共通点の見当たらないマシュとの会話は前回もそうだが、返って気が楽だった。名前の知らないことは彼女が知っており、彼女の知らないことは名前が知っていた。マシュが語るお嬢様学校の内情や都内の格式高い菓子屋の話題は、お喋りのテンポとキーワードが大切な名前のアルバイト事情に役立ちそうなものばかりで、片端から頭の引き出しにしまいこんでいく。それは何?どんなお店?もっぱら尋ねてばかりのティータイムに終わりの兆しが見えたのは、予定よりもかなりの時間を謳歌していたのもあるが、マシュの視線が一箇所に注がれ離れようとしなかったからでもある。

「もうこんな時間だし、そろそろ行こっか」

 わかりやすく汗を飛ばすマシュの腕を引く。他の客に並ばれる前に伝票を差し出せば、金額の計算をしていた立香が顔を上げた。本人もきっと無意識の行動だろうが、かわいらしいことに名前の後ろへ体を半分隠しながら様子を伺うマシュ。お節介と知りつつも横に身を引くことで否応無しに彼と正面から向き合うよう仕向ける。
 正体不明の彼氏の話を聞くのは後に回していい。名前は地面の一部になったつもりで「さっきぶりだ」と立香のにこやかな口ぶりに耳を傾けた。

「フレンチトーストどうだった?」
「とても美味しかったです!」
「良かった。あのソース俺が作ったからさ、そう言ってもらえるとすごく嬉しい」
「すっ、す...すごいです!」

 マシュの瞳には立香への尊敬に近い憧れもに似た情景が浮かんでいるのがうかがえた。とはいってもマニュアルにちょいとアレンジ加えたなんだけどさ、軽く言ってのけた男は本当にただのアルバイトなのか、名前も正直疑ったほどだ。
 家族以外の男性、アーサーや彼の知り合いを除いて年頃の異性とほとんど話したことがないらしいマシュは気さくに話しかけてくる立香に完全に上がっており、それがどういう感情からくるものなのか名前には推測がつく。何事も器用にこなし、けれど人懐っこい印象を与えてくるクラスメイトはおそらくマシュの周りにはいないタイプの男性なのだろう。だから彼の挙動が新鮮でつい引き寄せられてしまう。名前は話題に詰まっている後輩の隣でゆっくり財布を取り出した。

「今さ、期間限定のクジやってるんだ」
「クジ...。お祭りによくありますよね」
「うーん。まあ、それなりに色んなところでやってると思うけど...」

 二人だから二回分だな。立香がレジの脇から取り出した紙箱はどこにでもあるような薄い作りをしていたが、景品は申し分なく豪華なものばかりらしい。一等から六等までが貼られたポスターを叩きながら彼は気の良い商店街のおじさんのようにさぁ!と箱の入り口を傾ける。

「マシュ、二枚引いちゃいなよ」
「いいのでしょうか?」
「こういうのは意外と重なってるもの同士を選んだ方がいいんだって」
「そんなの聞いたことないぞ」

 立香は本当かー?と胡散臭いものを見るような目つきで名前をじっとり射抜く。気づいていないフリをして半信半疑のマシュの肩を叩き、箱の中身を探らせる。彼女の後輩はどこまでも素直なようで、戻ってきた手には二枚の重なったくじが握られていた。

「マシュちゃん素直だなぁ」
「素直なのはいいことよね」

 乾いた糊がペリペリと音を立てて剥がれていく。マシュの手元を二人揃って覗き込む。"2"と書かれた数字に最初に反応したのは誰だったか、ともかく驚きの声が上がったのは確かだ。自分が当てた訳でもないのに興奮に跳ねながら立香は二等の景品名をなぞる。

「えっと、夢の国ペアチケット......すげぇ、大当たりだ!」
「すごいじゃんマシュ」
「きっと先輩のアドバイスのおかげです!」

 嬉しいことを言ってくれるが、引き当てたのは彼女の強運によるものだ。これはもしや、期待を隠しきれない立香に急かされるようにマシュは二枚目のクジをめくる。途端に祝福を告げるベルの代わりに立香の野太い歓声がレジの周辺どころかお店の全域に鳴り響いた。

「一等おめでとうございます!秘境の温泉宿ペアチケットプレゼント〜!」
「マシュ...何かした?」
「えっと、私は普通にクジを引いただけなのですが...」

 マシュは幸運を運ぶ鳥だったのか。引きの強さに圧倒される一方でザルすぎるクジの当たり配分にもしやドッキリなのでは、らしくもなくカメラの存在を探す。しかしいつまで経っても大成功と記されたボードは現れず、店の奥に引っ込んだ立香が金縁と銀縁が目立つ二枚の封筒を持ってきたことで、本当に大きな宝を二つ当ててしまったのだと飲み込むことができた。

「このクジ箱、絶対おかしいでしょ」
「マシュちゃんさまさまだなー」

 明らかに陰謀めいた調整が行われているような気がしてならないが、立香は微塵も疑っていないのかあっさり景品を渡すと早々に会計を終えてしまう。店の入り口まで見送ってくれるらしい彼はまだマシュの強運に対する感動が冷めぬのか捲したてる勢いで迫っている。最初こそ相槌を返すだけで精一杯だったマシュも満更ではない様子で、いつしか自然と受け答えができるようになっていた。波長が合うとはこういうことなのだろう。互いににじみ出る人柄の良さが周囲の空気を暖かくて少しくすぐったいものへ変えていくのに時間はかからなかった。
 名前はどうしてか二人の会話を直視できず、生ぬるい湿気ごと振り払うように窓の向こう、眼下に広がる豆粒みたいな人々の観察に耽っていた。

「もう遅いから気をつけて帰りなよ。最近この辺り物騒みたいだし」
「学生狙いの暴行事件ですよね...。犯人はまだ捕まっていないみたいです」

 ニュースになっていないのが不思議なくらい、事件の香りは彼らの周囲を賑わせているらしい。日も伸びてきたとはいえ、太陽が沈んでしまえば大通りはともかく、人通りが少ない上に道幅も狭い裏路地などはたちまち危険な場所へ早変わりしてしまう。名前とマシュが初めて会ったあの日でさえ、まだ太陽の高い時間から公然とタチの悪いナンパが行われていた。

「怖そうな人には気をつけないといけませんね」
「いや、そうとも限らないみたいだよ」

 神妙な面持ちの立香を呼ぶ声が店の奥から聞こえてくる。早く戻らないと怒られてしまうだろうに、彼は動かなかった。

「被害に遭ってるのは共通して女の子らしい。最初は遊びに誘うみたいに声をかけてきて、それから妙な場所に連れ込むって...」
「ーーーえ、」

 瞼の裏にいつか下卑た笑みでナンパをしかけてきた二人の男の姿が過ぎる。



 くぐもった鐘の音が耳に届いて、名前はもうこんなに時間が経っていたことに驚かされた。店長らしき男に急かされ、最後は言葉だけを置き去りに白い背中はキッチンに引っ込んでしまう。動けないでいるマシュに小さく「行こう」と呼びかければ天使の輪を描く頭がこくんと揺れた。

 駅で別れようとしていたのだが、彼の話を聞いた後では自然に「家まで一緒に行こう」と口が動いていた。決して治安の悪い帰路ではない。寧ろお金持ちの多い彼女の邸宅周辺は、どこもかしこも厳重なセキュリティに囲まれた建物ばかりで、返ってそういう類の人間の姿は見当たらない。
 だから大丈夫、で済む話ではなく。あの時の出来事はまだマシュの記憶には新しいはずだ。ただのナンパが、もしかしたらとんでもない事件に巻き込まれる手前だったのかもしれないと知って、何も感じない女の子がいないはずないのだ。

「このチケット、どうしましょうか」

 鞄にしまい損ねた封筒には、目に見える程度にくっきりシワがついている。一等はともかく二等はとても楽しい場所だろうから、あとは行く相手が重要だ。そんな偉そうな台詞を告げた気がした。

「先輩はこの二つの景品だったらどちらが嬉しいですか?」
「温泉、かな...」

 予想通り一等のチケットが入った包みを差し出してくるので名前は丁重にお断りする。遠慮しているのではない、とつけ加えて。

「どっちかだったらって話ね。マシュも、いらなかったら知り合いにでもあげちゃいな」
「でしたら夢の国は二人で行きませんか?」

 よく考えずに放った言葉がマシュを傷つけしまったのを、申し訳なそうに誘われたことで教えられ、内心頭を抱えた。かつての二人組の男達が話していた内容がぐるぐると回って離れず、つい返答をおろそかにしてしまった。遠慮ぎみにこちらを覗き込む顔は夕陽の色にあてられて哀愁の影が隠しきれていない。こういう時こそ上手く繕わなければならないものを、縮んだ心臓が「そうだね」以外の言葉を忘れてしまう。
 名前はマシュの家に着くまでコンクリートの向こうに伸びる影が情けなく揺れているのを眺めるばかりで、門を挟んで向かい合う彼女の顔を見る勇気が一向に振り絞れない。それでも何か言わなければ、焦りに突き動かされる。

「この前のやつ、噂の事件と関係があるかもしれないから。一応、話しておいた方がいいかもしれない」
「そうですね...。あの人は今夜帰ってこないようなので兄に相談してみようと思います」

 ギャラハッドの存在を示唆されて、ならば大丈夫だと思うことができた。大して話したことのない彼に無条件に信頼を置くのはおかしいかもしれないが、名前への態度から彼が不貞なるものを嫌っているのは知っている。だからマシュの話を聞けば、徹底して妹を守ろうとする姿が容易に想像つく。

「(もう終わったことなんだから)」

 過去の出来事だ。特段目をつけられた様子はなく、それどころか上手い具合に追い払ってやった。これ以上怯える必要はどこにもない。けれど、仕事と言いながら女の子達を集めていると自ら豪語していた男達が立香の話と重なり、こびりついて離れそうにない。巷を騒がせている事件の片鱗を耳にしてしまった不快さは、もうどう足掻いても取り払えそうになかった。

「あの、これから一人で帰られるんですよね?もうすぐ兄が帰ってくるので送ってもらうように頼んでみるのは...」
「そこまでしてもらわなくていいよ」

 なるべく広い通りを使って、真っ直ぐ家に帰ることを誓えばマシュは納得こそしていないようだが引き下がる。

「それよりもマシュ、しばらくあの商店街に近づいちゃだめよ」
「はい。あの、先輩の方もどうかお気をつけて」

 最後まで心配そうに門の向こうから見送っていたので、安心させるように手を振って、名前はもうすぐ陽の落ちそうな美しい住宅街を後にする。帰宅ラッシュに巻き込まれる前に電車に乗り込んで、最寄駅の改札をくぐればすっかり青ざめた空が出迎える。一人になったことで無意識に張っていた緊張から解かれ、鉛のように重い足を引っ張る。

 太陽はしぶとく空に食いついていたが、ついにはアパートとビルの間に吸い込まれていった。肌を苛んでいた日照りは消え、けれど湿気ばかりはしつこくついて回る。黒い絵の具を薄く伸ばして塗り重ねたような建物の色が周囲の薄暗さを物語っていた。夜は必ずくるのだから、早くここらをどうにかしてほしい。街でも特段、忌避するべき区域と噂されている道は明らかに街灯が足りておらず、一歩進むたびに自分の足の形が薄闇に溶けていく。
 とても静かな帰り道だった。アパート前は人の姿どころか、生活感の一切を断つボロ家が軒を連ね、不気味と称する他ない。駅や商店街の周りはそれなりに賑やかであるのに対して、この辺りは同じ街と思えぬほど廃れている。いっそ愛着すら湧いてきたうす汚いボロアパートは今日も名前の帰宅を迎えてくれた。コンクリートが嵌る地面の一部に、乾いた泥はねの跡が残っており、見てはいけないものを見てしまった気まずさを覚える。
 早々に視界から外して玄関の隙間から体を滑り込ませた。

 靴を脱ぐ気力すら起きず、鎖骨の辺りが軋むように痛い。息を吸うたびに節々が悲鳴をあげる。何より辛いのは鋼鉄の鉄球が頭の中で転がっているような鈍痛。脳の内側を叩かれると、ガンと音が鳴って全身に広がっていく。肩に引っ掛けていた鞄が腕をくぐり地面に落ちた。続くように膝から力が抜けて名前は段差のない廊下に鼻頭から沈んでいく。どこからか痛そうな音が聞こえて、腕がおかしな方向に曲がろうとしているのを直したきり、崩れた体は微塵も動く気配がない。頬から侵食する冷えた廊下の感触が心地よすぎてこのまま眠ってしまいそうになる。

 不調の悪化を帰ってきてから認識したのは、歩いている間にずっと気を張っていたせいだと頼りない思考が答えを出す。普段であれば気にしないところばかりが目につき、いつもの帰り道をまるで魔境のように怯え、全てに臆病になっていた自分に呆れる。
 何に、の先を考えたくはなかった。
 頬にかかるマスクの紐が不快で取り払う。息がしやすくなると尚更起き上がろうとする力が潰されていく。

「おかしい、な」

 風邪は治るどころか悪化の一途を辿り、時間が経つほど体の制御が効かなくなっていく。
 吐く息は熱気を帯びて、苦しみに溺れる名前が唯一気を紛らわせられる手段となりつつあった。聞くものが辛くなるような掠れた呼吸は、けれど誰の耳に入ることもなく、暗い廊下の隅に消えていく。こういう時だけは一人暮らしを不便に思う。電気をつけてくれる誰かがいるだけで、何かが違ったかもしれない。

「(このままじゃ...明日が)」

 辛い、だとか。苦しい、だの。
 風邪に乗じて紛れこんでくる弱音はさして問題ではない。名前を責め立て焦せらせるのは明日までをゴールに見立てた"早く治さなければ"という使命感だけだ。かかるタイミングさえズレていれば、ここまで不安になることはなかったかもしれない。けれど現実は明日に備えてかなり前から入念に準備を整えていた彼女を悪人面のウィルスが嘲笑う。
 スケジュール帳を開けば、明日の日付にとびきりのハートマークが書き込まれている。数ヶ月前の自分がどんな気持ちでこの記号をなぞっていたのか手に取るように思い出せる。

「(終わるまでの我慢。風邪なんて全然平気)」

 ぜんぜんへいき。
 口に出せば案外、大したこともない。名前は腕にしっかり力を込めて上体を浮かす。まずは手を洗い、買ってきたお弁当を温めている間に化粧を落とす。生乾きの汗が煩わしいので軽くシャワーをあびて、ご飯を数口胃に押し込んだら寝てしまおう。一連の動作は簡単に脳裏に描くことが出来た。あとは実行するだけだ。身じろきに合わせてツキツキと関節が擦れ合うのも、少しの間なら我慢できそうだった。

 地面に落とした拍子に鞄から飛び出てしまった携帯を拾うため、玄関の奥へ手を伸ばす。時間だけを確認しようとすれば明るい画面にはマシュから今日のお礼を伝えるメッセージが届いていた。長文のそれには美味しいフレンチトーストの感想から名前の体調や帰り道を心配する声が事細かに詰まっており、煩わしさよりも嬉しさを覚えている自分に驚く。

「大丈夫だよ、っと」

 ほっこりするようなスタンプも合わせて送ったところで、通知が届いたままトーク画面を開いていない相手がいたのを思い出す。ブロックするのは幼稚な気がして、かといって返事をする気にもなれずその男は一度きりの文章を送ったのち何の音沙汰もなく、ただローマ字表記の名前だけが友達リストに浮かんでいた。画面の中の名前は愛すべきパパ達に向けてとびっきりのテンションで絵文字混じりの言葉を送っていながら、彼にだけは数日経った今も言葉を返していない。

「来ないじゃん」

 あまりにもぼんやりしていた彼女は自分の声をまるで他人の独り言のように聞き流す。鼻をすする音が玄関に轟いて、それから、朦朧とする意識が何かの支配から解かれた。

「(......私ってば何言った?)」

 どう足掻いても思い出せないむず痒さと、そんなに大したことじゃなかったような曖昧な感情が相反し、最終的に「ま、いっか」と片方に軍配が上がる。あの男がどうこうではなく、憎らしくもその文字を見たおかげで再び忘れかけていた冷蔵庫の奥にいる存在を思い出せた。
 一日でどれだけ体調が改善されるのかは分からない。ただし投げやりになって明日の予定を台無しにしてしまいたくなかったので、名前は己の体を鼓舞して立ち上がる。

「...あれ」

 ここに来てようやくポストの蓋が押されていることに気づいた。箱受けの隙間からパステルカラーを覗かせるのは覚えのない郵便物。チラシの類を疑って、持ち上げたそれは厚みは薄く縦横に広いプレゼント箱だ。女の子らしい色合いにフリルのたっぷりついたリボンが結ばれており、差出人不明のプレゼントはけれど『名前ちゃんへ』と彼女宛のメッセージカードを挟んでいる。
 ちゃん付けでプレゼントを送ってくるような行為をするのは彼らだけ。それにしたって郵便受けに直接入れることはないだろうに。解かれる時を今か今かと待っているようだったので、いくつか疑問の余地を残しつつもリボンの裾を引く。



「...なにこれ」

 可愛らしいラッピングに包まれた中身は彼女の頭から風邪の苦痛を吹き飛ばすほどの衝撃を与え、けれど寒気と気色悪さの度合いで言えば比にならぬほどおぞましさの極地を貫き、例えるなら虫が腕を這い回るような悪寒に弾かれたように手を放す。
 音を立てて叩きつけられた箱の下から挨拶するように物の一部が覗いており、名前は底なしの欲望をこれでもかと集めた趣味の悪いそれからしばらく目を離すことができなかった。


"名前ちゃんへ。君にぴったりのものを用意したんだ。ぜひ着てみてね"



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