ぶるり、肩が寒くて目を開けた。
 おぼつかない瞼が視界をぼやけさせ、瞳に映るものは一つとして頭に入ってこない。これはきっと脳がまだ寝ているのだ、名前はまどろみの海に揺られながら結論づけた。
 まるきり知らない場所で眠っていたような、間違いなく見覚えのある壁の染みを眺める。ここは名前の家だ。なのにそうとは思えなくて、奇妙な違和感に体を起こす。
 見慣れない布団の柄は、もう長い間しまいっぱなしにしていたもの。きっと寝たら痒くなるだろうから、日干しに出すまで使うのは控えておこうと思っていたのに。

「目が覚めたんだね。おはよう」

 名前は「なんでここにいるの」と言おうとして堪えきれず欠伸をこぼした。小突かれるようにして脳みそが昨夜の記憶を巻き返していく。腑に落ちない時点で針をとめ、記憶を流し、納得しては先へ進むを繰り返す。

「名前?」

 呼びかけられて、完全に醒めた。朝の一コマにしては眩しすぎる男が片膝をついてこちらの様子を伺っている。
 よれよれのTシャツが不釣り合いでありながら似合っているのはどういう仕組みなのか。そもそも名前の小汚い家にいること自体、合っていない。持ち前の図太さと天然ぶりをいかんなく発揮して堂々と居座っているのも奇妙な絵面に拍車をかけている。

「だっさい服」
「君が用意してくれたものだろう」
「ズボンの丈足りてないし」
「そうなのかい?」

 七分丈パンツに成り果てたジーンズに世の中の理不尽が全て詰め込まれているような、名前は朝から何を考えているのだろう。他人に寝起きを晒してしまった、朝一番の失態にひっそり滅入る彼女の心境など知る由もなく、アーサーは顔を洗ってくるよう促す。

「もうすぐ朝ごはんができるから」
「待てやい」

 事も無げに言ってのける男の首根っこを持ち上げる。つもりで届かず、ぐんと背中の服が伸びた。丸見えになったうなじが可愛い、場違いな感想が浮かぶ。「どうしたの?」不思議がるアーサーにこれといって気まずさ模様は見受けられず、名前だけが釈然としない。

「台所…触っていいなんて言ってない」
「自炊をしているようには思えなかったけれど」
「それとこれとは関係ないの」

 脇においてあったコンビニ弁当の空箱を見つけたのだろう。料理のできない女への当てつけにフライパンがコトコトゆれ、仕上がりの合図を鳴らす。ますますもって自分の家とは思えない、素肌を這いずる気色の悪さに立ち上がる。

「私の分はいらないから」
「他に食べるものを買っているのかい?」
「……とうぜんよ」

 朝食を抜くことは許さない。純然たる瞳に名前は「あとで食べる」の返答を飲み込んだ。彼女の寝相のおかげでくしゃくしゃになった布団を剥ぎ、届かなそうで届いた、雨に湿気る鞄をどうにか掴む。寝起き故のとろい動きで中身を探り、腹底から出てきた朝ごはんをアーサーに突きだす。

「私にはねぇ、これがあるの!」
「名前……」
「分かったら食事を済ませて出て行ってくれる」

 圧縮器にかけられたように原型を失った、元はパンであったもの。期限が過ぎているのでもなし、けれど食欲は煽られない。だが、歯ですり潰してしまえば形なぞ関係ない。名前は本気で食べるつもりだった。アーサーを納得させるに十分な理由であると思っていたから。

「残念だけれど、これは没収」
「あっ」

 あえなく奪われた。反射的に伸びた腕は彼の頭上よりも掲げられた高さまでは届かず、見事な空振りを繰り返す。些細なことであろうと己のアドバンテージをしっかり使いこなすところは、特にそれを名前に向けて発揮するのは好きでない。

「返して!」
「それから名前」
「無視するなっ」
「下も、履いてきてね」

 ギョッと足元を見下ろせば大きめのシャツを着せられた胸元を除き、腰から足元にかけて肌の色が露出している。半裸をさらけ出している姿はあまりに締まらないが、恥ずかしさよりも怒気の込もった血が頭に登った。

「あんたが脱がしたんでしょうが!」



 化粧をしなかったのはアーサーの言葉にほだされたからではなく。一度素顔を見られてしまった相手に繕う時間と気力を惜しんだからだ。幸いにも本日はどこかに出かける予定もあらず。試験を終えた自分へのご褒美として頼んでおいた豪勢な弁当を宅配から受け取るくらいだ。
 裏地に足を通し、畳と同化するように転がる端末を手に取る。どうしても気になることを確かめるため、隙あらばチェックしてばかりのアプリを起動する。並ぶ名前をどんどんスクロールしていけば、頭に浮かぶイメージ画はついぞ出てこなかった。

「(やっぱりね)」
「名前はコーンとコンソメどちらがいいかな?」
「ポタージュ」

 後方で湯を沸かしているであろう男は子供じみた返答をどう受けとったのか、カップにとぽとぽと注がれていくお湯の音ばかりが名前の耳に染みる。トーク履歴にも見当たらず、昨夜までハートいっぱいの絵文字を送っていた相手はもうどこにも見当たらない。
 分かっていたことではあるが、一夜明けて心は再び沈みかけの船となった。逃した獲物は大きく、あとには家政婦ごっこを楽しむ男が一人だけ。

「いつまでも隅でふくれていないで。準備ができたよ。一緒に食べよう」

 呼びかかる調子の軽さに、名前は地の底を這うような低いため息をこれみよがしに漏らす。肩越しに振り返れば苦笑いを浮かべたアーサーが綺麗な正座の姿勢で待っていた。洋食レストランにでも出てくるような美味しそうな朝飯も並んでいる。彼の対面には当然、彼女の分とおもわしき皿が敷かれていた。

「あんたさぁ...」
「ん?」
「私のこと好きなの?」

 どうせそんな訳ないのだからもっと戸惑えばいい。名前は男がいかに自分を言いくるめようとするのか気になった。

「そうだな...。嫌いではないと思うよ」
「じゃなきゃセックスなんてできないもんね」
「名前…」

 なんだ、それは。名前は駄々っ子ではない。そんな呆れたように名前を呼ばれる筋合いはない。ますますもって相手にされていない事実が思いたくもないのに彼女を打ちのめす。

「何となくであるけれど、君の考えていることは分かっているつもりだよ」
「はっきりしないのね」
「だからこそ、朝ごはんでも食べなら話をしたいものさ」

 飯を食べさせる口上か、本当に名前の疑問に答えてくれるのか、半信半疑ではあるが、アーサーの前に座らない限り何も教えてくれないらしい。彼女は自分でも自意識過剰なのではと思うほど疑い深く、猫のように背を丸めながら座布団にお尻をつけた。
 ひしゃげたパンが置かれる予定であった味気ない丸机の上には見たこともないパステルブルーのランチョンマットが敷かれ、一度も使った記憶のない平皿の上に美味しそうな目玉焼きとこんがり焼けたロールパン、ちょんもりよそられたポテトサラダ。ポタージュと言ったはずなのにコーンらしきスープの横には几帳面を体現したように切り盛られたフルーツの品々。

「なにこれ」
「お気に召さない?そうか、洋食ではなく和食にするべきだったか」

 そうじゃない。それどころの話じゃない。

「こんな食材なかったでしょ」

 名前は台所の横、開かずの間と化した冷蔵庫の中身を想像して首を捻る。くさった豆腐が一つあっただけのはずだ。魔法使いでもない限り、いくらアーサーといえどここまでの朝食を何もない我が家から生み出せるはずがない。
 まさかこいつ、人間ではないのでは。本気で信じかけた時だった。

「あぁ、気にしないで。買ってきただけのことだから。それから名前、お行儀が悪いよ」

 箸の先でポテトをつついていると、とんでもない事実が飛び出してきて名前はそのままサラダの奥深くに二本の棒を突っ込んでしまった。アーサーのお咎めなぞ耳にはいらない。

「…どこで?」
「近くのスーパーさ。日本のお店は凄いね。こんな朝早くから食品の売り場が開いているんだ」

 近くのスーパーと聞いて思い当たる店を頭に浮かべる。休日の朝にショッピングカートを押しながら卵の値段をチェックしている英国俳優のような男を見かけた人は果たしてどんな妄想を広げたのだろう。その行動力とかかった手間に素直に脱帽する。

「よくやるわ。結構暇なの?」
「一夜の恩として僕が返せるものといえばこれくらいしか思い浮かばなかったんだ」
「へー。ふーん」
「あ。こら、名前。いただきますは?」

 奥まで貫いてしまったポテトサラダをそのまま口に運ぶ。そういえば食べるのは中学校の給食以来かもしれない。あの時は毛嫌いしていたが、久方ぶりに感じる味は不思議と悪くない。口をモゴモゴさせながらいただきます、と呟けばアーサーはやれやれと息を吐いて、お手本のような「いただきます」を述べたのち箸を手にする。日本人の名前よりもずっと扱いが上手い。

「(お、半熟だ)」

 薄桃色に染まった膜を割れば、とろり流動する光沢が垂れてくる。お皿にこぼれないように必死に口に持ってくると前方からまたうんざりするような「名前」が呼ばれた。

「今度はなに?」
「置いてある皿に口を寄せてはいけない」
「だってこぼれちゃうんだもん。構わないで。ほっといて」
「外に出てから恥をかくの君だ」
「上手くやってるから大丈夫」

 そういうことではうんたらかんたら...、飽きもせずによくもまあスラスラと出てくる小言の豊富ぶりよ。ほぼ一口で目玉焼きを流し込んで今度はロールパンにかじりつく。ぴこんと無いはずの尻尾が立つ。焼きたてのパンとはここまで美味しいものなのか。これから少しだけ己の朝食をかえりみることにした。

「美味しい?」
「まあまあかな」
「気に入ってくれたみたいだね。嬉しいよ」
「……。あんたどういつもりなのか、そろそろ話してくれる?」

 真意は全て男の手の内。誰に言われた訳でもないくせに名前の背後でアーサーのピエロが笑っているような気がしてならない。名前は意地になって食いかかるよりも、男の本音を引きださせる方に力を入れることにした。

「どういうつもり、とは」
「とぼけないで」
「僕が君に好意を抱いているのかどうか、気になる?」
「あんなの冗談よ。そうじゃなくてさぁ...わかってるくせに」

 奥の歯でコーンを潰しながら名前はおもむろに瞳を鋭く細める。生半可な挑発ではさらさら動じる気配のない男へ口を開かなければならない状況を建てていく。

「いいのかな〜。私とえっちなことしちゃって。あんた英国のすごい人なんでしょ」
「君の質問の重大さは把握している。だから、すまないが先に僕の素朴な疑問に答えてくれないか?」

素直に応じるかと思えばこの返し。はぐらかすつもりなのだろうか。

「はぁ?あんたふざけ......。いや、待って」

 短気な頭が素直に冗談じゃないの文字を口にしようとして、踏みとどまる。
 アーサーは昨日から話がしたいだの聞きたいことがあるだの、名前を問い詰めようと狙っていた。何を聞きたいのかは分かっている。名前のアルバイトとくだらない約束を破った二つの事柄についてだ。最終的には体を売るのはやめろとお決まりの台詞を口にするに違いない。
 ここは彼に質問させる形で嘘入り混じる事情を告げる。対人の隙を突くのに長けた男だ。上手い具合に質問責めにされて名前は泣き出してしまう。慰められ、改心し、もうこんなことはしないと強く誓ってから去りゆくアーサーに手を振る。

「(完璧じゃない...!)」

 どうして私を抱いたりしたの?そんな面倒臭い女に成り下がっている場合ではない。スープを一滴も残さないように喉の奥までかきこんで、名前はアーサーに向き合う。突然の変わり身に彼はしばし瞠目していた。

「それで、何を聞きたいの?」
「...君はいつからあのアルバイトを始めたんだい」

 予想通りの質問一つめ。名前は用意していた答えをさらりと声に出す。

「うーん。数年前くらいからかな。お金もらう以前にも色々してたし、軽い調子で始めちゃった」
「月にどのくらいの頻度で会っているんだ?」
「バラバラね。多い時も少ない時もあるし、一概には言えないかも」
「...この家に、招くこともあるんだね」
「だってどうしても来たいって人がいるからさ」

 果物の甘汁をすすりながら名前は自然を取り繕い慎重に言葉を選ぶ。具体的な数字はひた隠し、あくまでも事実を口にする。

「お風呂の手枷、あったでしょう」

 アーサーが短く頷く。

「パパの趣味なの。別に痛いことされてるんじゃなくて、世の中にはそういう雰囲気でものすごく興奮する人もいるわけ」

 際どい趣味である自覚は、本人にもある。だからこそ誰にも言えず仕舞い込んできた。そんな欲望を受け入れるからこそ名前は重宝され、大切にされ、今もこうして生きていられる。様々なリクエストに応えれば報酬も弾み、相手との絆も強まる。守るべき倫理観、踏み外してはいけない境界線は思っていたよりも簡単に跨げた。

「クスリとかはしてないから」
「当たり前だ」
「人に説教垂れる立場にないでしょ。知らなかったとはいえ、私にお酒飲ませたじゃない。コロなんとかってやつ」

 カジノのバーで、互いの酒を指名したのは記憶に新しい。

「コロネーションだね。ただし、君に飲んでもらったのはジンジャーエール」
「…まじで?」
「未成年と疑わしき少女にアルコールは飲ませられないだろう」

 彼も彼で夜の記憶を振り返っているのか、淡白な回答が続く。箸の進みは名前よりも速く、とっくに空になってしまった皿を重ねている。
 こうしてみると意外にも彼女の家に馴染んでいるような。人生であるかないかの珍しい縁もあったものだと名前は感慨深い想いを抱く。たった一度きりの運命と信じていた男がどこを巡れば彼女の家で朝ご飯を食べる朝がくるのか、今でも少し信じられないでいる。カジノの夜の自分に教えてあげたい。
 ただし、見目の麗しさとは対照的に、蓋を開ければ小言と説教のオンパレードであるのは残念極まりない。これは男の性質を見抜けなかった名前の反省するべき点でもある。

「それで?他に言いたいことは」

 怒りの説教よ、くるなら来い。気構えも十分に名前はあくまでも自然体を装う。

「いいや、これ以上はないよ。ありがとう。僕の質問に答えてくれて」

 さらりと引き下がる男に、唖然としたまま頬杖を滑るせる。名前の想像していた展開と違う。もっとこう、昨日の夜みたいに怒涛の説教が繰り出されるのだと身構えていた。

「終わり?金稼ぎはやめろ〜っていうのかと思った」
「口で聞かせても名前はやめないだろう?」

 確かにその通りだが。諦めてくれたようで嬉しい、と手放しに喜べない。アーサーが油断できない性格であるのは重々承知済みだ。名前が訝しげに彼を睨んでいると、案の定彼の台詞は終わっていなかった。

「君は嘘をつくのが得意なようだから、僕も容易に信じないことにしたんだ」
「...言ってくれるじゃない」

 随分な言い草だ。嫌味も全開に悲しそうな顔で名前を責める。ならば一体何を企んでいるのか。次に落とされた爆弾に、拳の中のオレンジが潰れた。

「だから定期的に様子を伺いに訪れたいのだけれど」
「なっ!?」

 アーサーの発言は、彼との縁がこれで終わりでないことを示唆していた。まだこの家に、名前に会うつもりでいるのだ。彼女がアーサーの定義する良い子になる、その時まで。

「やだ!絶対いや!」

 名前はぶんぶんと死にものぐるいで首を振る。誰かに会おうとする度に、保護者のような顔をされて道を阻まれるのを想像してゾッとした。体を繋げて情でも湧いたか。名前の金蔓にもならず、ふざけたセックスをしてくる男に求めるものなどない。

「ならば、もう危ないことに首を突っ込まない。いいね?」
「それは無理」
「あれもいや、これも無理。さて、どうしたものか」
「他人のことなんて放っておけばいいのよ。心配しなくてもあんたの不利益になるようなことは言わないから」
「ほら、そういうところだよ。次からは箸で人をささないように」

 だから、いらぬ世話だ。名前のあずかり知らぬところで勝手に決意を固めていたらしい。アーサーの瞳に宿る意思は強い。
 頭が痛い。できれば聞かなかったことにしたい。いい顔で己の使命を定めた男を立たせ、部屋から追い出したくなる。一時の感情に流されて、家に泊めるべきではなかったのかもしれない。けれどあの雨の中傘を渡して帰らせるのも...。ズキズキとこめかみの辺りが悲鳴を上げ始める。分かったから、と口にして、しばらく家を空けるのも手かもしれない。そこまで考えた。

 名前だけが緊迫する状況を間の伸びたインターフォンが切り裂く。

「(誰...?)」

 まだ言い足りなさそうなアーサーへ片手を上げることで中断してもらい、名前は散らかる洋服の山から取り出したパーカーを肩にかける。来客の予定はなく、帰ってくる人間に心当たりもない。大家と宅配以外に押されたことのないチャイムは彼女がこのどうしようもない空間から抜け出すためにもってこいの逃げ道だった。誰でもいい。アーサーでないのなら誰であろうと引き留めて、この場をうやむやにできる。そんな自信があった。
 もしや大家が気を利かせて蛇口の修理の手配を回してくれたとか。救われた気持ちでのぞき穴と瞳を重ねる。

「ん?...んんん?」

 扉の向こうに見たことのある銀色の髪がふよふよと浮いている。




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