第二章 四十六
 それは、つい今しがたまで雪と極寒の森の早朝の空気の他には何もなかった筈の三人の背後に悠然と停泊する、大きな空船であったのだ。シュードが三人の魔力を見た時には、確かに不審な点は見当たらなかった。強いて言えば、魔力の補強要員が現れた際に空間が不自然に揺らめいたように見えたのと、フードの人物が右手を向けたその瞬間に空船の真下に隠されていた魔陣が現れたかと思えば消滅したのを認めただけだ。
「な、何これ!?」
「どうなってんだ!?」
「空船がこんな所に……!」
 狼狽える四人を後目に、エリカがくるりと踵を返して空船に向かって行った。無防備に背中を見せるのは、シュード達が縛めに抗えないのを確信している証左である。十人のフードを被ったローブ姿の者達も当然のように続いていくのに、一行は歯痒いどころではない。
 敵全員が甲板に上がると、再び仮面の人物が右手を差し出した。今度はナスタを閉じ込めた水晶のような檻がゆっくりと魔陣の主の元へ引き寄せられていく。
「ナスタ様、お目覚め下さい!」
「ナスタ様、起きて下さい! 連れてかれちゃう!」
「ナスタ、起きろ! 早く!」
「ナスタ! ルージュ!」
 四人の必死な叫びにもついぞナスタは意識を取り戻すことなく、一行は何もできないままで捕らわれた姫君が敵の空船に乗せられるのを見つめることしか叶わない。
 甲板の上で浮遊する鉱物の結晶体のような檻に馴れ馴れしく片手をついたエリカが、意地悪そうに眉も口の端も吊り上げてみせた。
「――確かに、この御方は頂戴してくよ。おまけまでくれるなんて、何だか悪いねえ」
「誰が渡すと言った!」
「ふざけんな!」
「おまけじゃないわよ、みんな返しなさいよ!」
「姉さんもルージュも、ナスタも返せ!」
 申し訳ないとは微塵も感じていないのに口先だけで言ってのけ、白い息を伴う怒声の数々を平然と受け流して、橙色のサイドテールの女はフードを目深に被った仮面の軍団を引き連れて船室に消えていった。その背中を頭の血管が今にも切れそうな一行が見送る中で、明るい茶色の目が何かを捉えて見開かれる。
(あれは……!)
 四人の心境など知らぬ存ぜぬ何のことやら、といった風情の甲板に残った薄紫色の髪の女と魔陣の作り手が、ナスタを内包した水晶のような檻ごと後に続こうとする。
「待て!」
 シュードの斬りつけるような声に、チェルシーが歩みを止めて振り返った。つられてローブと仮面の人物も立ち止まって一行を顧みると、続けて女に視線を送る。本当に待ってくれるとは思っていなかった彼はいささか面食らい、動揺を不自然な無言の間として数秒曝してしまった。それをどう捉えたのか、チェルシーはこんな呼びかけを放った。
「ねーえ、ボ・ク・た・ち。西の大国の首都の近くの遺跡、知ってるぅ〜?」
 この状況において「ボク」とはシュードのことであろう。そういえば、プレアデス城で対峙した際にもこの何とも人を小馬鹿にした呼び方をしていた。艶めかしく動く唇から紡がれる甘ったるい口調が一行の耳を擽る。女とは数メートル離れて対峙している筈なのに、耳元で囁かれている錯覚に陥る粘つき方だった。
「スピカ王国……?」
「スパイカの近くの遺跡が何だってんだ!?」
 この状況とは何の脈絡もないように思える話を投げかけてきた操り師に、シュードが訝し気に、セージが苛立たし気に応じる。すると、翡翠色の半開きの目が蠱惑的に細められた。
「その遺跡の入り口に、私に会いに来てくれる〜?」
 あまりに突然で勝手な誘いに、一行は絶句した。この女は一体何を言っているんだ――そう思っているのは、どうやら一行だけではないらしい。フードと仮面の人物も、チェルシーを凝視して固まっている。すると、女が魔陣の作り手をちらりと見やって片目を瞑ってみせた。茶目っ気よりも色香の濃い目配せに、相手は素直にこくりと頷く。仮面に隠されていない頬が染まったように見えた。
「――じゃあ、待ってるからねん」
 チェルシーは身勝手な約束を強引に押しつけて、一方的に話を打ち切ってしまった。到底納得いかない四人が文句を言おうとしたところで、それぞれの目が見開かれる。空船が離陸したのだ。このままでは、ナスタ達を連れ去られてしまう。
「貴様、どこへ行く!?」
「待てよ!」
「ちょっと、みんなを返してよ!」
「話は終わっていないよ!」
 一行は口々に抗議を飛ばすが、体を拘束する魔術は解けず、空船の上昇は止められない。みるみるうちに甲板の敵二人、そしてごく淡い水色の結晶状の檻に閉じ込められて意識を失ったナスタの姿が見えなくなっていく。
「またねぇ〜」
 四人の話を聞く耳を持たない操り師の女が、再会を前提とした別れの言葉を甘ったるく放った。それを最後に、空船が速度を上げてベテルギウス特有の背の高い針葉樹林よりも遥か高くへと昇っていく。
「ナスタ様――!!」
 シュードの喉が切れたような無念の絶叫が、早朝の極寒の森に木霊した。


 それから数分が経過し、姫君とセラピスト、ドーリィローズの幼体を誘拐した空船が四人の視界から消えた途端に、彼らの体が膝から崩れ落ちる。張り詰めていた糸を切られた操り人形のようであった。魔術と魔陣の効果が消えたようだ。
「……どうしよう……ナスタ様が……」
 放心状態で力なく呟くリリィの前で、セージが握り拳を白い大地に叩きつける。昨晩降り積もったばかりでふわふわの新雪が無残に舞った。
「シュード、どこに行くのさ」
 立ち上がったリコリスの問いかけに二人がシュードを見れば、彼は広場の入口へとまっしぐらに進もうとしていた。
「憩いの小屋に戻る。絨毯で追いかける」
 突進の勢いで歩みを止めない深緑の髪の青年の追跡宣言に、三人は顔色を変えた。空を見上げれば、南西の方角に小さくなった空船の後ろ姿が確かにある。しかし、隣町への移動に気軽に乗る空飛ぶ絨毯と天空に浮かぶ島々を渡る唯一の手段である空船では、速度も持久力も安全性も比べるまでもないのだ。シュードが腹の底に秘めた業火の如き怒りのあまりに冷静さを欠いているのは間違いない。表面的には落ち着いた声音で明かされた非現実的な思惑に、リコリスが即座に「無理だよ」と冷や水を浴びせる。静かな調子ではあったが、容赦のない物言いであった。

- 84 -
*前へ表紙へ次へ#

書庫へ トップページへ
ALICE+