第三章 三
旅立つ前から抱いていた疑問が奥底から浮かび上がってきたのと同時に、職員から再び想定外の事実を知らされる。セージ宛の手紙はともかくとして、ここでどうして服が、もしや異国の服では何かと困るとのお気遣いか、ではそれは誰の――内心で次々と自問自答を繰り広げるシュードに、もう一人の職員が申し訳なさそうな苦笑いで手続きを求めてきた。
シュードは何事もなかったかのようにカウンターに向かう左のソファーに座り、簡潔な礼を述べて席を立ったセージが入れ違いに壁際のソファーに腰を下ろす。
千歳緑の単に黄朽葉色の革の鎧を重ねた肩につかないぎりぎりの長さで切り揃えられた深緑の髪が揺れる。名前を書き終えても職員の営業スマイルは崩れない。それはそうだろう、何の問題も起きていないのだから。むしろ、豹変されたら困る。シュードは平穏無事な入国を望んでいたし、障壁になり得る事柄とは何たるかも想像ができないけれども身に覚えはないので、容易に叶うと思っていた。その心積もりで、祈るように魔力を注ぎ込んだ。
それなのに、目の前の職員達の表情に一瞬影が差したのはどういうことなのだろうか。
(……嘘だろう?)
何がいけなかったのかは見当もつかないが不具合が生じたことだけは察したシュードに、入国審査官が落ち着いた様子で認証失敗を告げた。思いっきり跳ねた心臓が頭を殴ったようだ。世界が揺れる錯覚に陥る中で、一日に二、三人はこうなるのだと慰めるような声が取ってつけたように聞こえたことよりも、背中に感じるセージの視線が気になる。振り向いて一言でも謝罪したい衝動に駆られたが、職員に真名での再挑戦を提案されると共に身分証明ができる持ち物の有無を尋ねられた。
それで幾何かの冷静さを取り戻したシュードは、予め用意しておいた答えを努めて平静を装って口にした。己の剣はプレアデス七大貴族が一つマイアキャッスル族に伝わる一振りであること、刀身を収めた状態で鞘のエレメントストーンに一族の者が魔力を注ぐとマイアキャッスル族の紋章が浮かび上がることを審査官に伝える。職務でこの手の仕掛けを多数見てきたらしい相手はすぐに納得したようで、事務的だが柔らかく、それでいて恭しい態度のままで提示を促してきた。
深緑の髪の青年は腰から長剣を外してカウンターに置く。刀に似た造形の剣の柄は青地に青紫色の柄糸が規則正しく巻かれ、鍔は凝った装飾がなくとも凛と佇んでいた。鞘は目の覚めるような鮮やかさと吸い込まれるような深さを併せ持つ美しい瑠璃紺色で、その先端の金細工の中に真珠のような魔石が一粒と紫色をした雫型のエレメントストーンが六個埋め込んである。
職員達が感嘆のため息を漏らしたところで、シュードは七個の魔石に右手を翳した。魔力を流し込むと瞬く間に現れた紋章を、審査官二人が手元の本と見比べる。マイアキャッスルの族紋が載っている資料であろう。
次に、真名を新しく差し出された紙に書いた。シュードルード・ミラード=マイアキャッスルと整った筆跡で記したそこに、今度こそはと願いながら右手を翳す。確認を終えた職員は微笑を拵えたままであった。
「確かに、ご本人様とお見受け致します」
シュードは待ち望んだ一言に脱力したいのを堪えて「身分証明となるか判断しかねますが」と断りつつ、プレアデス国王から賜った勅命の証の所持を付け加えた。するとこれも提出を求められたので、腰の鞄から藍色の巾着を取り出し、中の六弁の花を模した乳白色と藍色の石細工をカウンターに乗せる。審査官が石細工に魔力を注ぐとプレアデス王家の紋章がふわりと浮かび上がった。もう一人が確かめても、施された魔陣は所持者がプレアデス国王の名の元に行動していることを示した。
「確かに、貴方様はプレアデス国王陛下が仰せのシュード様のようですね。大変失礼致しました」
職員達が深々とお辞儀したのを見て、貴族騎士の中でようやく認められた安堵と顔を上げて欲しい焦燥が一瞬で湧き上がってせめぎ合った。一つ瞬きをした後に僅差で後者が勝ち、「いえ、そんな」と慌てて制すると、二人は全く同じタイミングで頭を上げる。その笑顔が本心からの歓迎を表しているように見えるのは、こちらの心情が化粧を施したが故の見間違いであろうか。
「奥の扉の向こうに個室をご用意しております。もしよろしければ、そちらでお召し替え下さいませ」
シュード達が審査を終えた頃、下船したリコリスとリリィは職員の誘導を受けて船着き場にある大きな三つの門の中央を潜った。
淡いクリーム色の石造りの関所のロビーはエレメントストーンとガラスのランプに照らされていた。金属と木の板を組み合わせたシンプルなベンチが十六脚並んでいて、その座面には薄手の長座布団が敷いてある。左右の壁には木製の大きなカウンターが二つずつあり、可愛らしい花を咲かせたいくつかの植木鉢が華やぎを添えていた。カウンターの間には素朴な石造りの暖炉が鎮座している。リコリス達は到底あずかり知らぬことだが、中流階級の関所は上流階級のものと比べると格段に質素であった。決して質が極端に悪いのではないけれども、上流階級の関所が貴人をもてなす為の空間だとすれば、中流階級の関所は検められる為に出入りする人々の待機所と言えるかもしれない。花や観葉植物を飾ったり、四十八人が一度に座れるだけの長椅子を用意したりしているので、心配りが皆無だとは言わない。ただ、上流階級の為に設えた部屋が豪華すぎるのだろうか。二人の気を引いたのは内装の質よりも職員専用と書かれた札が下がった物も併せて十六枚もの扉が一面に並ぶ光景だ。これだけの出入り口が一堂に会するのはそうそうお目にかかれまい。プレートが下げられたドアはカウンターの隣や奥にもあって、この建物の構造に首を傾げたくなる。
明るい茶髪の少女が物珍しそうにきょろきょろする隣で、空色の髪の少女は同乗していた四人組が奥にある十六枚の扉の一つを叩いて入っていくのを見ていた。彼らが開けたプレートのない戸には窓ガラスのように円い鉱物のような物が嵌めてあるが、不思議なことに、四人組がドアの向こうに消えた途端にタイル状のそれが黄色い光を淡く放ち始めた。どうやら中の職員が入退室の度にエレメントストーンを操作して部屋が使用中か否かを知らせているらしい。現在灯っているのは八つの内二つだから、待つ必要はなさそうだ。
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