episode.3(上)


 きっと、罰が当たったのだ。怒った神様がそんなに具合が悪いのなら本当の苦しみを教えてやる、なんてとぐろを巻いた杖をふるった結果がこれだ。らしくもなく陳腐な妄想を繰り広げてしまう辺り、相当弱っているらしい。名前は朦朧とする意識に新しい風を吹き込むため空を仰いだ。太陽は日増しに出力を上げ、もう夕方に差し掛かっているにも関わらず、髪の毛を溶かす勢いで焼いていく。街行く人々に比べて特段着込んでいるせいだろうか、同じ場所に立ち尽くしていること数十分、ついに限界を迎えおぼつかない足元が崩れていく。

「先輩!遅れてしまってすみません!」
「っ…、大丈夫。私も今来たところだから」

 聞いているこちらが罪悪感を抱いてしまうような謝罪を聞いた途端、沈みそうになる背中も片足を後ろに下げることでどうにか事なきを得た。ぐっと腰を引き上げて名前は優しい彼氏のようにマスク越しからもごもご呟き、息を乱すマシュに向き直る。

「委員会で遅れるって連絡くれたじゃん。だから全然平気」
「ですが、もうこんな時間になってしまいました...」

 まさか、あそこまで長引くなんて...。あまりにも悔しそうにするものだから、好奇心に寄せられて何をしているのか尋ねてしまう。足はさりげなく目的地へ向かいながら名前の初めての後輩は荒い呼吸の合間から丁寧に言葉を紡ぐ。

「文化祭委員です。秋の本番では一般公開もあるのでお時間があればぜひおこしください」
「へー、楽しそう。多分行くよ」

 改札から走ってきたのだろう、横髪を跳ねさせながらきらきら期待に満ちた顔で言われてしまえば頷くほかない。学校全体で相当に力を入れているようで、名前はこの時点で有名な女学校の文化祭に純粋な興味を抱いていた。
 名前がマシュを連れて入ったのは最近開店したばかりの可愛らしいフレンチトーストのお店だ。駅に併設されたファッションビルの中にあるので、放課後の女子会とでも伝えてもらえば彼女の過保護な家族も怪しみはしないだろう。

「......マシュのお兄さんはさ、」
「か、かわいい!これは苺が乗っているのですか?とても綺麗で宝石箱みたいです!...あ、すみません。私ったらつい夢中になってしまって」
「いや、なんでもない。私の奢りだから気にしないこと。ゆっくり選んで」

 ただ、彼女の兄が自分との外出を許したのはかなり意外だった。ギャラハッドは名前のような貞操観念のゆるい女をかなり苦痛に思っているようなので、大切な妹との遊び相手と聞いたら止めに入りそうなイメージがあったのだが。

「決めました...!このラズベリーのフレンチトーストにします」

 後からネチネチ嫌味を言われないのであれば、どのような背景があろうと気にする必要はない。名前は店員を引き止め注文を伝え、気軽にこの場を楽しむことにした。忙しなく瞳を走らせ、見るもの全て過剰なまでに感動しているマシュは、まるで未知の世界に飛び込んた小動物のようだ。若干緊張しているのか、ピンと尖った背筋は見ているだけで和む。
 どうやらこういうお店に縁がなかったようで、テレビの特集や携帯の向こうに楽しそうな同年代の女の子を目にするたびに憧れが募っていったらしい。

「こんな素敵なお店を紹介してくれてありがとうございます」

 まだ飲み物が来る前からそんなことを言われてしまうのは流石に気恥ずかしい。名前の鼻から上は、いつも通り取り澄まし、けれどもマスクに隠れた口の端はゆるゆるとだらけつつある。はにかんでいるのがバレないように本来の目的を忘れない名目で携えていた紙袋を見せながら相手の荷物カゴに移す。

「ちゃんと洗濯はしたけど、落ちてない汚れがあったら言って。弁償するから」
「いえ、そんな。この服はもう着てないも同然でしたし、先輩が気になさることは何もありません!」
「ありがと」

 今となっては意味があったのか分からない変装事件に巻き込んでしまったのを、過ぎてから申し訳なく思う。事情を聞かずに黙って洋服を貸してくれた彼女には名前なりにきちんとした形で感謝の気持ちを伝えたいと考えていた。アーサーが勝手に登録を施したメッセージアプリにはマシュのものらしきアイコンも浮かんでおり、早速連絡をとってみれば案の定。空いている日と行きたい場所を合わせてから今回の放課後デートにこぎつけたのだ。

「私の洋服のことより、先輩の風邪が心配です。まだ治っていないとなるといよいよただの病気ではないかもしれません」
「ケホッ...き、気にしないで。あの夜はちょっと雨に降られたせいか少し長引いてるの」
「ですが、一度病院に行かれた方がいいのではないでしょうか?」
「熱はないから。もうすぐ治るよ」

 名前は体の内側でくすぶる熱源を無視して言い切った。なるべく咳き込まないように注意しつつ、グラスに注がれたお冷で喉を潤す。今回ばかりは嘘ではなく、彼女の体は確実に良くない熱を持っていた。いつかの夜の出任せが本当になってしまったのだ。
 マシュの家でアーサーと再会し、ラブホテルの前で彼に客を追い払われてしまったあと、狙ったように降り注いだ滝の雨。ジャケットを被せてくれていたが何分、量が尋常ではなかった。浴室の蛇口が使えないだの上手いこと誘って引きずりこんだかと思えば、温かい湯を浴びる間もなく舌が...。した、が。

「せ、先輩...!?お顔が大変なことになっています!どうされましたか?」
「いや、少し嫌なこと思い出しただけ」

 重度の風邪で苦しんでいる状況を作ったのは雨だけではないのでは?精神が弱っていると、どうにも人のせいにしたくなってしまう。そうでなくとも同じ人物へ、立て続けに見苦しい醜態を晒して疲れているというのに。

「一つ聞きたいんだけどさ、マシュのお兄さんの上司さん?今どうしてるかなぁ?」
「アーサーさんですか?今週は忙しくしているようです。朝から夜にかけて兄と共に色々な人と会っていると聞きました」
「そっか」

 凄いね〜、と穏やかな相槌を打ちながら、名前の心の眉を釣り上げた。つまり普通に元気でいるようだ。彼女よりもずっと多くの雨に降られながら、シャワーだってせいぜい泥を落とした程度にしか使っていないだろうに、どうして向こうは健康でこちらは死にかけているのだろう。納得がいかない。せめてベッドで苦しんでいると報告を受けたら哀れ笑ってやれたものを。

「あの、やはり辛そうですし、もしや随分無理をされているのではありませんか?今日会うのは控えておいたほうが良かったのでは...」
「マシュには絶対うつさないから!......て、言われても困るか。甘いもの食べたら元気になるよ、たぶん」
「いえ、...いえ!では先輩が一刻も早く元気になるために、たくさん甘いものを食べましょう!」
「けど流石にフレンチトーストはやめた方がいいんじゃないかな。胃腸に悪そうだ」

 そうだね。と返すはずが真っ向から反対意見を叩きつけられて、名前はマシュに怒られたのかと勘違いを引き起こす。確かに生クリームの塊を口にする気力はなかったが、弱っている事実を突然見抜かれたようで心臓が冷えた。いらないお節介を寄越してきたのは、マシュではなく見ず知らずの男。ギンガムチェックのポップなエプロンを身につけ両手にはバニラアイスが盛られたプレートを抱いている。

「(店員...?なんだこいつ)」
「あ...。そ、そうですよね。風邪の時はもっと消化の良いものにしないと。私ってば後先考えずに発言してしまって」
「でもわかるよ。ここのメニューって本当に美味しいからさ、きっと気持ちが元気になるんだと思う」

 お待たせしましたー、と声を上げる調子の良い店員。軟派な風体ではなく、どこにでもいそうなごく普通の青年で、名前達と歳も近そうだ。自然なノリでマシュの前にできたての料理を並べる姿は不思議と初めて見る気がしない。宝石箱と称していた菓子が目の前に現れたせいか、後輩の視界には興奮で皿しか映っていないようだが、名前は彼の顔に釘づけだ。ぎこちなさを一切感じさせず、温かい紅茶を注ぐ男は彼女の訝しげな視線に「あれ?」と首を傾けた。

「もしかして気がついてない?」
「...?」
「俺だよ。俺」

 名前に詐欺師の知り合いはいない。はっきり首を振れば男の背後に落雷がほとばしる。かなりのショックを受けているようで、「本当に分からないの?」と信じられないように驚嘆され些か焦った。一つのテーブルで油を売っている場合ではないだろうに、男は自身のネームプレートを引っ張り、見よと言わんばかりに何度も指す。

「ふ、じ、ま、る。藤丸立香!同じクラスだろ」
「あっ」
「まあ、苗字はあんまりクラスメイトとかに興味なさそうだったし...」

 今のが彼なりのフォローだというのは流石に理解した。興味があるなしどころの話ではない。もう春はとっくに過ぎている。この時期になっても同じクラスの人間を把握しきれていなかったのは不甲斐なかったか。そんな状態の彼女に仲の良い友達がいるわけもなく、対して男子高校生には些か勇気の入りそうなフレンチトースト店で働いている立香は教室でもななかなかに元気な人物だった。

「ここ数日学校を休んでたのは風邪だったんだ。大丈夫?」
「平気。どうも」

 話すのはこれが初めてだったはずだ。しかし、まるでそれなりに付き合いのある友人を心配するような態度は表にこそ出ないが名前をたじろかせる。実のところ今日も学校を休んでいたのだが内心どう思っているからは別として、からかってこないのは正直ありがたかった。それどころかカフェのバイトらしからぬ提案をしてきた時には飽きもせず驚かされるほど。

「苗字、すごく具合が悪そうだけど本当にフレンチトースト食べるの?実は俺、君の分の注文通してないんだ」
「えっ...。どういうこと?」
「いくら甘いものが好きだとしてもその状態じゃあさ、見てるこっちが辛いよ」

 自分がどんな顔してるか分かってる?
 彼の一言で名前は自分が衣服の下はもちろん首の裏や髪の生え際から苦しそうな汗をかいていることに気がついた。体の状態を自分ではない他人に的確に言い当てられてしまうとは。立香の観察眼が鋭いのか、名前の熱が酷いのかこれではマシュも心配しよう。

「だからさ、これなんてどう?」
「はちみつ湯...」
「甘いさもとれて体にもいい。物足りないならフルーツもつけようか?」

 フルーツ。

「(そういえば冷蔵庫の奥にあるんだっけ)」

 存在を忘れていた彼らはまだ腐っていないだろうか。一度その姿を想像すると無性に甘い果汁が取りたくなってくる。名前は無理に胃に収めようとしていた生クリームの存在を追い出して立香の提案に頷いていた。

「ごめん、マシュ。一緒にシェアしたかったんだけど」
「風邪を治すのが先決ですしね。ただ、先輩の体調が良くなったらまた一緒に訪れたいです。その時に二人でたくさん食べ比べしましょう」
「...ありがとう」

 マシュは名前が無理をしているのを最初から知っていた。無理をせず、素直に立香の優しさを受けとった彼女を安堵したように見ているのが伝わってくる。自然と紡がれるお礼の気持ちをしっかり者の後輩は小さく頷きながら受け止めてくれたらしい。気恥ずかしと申し訳なさを織り交ぜた感情の答えを最後まで見つけることはできなかった。
 「それじゃ、ちょっと待っててね」早い速度でオーダーを打ち始める立香に待ったをかける。

「フルーツはいらない」
「え、そう?」
「家にあるから」

 捨てるのはもったないし。果物に罪はない。意識し過ぎるのも良くないような気がして名前は改めてはちみつ湯だけをいただくことにした。



 ものの数分で出てきたお茶は即席の割に香りが届くだけで心を癒し、体の節々から痛みを取り除いてくれる。改めてマシュが美味しそうに食べているお菓子のパンを頼まなくてよかった。出来る店員に感謝せねばならない。「どうかな?」と感想を待っているようだったので素直に美味しさを告げればどこかホッとしたように笑う。マシュと立香、二人の視線を感じながら名前は一口、二口蜂蜜の香りを弱っている体に沈めていく。

「少し、意外だったな」
「私のこと?」
「いや。悪口とかじゃなくて」

 名前を見守るというよりは、観察している。瞳の奥に意外性を感じているのを隠しきれていない感想がうっかり溢れてしまったらしい。咎めるつもりはなかったのだが、立香は慌てて胸の前で手を振った。

「苗字にあんな彼氏がいるのが驚きでさ」
「......は?」
「いや、この言い方はダメだよな。喧嘩中なら仕方ないけど、かなり心配してたから連絡の一つでも返してあげたら?」
「ッエ、ん?なに?」
「先輩には彼氏さんがいらしたのですね...!」

 危うく持ってきてもらったばかりのお茶をぶちまけそうになってしまった。名前は揺れる波紋を落ち着かせながら、立香の言葉を頭の中で繰り返し、なぞるように再生しては巻き戻すを繰り返す。けれども一向に内容は入ってこない。そのうち彼がどんな音を口にしたのかも分からなくなって、椅子に座っているはずなのに上と下の感覚が逆さまになっていく恐怖に抵抗もできないまま、「ごめん、もう行かなきゃ」何食わぬ顔で去ろうとする男の腕をガシッと掴むことだけは忘れなかった。

「もう一回言って」
「うわ、怖い!だから彼氏が寂しそうだったよ。二人ともゆっくりしていってねー」

 カレシ。彼氏。

「...どういうこと?」
「彼氏さんのお話は初耳です!きっと素敵な方なのでしょうね」

 訂正するのも忘れて、立香が落としていった爆弾をどうにか処理しようとする。マシュが少し恥ずかしそうに、けれど興奮覚めぬ様子でまくし立てるのが不思議でならない。なにせ告げられた本人すらも初耳だったのだから。

「(彼氏って誰の彼氏よ)」

 名前にそんな存在はいない。そもそも彼氏なるものができたことすらない。
 もう一度詳細を尋ねようにも、すでに彼女の手から抜け出した立香は忙しそうにホールの奥の方を駆け回っている。到底声をかけられるような状態ではなく、名前はもどかしくも彼の口にする姿形の分からない謎の彼氏に悶々とするループから抜け出せなくなってしまった。
 ともかく、明日学校で問い詰めれば誤解であるのが判明するはずだ。名前が恋人と認識していない男の知り合いを、立香が勝手に勘違いしてしまった可能性もある。寧ろ、そうとしか考えられない。行き場のない疑念にどうにか収まりをつける。
 マシュに彼氏などいないことを訂正しなければ。加えてラズベリーの感想を教えてもらうために、名前は閉じこもっていた思考を切り替える。

「......。」
「どうしたの?」
「...あ、いえ...その、カフェの店員さんがあのようにお客さんの様子に応じて提案を投げかけるのは、よくあることなのでしょうか?」
「ま、普通はないか。特にこういうお店だと」

 客へのおもてなしより回転率とSNS映えを重視してそうなお店なのは間違いない。特に今は放課後の時間ともあって、それなりに広い店内はマシュと名前のように学校帰りの高校生や、女子会を楽しんでいる大学生などで溢れかえっていた。立香の対応に名前はとても助けられたが、普通の店員ならば頼まれたものを注文、提供して終わりで済んだはずだ。いくらクラスメイトといっても関係は初対面に近い。だからこそマシュは疑問で仕方ないのだろう。

「あのような接客を、初めてみました」
「一歩間違えたらいらない世話だしね。だから、上手く見極めてるんでしょ」
「それって...なんだか凄いです」

 マシュの声のトーンが変わったような気がして、名前は熱いはちみつ湯をふうふう冷ますのに俯いていた顔を上げる。フォークとナイフを手に、視線はフレンチトーストではなく揺れる黒髪へ注がれている。

「ふじまるさん...」
「マシュ...?」
「優しい方なんですね」

 甘いベリーを口に運ぶ彼女の色っぽさを、ランスロットが目の当たりにすれば卒倒したかもしれない。名前はもしも次にギャラハッドと顔を合わせる機会があったら気まずくなる未来が見えて、しかし逃げるようにはちみつ湯をすすった。




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