昨日の夜、どうやって寝たのか覚えていない。さらには今朝、どのように登校したのか記憶にない。魂が抜けても人の体は動く。勝手にお風呂に入って寝ついてくれる。制服に身を包み、自分の席まで迷うことなく辿り着いている。
 ただし、いたく無気力な体は元より不調を訴えていながら朝飯を食べてこなかったようだ。飯を食べている場合ではないらしい体の見解は、学校に到着してからアーサーの作った朝食を思い出してしまったのか不服にも腹の虫を鳴らす。昨夜から続く幽体離脱。体と思考の足並みを揃えないといい加減どうにかなってしまいそうだ。

「(そうだ。フルーツ食べてない)」

 不意に姿を見せたのはどこかのご当地にいそうなリンゴのキャラクター。お陰でまたもや食べるのを忘れてしまった果実が呼び覚まされる。天井を漂っていた霊魂がするりと口の中に引っ込み、焦点の合わない眼球が自ずと戻ってくる。頭の内側もわずかばかり理性的になって、いくら冷蔵庫にしまっていようとそろそろ限界かもしれない、ラップに包まれながら寂しそうにしている姿を想像してしまう。果物に罪はないとのたまわっておきながら、この仕打ち。もったいないことをしてしまったと反省するほかない。

「おーい、起きてる?」
「少し寝てた」
「目を開けながら?苗字って変わってるんだなぁ」

 ジュコーっと口をすぼめ最後の一滴まで搾りきり、立香はひしゃげた紙パックをキャラクターごと潰す。悪意があろうとなかろうと、冗談と分かっていながらもストレートな物言いを好まない名前は、変人扱いにマスクの中の口をムッと尖らせる。自分のことは棚に上げて、他人には優しくされたがっている気質の自覚は未だ認識の外にあるようだ。

「体調悪化してるんじゃないか?」
「それよりも彼氏とやらに教えて。そいつ何て言ってた」

 詰め寄れば、怖いと冗談なしに身を引かれた。わざわざ目の前の椅子に座り込んできたのだから尋ねても良いものだとばかりに、それは名前の勘違いらしい。縮こまった動きで大げさに怯えたポーズをとりながら、昨日より数段悪い目つきを指摘される。言われて初めて、心当たりが浮かぶ。

「おはよう、くらい言わせて欲しいな」
「......おはよ」
「うん、おはよう」

 自分の余裕のなさを遠回しに諭され朝から早速、複雑な心境に落とされる。年上のでろ甘い中年ばかりを相手にしてきたせいか、名前のペースに引き込むつもりが、保つことすらできずにいる。己はそんなに余裕がないように見えるのだろうか。まだ何も聞いていないながらに小休止をかざされた気分だ。

「苗字、もしかして昨日何かあった?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「うーん、上手く言えないんだけど、......この一角だけ空気が重い!」

 立香は大げさな身振り手振りで名前の机を囲う。話が重くならないように陽気に伝えようとしているのなら、気を使う必要などないのを。計らずとも彼女の苛立ちが周囲の空気に伝染し、他者にも本能で感じ取れてしまうほど悪影響を及ぼしているらしい。努めて平常通りに振る舞っているだけであるのを、目の前の彼には無自覚ながらも見抜かれている。
 たまらず喉の奥をくすぐる刺激に誘発され、ケホケホと咳が飛び出てきた。鼻からは息が吸えないから、口から静かに酸素をすくう。些細なことですぐに崩れてしまうほどに弱った体。お腹の底から溢れ出る熱を冷ますように風をあおぐ。

「風邪のせいよ。気にしないで」
「学校に来て大丈夫なのかよ」
「家にいても暇だし」

 この上なく的外れな返答をどうか許して欲しかった。家にいたくない理由を素直に言えないのは名前自身にも分からず。立香はなんだそれ、と少し呆れながらよく分からないものを眺めるように、彼女の腹づもりを探ろうとする。

「風邪の時は家で安静にするのが一番だろ。そんなに学校に来たかったのか?」
「...虫がいたから」
「はい?」

 事実を語らないように注意はするものの、あながち嘘ではない。玄関脇に転がっているであろう死骸はまさしく虫そのもの。見るだけで悪寒が走り、触るなど以ての外。下着の概念を超え、女の性を徹底的に貶めようとしてくる魂胆を隠そうともしていなかった。ゴミ箱に捨てようとした際の忌まわしい手触りが夜を明けても忘れられない。

「怖いの?退治しに行ってあげようか?」
「いらない」

 大抵のことでは驚かない自信があった。世にある性壁は千差万別。どんな欲望と対面しても、了承するかどうかは別として受け入れる。世間では秘するべきとされる男の人の願いをたくさん叶えてきた自負すらある。心の片隅で全く別のことを考えられるくらい、小動物を愛でるのに似た、たわいなさを感じていた。ただの一度も苦痛に思ったことはなく、いかに変態的な嗜好だろうと「そういうもの」もあるのだと認める。
 しかし、昨日をもって名前の寛容など自惚れでしかないのだと、突きつけられた。自分宛に届けられた下品な欲望を喜んで受け取るほど、おかしくなってはいなかったことに胸をなでおろすほど。

「(女ってよりも明らかに私に向けて発情してるところが)」
「気持ち悪い?」

 考えないようにしていた、奥底に隠していた感情を覗き込まれる。立香の鋭い指摘は突如として名前の心を割り開き、隙間からじろじろと見下ろされているような、苦痛に近い羞恥をもたらした。

「ほらあ、やっぱりまだ具合悪いんだろ?どうして無理しちゃうかなぁ」

 やれ困ったようにため息をつかれ名前の顎がガクン、しなだれる。ため息をつきたいのはこちらの方だ。途方もない脱力感に見舞われ、一時限り、熱病の苦しみから逃れることすらできたような。能天気なクラスメイトがいっそ微笑ましい。バレないように汗を拭い、取り乱してしまった自分に呆れてしまう。他人の心を読める人間などいるはずもなく。しきりに保健室へ誘おうとする彼の提案は丁寧にお断りさせてもらう。

「私のことを気遣ってくれるなら、いい加減答えてくれる?」
「えっと、何のことだっけ...?」

 しらばっくれているのではなく、どうやら本当に分かっていないようだ。素性の知れない彼氏は立香の中でとっくに名前の男として刻みこまれているのだろう。どこの誰がそんな嘘を吹き込んだのか、詳しく教えてもらう為にも名前は重い体を引きずって学校までやって来たのだ。

 実はこの時点で無尽に広がる考察の片脇に一人の男が思い浮かんでいたのだが、その先を考えるとなると名前は彼を意識している自分と嫌でも向き合う羽目になるため吹き飛ばす。彼氏だなんてそんな。流石にないだろう。まるで彼に対してそうあることを望んでいるようではないか。

「彼氏の特徴?妙なこと聞くな」
「は、はは...。ちょっと他人から見た評価ってやつが気になってさ」

 何だよ惚気か〜?うっとおしいノリで小突かれるのは頭に響いた。名前に彼氏がいない事実を訂正するのは後に回す。説明する時間が惜しいのと、根掘り葉掘り聞かれるのは面倒だ。

「苗字が休んでる日の放課後バイトに行こうとしたらさ、校門の前で呼び止められたんだ」

 謎の男は立香の名前も、彼が名前のクラスメイトであることも知っていたらしい。彼女はつい最近まで立香をクラスメイトとすら認識していなかったのだますますもっておかしな話だ。ささやかな会話の流れから、名前は個人情報を握られている状況に手の腹へ深く爪を食い込ませた。

「イケメンで、」
「はぁっ!?」

 喉の痛みも忘れて机を叩く。勢いに呑まれ間の抜けた口を見せる立香と何事かと伺うクラスメイト達の視線に我に返り、慌てて腰を下ろす。けれども名前の表情は渋味を増す一方で、話すべき側に立つ立香は口を開きにくい状況へ追いやられる。

「(イケメン、いや、ありえない)」

 顔の良い男なんて今時どこにでもいる。基準も人それぞれ。彼に結びつけるには短絡的過ぎる。けれども、名前の知り合いで本人の気も知らずに平気で突飛な行動を犯し、尚且つ誰もが認める美貌を持つ男というのは一人しかいない。笑顔を浮かべれば全て許されてきたであろう、涼やかな微笑がふんわりこちらを振り向く。

「ほ、他には...、名前とか!」
「自分の彼氏だろ」
「忘れたの」
「えぇ...」

 なりふり構っていられなくなった名前は立香の胡散臭いものを見る視線にも構わない。眼力で口を開かせ、名前は名乗らなかったのか、と矢継ぎ早に問い詰めていく。

「背はまあまあ高くて、妙に人目を引いてた」
「......。」
「全体的に黒っぽい服装で。あれ高いやつだったよな」
「......まさか」
「あと黒髪で、」
「(違った!!)」

 断言するやいなや謎の人物のシルエット枠に、今にも嵌りそうになっていたアーサーの肖像画をハンマーで叩く。ガラスのごとく欠片が派手に散り名前は肩で大きく呼吸を乱しながら長い息を吐き続けた。

「金髪じゃなかった?」
「......金色ではなかった」
「そっかあ。良かったぁ」

 金色の髪にこだわりでもあるのだろうか、明らかに安堵する名前に立香は今度こそ小首をかしげる。彼は春を、新しいクラスを迎え一度も話したことのないクラスメイトと思わぬ場所で出会せたことを純粋に嬉しく思っていた。そして昨日、彼女の人となりをある程度納得したつもりでいた。しかし、どうやらそれは勘違いだったようだ。女の子はまだまだ奥が深い。

「名前はどうしてるって聞くから、休んでますって言ったらこれを渡してくれって頼まれて」
「大きいわね」
「それだけ愛情深いって思えよ」

 もちろん中身なんて見てないからな。立香が人差し指でちょんちょん突くのは、名前の机横のフックにかかった紙袋のことだ。席に着く前から全貌は把握していたが、あえて中身を確かめず立香の話を待った次第。予想していた通り名も知らぬ彼氏からのプレゼントと聞いて、うんざり気分が募っていく。昨夜の時点で贈り物には良い印象がないのも含めて、どこの誰とも知らぬ男の好意はやはり信じられないほどに嬉しくなかった。

「色男ってやつ?お大事にだってさ。心配そうにしてたから早く仲直りしろよ」
「へえ...。色男、ねぇ」

 ここまでかなりのヒントを与えてもらったが、名前の中にピンとくる人物は一向に見当たらない。若い男よりも年の肥えた男の知り合いばかりのため、誰一人連想できないのだ。自分の彼氏と名乗り、あまつさえ見舞い品を学校に持ってくるような男を不気味に思うのはもちろん、純粋な好奇心の芽が顔を出す。

「(どうして家じゃなくて学校にくるの?クラスメイトの名前すら把握しているくせに、家の住所を知らない、なんてことある?)」

 名前が知らないだけで彼女のことを知っている面識のない男が、どこからか学校の情報だけを引き当てたのか。一番理屈に沿っているはずの考え方も釈然としない。本能、第六感に当たる部分が紙袋は明らかに名前を見舞って寄越した品ではないのを告げているせいか。
 自身の好奇心を摘み、男につながる貴重な手掛かりの橋をかけてくれた立香へ素直にお礼を告げる。これからHRが始まろうというのにどこへ行こうとするのか問う視線が、紙袋の中心へ移動し始めるのを隠すように背中にしまう。席を立ち、教室を出ようとしたところで案の定引き止められた。

「待って、苗字」
「なあに。お礼の言葉だけじゃ足りない?」
「まあ、うん。その」

 曖昧な返答には意地の悪さなど垣間見えず、ただ名前にお願いしたいことがあるらしい。軽快な調子は何処へやら、途端に大人しく指を擦れあわせる立香に怪訝な眉を隠せないでいると。

「マシュちゃんの連絡先、知ってる?」

 なんと、こっちもか。
 健康そうな頬に赤い花が咲く。名前は唖然としながらも、仮に事が運んだ場合に立香の行く手へ塞がる二人の壁を想像してしまった。兄は理知的に判断できそうだが、父の方はどうなるか、逆の場合もあるかもしれない。ともかく口の端をくだらけさせる男に少し待てと手をかざす。マシュに許可を求めることを条件に会話を切ったものの、昨日から何かのキューピッドにでもあてがわれている気がしてならない。

 立香のまだ何か言いたそうな制止を振り切り、名前は教室から離れたトイレに駆け込む。個室の一番奥の鍵を閉め、何が来てもいいように心の準備を整える。正直に言ってしまうと、プレゼントと聞いた時から嫌な予感はしていた。
 
「うわ...」

 暗雲の兆しが立ち込んでいたが、包装紙の色を目にした瞬間に予感が確信へ変わる。名前の膝の上にちょうどよくおさまるサイズの、今度は立方体だろうか、これといって変哲のないプレゼントボックスは既視感のある可愛いらしいリボンが結ばれていた。怖がっていても仕方がないから、意思を定めまではいいが、蓋を開けた瞬間に後悔する。中身の一部を視界に入れた途端、すぐさま視線を外してしまったが、汚物のような何かが、

「ほんっとに、なんなのよ。こんなものゴミ箱にだって捨てられないじゃない...」

 どうせロクでもないものと分かっていたのだから、開けずに捨ててしまえばよかった。どこにいるやも知れない犯人に向けて消えない恨み辛みが重なっていく。狭いトイレの一角で名前を苦しませるのはあらゆる性癖に優しかったはずの彼女を震撼させる代物でしかなく。どうやったらここまで気持ち悪いものを作れるのか、いっそ顔だけは見たいと冗談を呟いてしまうほど。吐き気に近い唾液の苦さを飲み込みつつ、変態行為という名の悪意は体にまとわりつき見えないところから彼女の内側を蝕む。けれども本人には自覚がないようで、名前はどうして己がここまで辟易しているのか明確な原因を見出せないでいた。
 もう一度何が起きているのか受け止めるためにも恐る恐る覗き込む。

「......っう」

 どうしたらこんな組み合わせが思いつくのやら。名前は静かに蓋を閉じ、肺にたっぷりの酸素を吸い込む。タイルに流れたリボンで万が一にも中身が落ちないように厳重に巻き直し、紙袋の底へ戻す。

「...どうしよう」

 一つはっきりしたのは、名前の恋人を名乗る男は昨夜彼女の家に気色の悪い下着を押し込んだ男と同一犯であること。黒髪の色男には見当がつかないが、きっと名前のパパ達の関係者に違いない。執着を買うとしたら彼らの琴線に触れてしまった可能性以外、考えられないのだ。家の住所なぞとっくに割れており、今まで誰にも話したことのなかった彼女の高校の情報について知られてしまっている。

「(でも、誰だろう。今知り合っている人達は皆優しいし...)」

 その人はきっとこの箱の中身に自分の夢を詰めて、名前に見せつけたいのかはたまた同じ目に遭わせたいのか、どちらにせよ説得では諦めてくれそうにない厄介な執念を抱いているようだ。このまま間接的なアプローチを続けるのは結構。次第に飽きてくれるのであれば願ったり叶ったりだが、どうにも落ち着かない。個室のトイレに鍵を閉めてあらゆるものを遮断しているのに、誰かに見られているような妄想がはびこり始める。

「(情けない)」

 名前は紙袋を極力視界から外し、熱にうなされる頭の片隅で失態を恥じた。不特定多数の男達と恋人でもない関係を持つのだから、いつか何かしらのごた騒ぎに巻き込まれる可能性もありうる。初めから気をつけていたはずだった。
 犯人が誰であるかに関わらず、これは名前自身の責任でもある。体を売らなければ粘着される日など一生来なかったのだろうから。自業自得という結果なのかもしれない。ただ反省はするものの後悔はなく、同時に被害者の皮を被るつもりもなかった。


 
 怖がっている自分がいる。こんなことをされるのは初めてで、どう対処したら良いのかも分からない。けれど、考えるほどに頭はガチガチに固まり、つもりもないのに足がすくむ。部屋の奥で身を縮こまらせるのは相手の思うツボ、見て見ぬ振りして現実を看過していてもいずれは何かが起きる。瞼の裏に描かれた未来に、名前はいつもと違う行動を起こさなければならないことを確信していた。具体的には相手の手の届かない場所へ逃げ込むとか。
 そのチャンスを掴めそうなのが今夜なのだ。名前は学生の本分を忘れ、日がな時計の針と役立ちそうな記事が載る携帯の光を交互に睨みつける。前回の失敗分を取り戻し、あわよくば夜を安心して眠るために絶対に成功させたい逢瀬があった。

 この時ばかりは得体の知れない相手について忘れる。自分の置かれている状況よりもずっと大切なものもある。決して楽観的に事を構えているつもりはないが、警察にも誰にも相談できないのだから様子を見るしかない。加えて上手くいけば今夜は家に帰る必要がなくなるので、むしろ安全策を講じているとも言えた。
 正しいことをしているのだと自らに刻みつけ、名前は担任の挨拶によって解散となるHRから誰よりも早く教室を飛び出す。少しは良くなるかに思われた熱が下がってくれていないようなのが唯一の懸念だが、急いで家に帰れば約束の時間に十二分に準備を整えて挑むことができる。決して悠長にしてはいられないことを前提に廊下を駆ける。

「苗字。おーい、さっき言い忘れてたんだけどさー」
「ごめん!また後で!」

 遠くにいるせいだろうか間延びした声がかろうじて耳に届く。けれどそれまでだ。焦りとはまた異なる理由から余裕を失っていた名前の耳には立香の声は周囲の雑音と何ら変わらない。適当に返事を張り上げ、後ろを振り返ることなく階段を駆け下りれば、立香の言葉は角の取れた擬音のようになって彼女に伝わることなく周囲の空気に溶けていく。

「別の日に来た、お前の保護者の外国人!金髪ですごいイケメンだったぞー...って、聞こえてないか」

 名前は悪かったが立香も悪かった。色々とタイミングが悪かったのだ。

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