していても、いざ罠に嵌められたナスタを前にすれば叫ばずにはいられなかった。

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