第三章 四
「リリィ、行くよ」
「うん」
 傍目からすれば容姿も服の国籍も異なるけれどもしっかり者の弟か妹と天真爛漫な姉に見えなくもない二人は、左から五番目の扉を開ける。
 シンプルなデザインのドアの向こうでは木のカウンターが右手に待ち構えていた。カウンターの前には背もたれ付きの椅子が二脚と、それを挟むように三枚の仕切りが置かれている。部屋の左手にはロビーにあった物と同じベンチ、奥には今しがた開けた物と同じドアが佇んでいる。格差を知らぬ少女達は石造りの小綺麗な異国の役場だと感じたけれども、上流階級のそれと比べてしまうと、絨毯やシャンデリアがないこの部屋では花を植えた鉢が彩りとして申し訳程度に置かれているように見えるから不思議だ。同時に身分の壁の高さに恐ろしくもなる。
 カウンターの奥では二人の職員がにこやかに座っていた。言霊使いがアルデバランの王子の経験談を冷静に思い返す傍らで、ヒーラーは「すみません」と入国審査官に声をかける。
「あの、あたし達、スピカに来るのは初めてで。階級も多分中流で合ってると思うんですけど、自信もあんまりないんです。どうしたらいいですか?」
 直球で疑問をぶつける形で助力を乞う少女に、職員達は営業スマイルを崩さぬまま応じた。この手の質問は幾度となく受けているのだろう、職員の壮年男性と二十代に見える男性に動じる様子はない。
 職員に促されたリリィがカウンター前の椅子に腰かける後ろで、リコリスは長椅子に座った。会ったばかりの得体の知れない旅人達に家名も族名も明かした彼女だが、名前という個人情報の重要性は認識しているらしい。この世界では、仕切りがあっても真横に他者がいる状況で真名を扱えるのは隣人が互いの真名を知る者同士だけ、例えば家族ぐらいであろう。愛称と家名と族名を同時に明かすこともあまりないこのアズールにおいて、リリィの隣で名前を用いた審査を済ませる気はないというリコリスの無言の意思表示を、受け取った当人は何も思わなかった。至極当然のことなので、人生初の入国審査への緊張しか抱いていないのだ。
 手順を説明されたリリィは言われた通りに特別な紙に名前を書き、魔力を注ぎ込んだ。不安から無意識の内に両手を組んで祈るように魔力を行使した少女の焦げ茶色の目が開かれた時、映ったのは若い男性の穏やかな笑顔であった。
「確かにリリィさんですね」
「よかったぁ、失敗したらどうしようかと思っちゃいましたよ」
 明るい茶髪の少女は心配事からの解放の喜びを素直に吐露すると、何かに気付いたように両手を合わせた。プレアデス王国のヒーラーの制服、薬師袍(くすしのうえのきぬ)の存在を思い出したのだ。彼女が今纏っているこの服の襟ぐりには鮮やかなピンク色をした六弁の花の飾りが付いているが、中央の赤い魔石に着用者がプレアデス王家直属のヒーラーだとプレアデス王家が保証する魔陣が施されている。そして、自分の左のこめかみに咲く髪飾りは霧の民の証だ。どちらもリリィの身元を示す為に作られた物である。その真価を発揮するのは今、この場であろう。
 リリィが特別な衣と髪飾りの説明をすると、審査官達は親切そうな笑みを浮かべたままで確認を求めてきた。リリィが頷くと、壮年男性が「失礼します」と断ってから長さが五十センチメートル程の杖の先端を薬師袍の飾りに向ける。杖の黄色いエレメントストーンはリリィの胸元の赤い魔石に触れることなく魔力を行使し、プレアデス王家の紋章とヒーラーの紋章を組み合わせた模様を浮き上がらせた。続いて髪飾りにも杖が伸ばされ、今度は霧の民の族紋がふわりと現れる。両者は確かにその存在意義を果たした。
「ご協力ありがとうございました。リリィさんは中流階級で合っていますよ。はい、終わりです」
「はい、ありがとうございました。よかったぁ〜」
 プレアデス王家直属ヒーラーの霧の民は緊張で強張っていた愛らしい顔を安堵にふにゃりと崩して立ち上がった。それを見たリコリスは何を言われずともベンチから腰を上げてカウンターに歩み寄る。「お先に〜、待ってるね」と笑うリリィに頷き返し、リリィが座った席の隣の椅子を引く。リリィは長椅子にちょこんと座った。
 リリィが聞いたのと同じ説明を受けたリコリスは、彼女と同じように特別な紙に記名する。そして、魔力を流し込まんと黒い革の手袋に包まれた右手を翳した。すると、あろうことか、若い審査官の顔が曇ったのだ。不穏なそれを見て、本人が戸惑うよりも先に慌てたのは焦げ茶色の目の少女であった。
「えっ、もしかして、駄目だったんですか!?」
 困り顔のリコリスとあからさまに狼狽えるリリィに、壮年男性が優しく声をかける。一日に二、三人は失敗するのだと聞かされて、長椅子から腰を浮かせていたリリィは納得と不安が綯い交ぜの面持ちでゆっくりと座り直した。
 リコリスは真名での再挑戦の提案と身分証明となる持ち物の有無の確認を受け、承諾と肯定を返す。髪飾りとリュックサックのストラップが言霊使いの証であると伝えれば、相手は微笑を拵えたまま頷いて新しい紙を幼く見える子どもの前に置いた。
「ごめんね、ボク」
「いえいえ、決まりなんだからしょうがないです」
 サファイアブルーの目の少女は利発さをいくらか残しつつもあどけなさの強い笑みを浮かべた。いつもの大人びた態度はどこへ行ったのか、今は十二歳ぐらいの見た目相応の振る舞いだ。ベンチで待つリリィは不思議そうに目を瞬くが、若い職員はそれを連れが何をしているのか首を傾げたのだと解釈して簡潔に教えてくれる。その間に壮年の審査官がカウンターの下から本を取り出して捲っていた。家紋や族紋などが図説付きで載っている代物だ。リコリスが人を撲殺できそうだと物騒なことを考える程には分厚い書物であるけれど、これでもほんの一部に過ぎない。
 真名を書き終えたリコリスは再び小さな手を紙の上に翳した。リクロリンス・フルールス=アレスメールと読みやすい字で認められたその紙は、今度こそ望ましい反応を示すだろうか――心許なさそうに揺れる深く鮮やかな瑠璃色の大きな瞳に入ったのは、職員の穏やかな表情であった。
「はい、確かにリコリスさんですね」
「よかったぁ〜……」
 審査官の承認を得て真っ先に安堵を漏らしたのはヒーラーの少女であった。続いて言霊使いが胸を撫で下ろす。
 しかし、入国審査はこれで終わりではない。

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