第二章 四十八
 アルバウィスの森の夜明け前の空気にも劣らぬその声の冷たさに、リリィは愚問をぶつけたことを、シュード達はとんでもないことを少しでも考えたことを酷く後悔した。大切な人達をおまけ呼ばわりされた挙句に連れ去られた理不尽を誰よりも呪いたいのはリコリスの筈である。表に出さないだけで彼女の心を疑うなど、こちらに余裕がないからと言ってしてはならないのに。八つ当たりはおろか取り乱すことすらしないこの小さな痩身が、若干ではあるが年長のシュード達よりも余程成熟した大きな器の持ち主に思える。
「ご、ごめんなさい……」
 リリィが小さくなって謝ると、リコリスは不愉快そうに鼻を鳴らした。しかし、不機嫌な童顔はすぐに何かを考え込む表情を作る。
「キミ達が捜していたのは薄紫色の髪の女だったよね? それに橙色の髪の奴がいたけれど、残りの一人は何者?」
 その問いかけに、三人もフードを目深に被って蝶のような仮面で目元を隠したローブの人物を思い浮かべた。魔力の可視化に優れたシュードが顎に手をやり、自らが見たものから得た推測を呟く。
「あの者が魔陣の作り手だと思うのだが……」
「じゃあ、魔陣師か?」
「きっとそうですよ。いくつも同時に魔陣を作って使えるんですもん」
「リリィちゃん、敬語はなし、な」
 ここでセージが敬語をやんわり注意するやり取りをリコリスの前で初披露する羽目になり、リリィは口をぱっと両手で押さえる。その様子に苦みが強いものの笑みを浮かべたセージが、何かを思い出したようなごく短い感嘆詞を漏らした。
「あ。そういえば、何か爆発みたいな音がしたと思ったら魔陣が展開したよな。それまでは、あそこにあった魔陣は一つだったのに」
 魔力は本来であれば目に見えないが、魔術として効果を表せば可視化能力がなくても大抵のものは視認できる。魔陣ならば発動直前のものも同様だ。魔力を見られないセージの発言に、魔力を見ることを苦手としているリリィも首を傾げる。
「確かにそうでしたよね。あれ、何だったんでしょうね? 聞いたことない音でしたけど」
「あの音がする何かで、わ……俺達の足元に魔陣を描いたのでしょうか」
「ボクも分からないけれど、あの音でボク達の気を逸らした隙に魔術を発動したというのも考えられるね」
 一行は次々に推理を述べていくが、シュードは内心で頭を振っていた。この目が確かであれば、違うのだ。プレアデスの近衛騎士は数秒の逡巡の後に、言いにくそうに切り出した。
「……その、一ついいか?」
 シュードは三人の不思議そうな顔を前に、迷いと動揺で重たい舌を慎重に動かす。
「あの場にあった魔陣は、恐らく一つだけではない」
「ど、どういうこと?」
 皆の心情を代弁した霧の民の少女に、シュードは「俺も自分の目が信じられないが」と断ってから我が目が見たものと推測を打ち明ける。
「あの空船の下に魔陣があったようだ。俺は聞いたことがないが、魔術には魔力で物を隠すか瞬時に転移させるものがあるのかもしれない」
 三人の目が大きく見張られる。確かにあの場には何もなかったように見えたが、ならば何故空船は忽然と姿を現したのだろうか。浮遊していたのが着陸したのではない、広場に停泊していたのがヴェールを脱いだか別のどこかから一瞬で移動してきたかのように一行の視界に飛び込んできたのだ。それを踏まえると、手品のような魔術が本当に存在するように思えてくる。仮にそのような魔術があると仮定して、その魔陣が見えなかったのは魔力を隠す細工が施されていたのだろう。魔物避けの魔陣などには高い視認化能力を有する者でなければ魔力を見透かせない仕掛けが採用されているので、それを悪用したのかもしれない。
「キミ、よく見つけたね」
「すげえな。……でも、何でそんな手の込んだことをしてまでナスタ達を誘拐したんだ?」
 考えても考えても分からないことだらけだった。真相など本人に問い質せば判明するだろうが、生憎逃げられたばかりである。
 焦げ茶色の目の少女はひとしきり唸ると、抽象的だけれども事の根底に近い疑問を投げかけた。
「そもそも、チェルシーとかいうのもエリカっていうのも、何なんでしょうね?」
「アズール・ブルーの幹部、と名乗っていたけれど」
 サファイアブルーの目の少女が答えたが、皆が求める答えと異なるのは本人も自覚していた。リリィは恐らく素性ではなく目的を問うていたのだ。リコリスの解を採用するならば、ではアズール・ブルーとは何なのか――謎が謎を呼ぶとはまさにこのことか、と深緑の目の青年が頭を抱えたくなったその時、明るい茶色の目の青年がちょこんと挙手した。
「それなんだけどさ、オレ、エリカの方はちょっとだけ分かったかも」
 思わぬ一言に、三人はセージを凝視する。その視線と表情の物々しさに、セージは怯んでしどろもどろに前置きを始める。自信なさげに両手をひらひらと左右に振るその様子は、王家に名を連ねる者ではなく素朴な青年のようだった。
「いや、マジで些細なことだし、違うかもしんねえし、そもそも役に立たないかもしんないけどさ」
 それでもいい、構わないから、と縋られて、セージがようやく本題に入った。
「あいつ、アルデバラン出身かも」
 推測の内容を掴めない三人は固まった。確かにエリカに纏わる事柄ではあるが、どうして彼女が生まれたか育ったと思しき国がアルデバランではないかと思い至ったのか。シュード達が問う前に、当人が答えた。
「リュックサックの飾りがアルデバラン式だったんだ」
 聞けば、アルデバラン王国の伝統的で特徴的な飾りはレースアップなのだと言う。リボンや紐を交差して編み上げられた、単純な作りながら華やかなそれはスピカ王国をはじめとする他国でも見られるが、アルデバランを象徴する代物だそうだ。そういえば、セージの灰色のリュックサックの蓋にも赤い革紐のレースアップがあしらわれている。エリカの深い茶色の革のリュックサックの蓋では、明るい茶色とその縁取りに黄土色、その上に鮮やかな黄色でリボン状の革紐が何回も交差して蝶結びを作っていたらしい。よく見ていたものだ、とシュードとリコリスは密かに感心した。リリィが目を輝かせて「すごいです」と褒めるものだから、セージは気取って「まあな」などと返している。先程までの不安そうな彼は一体どこに行ったのだろうか。

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