何も届いていない、空っぽの郵便受けに胸をなでおろす。
 学校からの帰り道、そして蓋を開けるまでの短い時間、無意識のうちに緊張の糸を張っていたのがようやく解けた。名前は幾度も郵便受けがカラである状態を目に焼きつけ、ようやく渋い面構えを和らげる。次に玄関の隅へ打ち棄てられている下着の端を汚物でも扱うかのように嫌々ながら摘み上げると、学校に届いた新たなプレゼントと共にゴミ袋の底へ押しこむ。
 無心を貫いていたおかげで厄介物の始末はすぐについた。視界から消えて無くなるだけで、胸につっかえていたしこりが剥がれ落ちていく。少なからず安堵を得てしまったのは名前の存外弱々しいメンタルへの裏付けでもあったが、いずれにしても今回の件は良い毒になった。そういうことをしていれば想定外のトラブルに見舞われることもある。ここからどう対処するのかがきっと大切なのだ。

「(しっかりしろ。へこたれるのは、相手の思うツボでしょ)」

 袋の口を縛るに合わせて踏ん切りもついた。いつまでも怯えてばかりではいられない。名前はこれで終わればいいと祈りながらも、好き勝手してくれた犯人に逃げられたくない、相反した葛藤を抱きながらクローゼットに手をかける。
 この嫌がらせについて憶測を立てるにしても与えられた情報は限りなく少ない。答えが出るかも分からない問題について延々と唸るよりかは、まずは今夜の一幕に向けて準備をしたためる必要があった。解決はとりあえず先送り、名前はおろしたてのワンピースを引き抜くと辺り一帯に制服を脱ぎ散らかし頭からごそごそ首を通す。勝負下着ならぬ勝負服を鏡の前で照らし合わせれば、腰の動きに合わせてミニスカートの裾がひらりと舞う。

「んふふ、私ってば似合ってる〜」

 揺るがない自信に乗せて、あらゆる角度から違和感がないか調べていく。どこを切り取っても可愛い。文句のつけようもない愛らしさに満ちている。思いつく限りの賛辞を鏡の向こうの自分に贈り、極めつけにスカートの裾をなびかせながらくるりと回ってみせた。
 華麗な一回転を披露するはずが、踵を下ろす前に唐突な眩暈に襲われる。しまった、と焦ったが最後バランスを崩した体を立て直すこともできず背中にかかる痛みを覚悟した。

「(...油断した)」

 朝から出しっ放しの布団のおかげで甚大な被害は免れる。ズボラな性格なりに役立つ場面もあると証明された瞬間だった。
 なりを潜めていた頭痛が鐘を打たれたように頭蓋骨の内側で鳴り響き、忘れていたはずの熱っぽさが息を吹き返す。何気なく手を首に当てると、朝よりも温度が上昇しているような嫌な予感が拭いきれない。上体を起こした名前は薬箱を探るため部屋を這いずった末に、見つけた箱から冷却シートを引き抜くとおでことうなじににぴっとり貼りつける。何度も額をさすり肌と密着させると、燃え上がりそうになる熱を冷気が刺すように中和してくれる。

「あと1時間で良くなりますように」

 長い夜が始まろうとしていた。





「ーーー分かった。ただし、約束は守るように。早くなるのであれば連絡をくれ」

 必ず頼む。
 強く、念入りに言い聞かせるのは男の癖のようなものだ。
 誰彼構わず焼くわけでもない過保護を、説かれた本人はたまったものではないと言わんばかりに無言で終わらせる。ブツ、と分かりやすい音がたち、そこに相手の苛立ちと文句が全て詰め込まれているような気がした。切られた本人としてはぞんざいな対応に昔から慣れていたので、特に気にすることもないのだが。
 短い通話の間にボタンを留め終えた男は、裾をベルトの内側にしまう。清廉さを振りまくような容姿に落ち着いた群青色のシャツがよく似合っていた。続いてハンガーラックからクリーニングの皮を剥ぐと、埃一つないジャケットの出来を品定める。とは言え彼が用意された正装に注文をつけたことはなく、己の部下に対する信頼が早々に品の良い白ネクタイに手を伸ばさせる。
 結び目を首元までキュッと締めた時点で、タイミングを見計らったように小気味よいノックが3回届いた。

「構わないよ」

 伸びた声は廊下まで届いただろうか。防音の徹底されたこの広い部屋ではあまりに小さな呟きを、聞こえずとも察したと言わんばかりにウォークインクローゼットの入口から既に装いを決め込んだ男が窺うように姿を見せる。

「失礼いたします。...あぁ、やはりとてもよくお似合いです」
「君にそう言ってもらえると自信が持てそうだ」

 タイのバランスを整えながら、曖昧な笑みを築く。後ろ襟を正し、土塊の砂が綺麗さっぱり洗い流された頭髪を梳くと、高級ブティックのマネキンとも見劣りしないスタイルを決めた男がそこにいた。黄金律を象った肉体を特注のスーツが覆い、何気ない所作すら人を魅せる。滲んでしまう気品のせいで彼が高貴な出自であるのを隠しきれていない。

「予備を一式用意しておいて正解でした」
「なるほど。それでか」
「と、おっしゃられますと?」
「ギャラハッドがいたくあのスーツを推していてね。理由が分かったよ」

 後ろで緊張とも異なる、指先の強張る気配が伝わってくる。アーサーは鏡ごしに忠臣であるランスロットの顔色がきしむのを見逃さず、ひっそりと自責の念に駆られた。特別な意図はなかったのだが、少なからず嫌な気持ちにさせてしまったようだ。
 今夜着る予定であったスーツ一式はとある事情で使えなくなってしまった。記憶の片隅には抜ききれない土色のシミと格闘していたギャラハッドの背中が残っている。せっかく用意してくれていた服を大事な場面で使えなくしてしまったにも関わらず、今朝に挨拶を交わした彼はこの群青色のシャツも似合っていると本心から褒めてくれた。

 けれどもその裏側には父親が良しとすものに対して割り切れない感情が存在しているのも、アーサーは知っている。

「そ、そうか。朝からやけに刺々しかったのはそういうことか...!」
「あ...いや、彼の器はそこまで小さくはないと思うから、」

 結局いつも通り。
 と、アーサーは追い討ちをかける前に口をつぐむ。慰めが危うくランスロットのささくれを痛めつけてしまうところだった。そうでなくとも思い詰めた様子で気落ちしているのだから。苦笑いで言葉を濁したアーサーはがっくりと首を落とす彼が流れるように部屋のテーブル、ある一点を発見するまでを観察していた。

「それ、気になるかい?」
「不躾ながらつい興味を惹かれてしまいました」

 秀麗な目鼻立ちが萎み、懺悔を前面に押し出す。この男は謝罪をするくらいなら最初から見ようとはしない。アーサーへの誠実な態度は本物だ。ただし、心に長く太い信念を生やしてもおり、己が考えに従って主の書類を検分してしまう程度には真っ直ぐな男だった。
 故にこの顔だ。臣下としてそぐわぬ行いをしてしまった自覚を持ちながら、後悔はしていないのが潔い礼から見通せる。その正直さに免じてアーサーは咎めはしなかった。ただしそれ以上の説明を加えることもなく、テーブルの上に並べられた数枚の書類を静かになぞってから妙にもったいぶった仕草ですくい上げた。お気に入りのコレクションでも眺めるようにゆるり、良い表情で一枚一枚をめくっていく。

「これは言うなれば、賭けのようなものかな」
「賭けでございますか。興味を持っていただけたようで何よりです」
「そうだね。君の教えてくれた地下のカジノは楽しかった。今となっては非常に感謝しているよ」

 何事においても興味関心の値が一定の線を超えないランスロットの主であるアーサー。そんな主に喜んでもらいたい一心で紹介した賭け事の世界から、どうやら彼なりの遊戯を見つけたようだ。母国から遠く離れた異国の地において出迎えた頃に比べると心なしか瞳のエメラルドが鮮やかに瞬いている、とランスロットは思っている。
 書くべき欄は全て埋まっている書類たちが丁寧にクリアファイルにしまわれていくのを見守りながら、彼の頭には身に覚えのある名前がぐるぐると腹の底で渦巻いていた。そも最初は見るつもりなどなかったのだ。その名前を目にするまでは。

「我が主よ。不躾とは思いますが……、」
「言ってくれ。余計に気になってしまう」

 閉じたファイルを鞄に差し込み、すっかり仕事の顔が板につき始めているアーサーへ意を決する。この胸に巣食う好奇心が疑心に変わらないうちに尋ねておきたかった。それが杞憂だとしても、だからこそ彼から直接聞かせてほしい。そしてランスロットの予想が当たっているのだとしたら、願わくば。
 どこかすがるような臣下の求めをアーサーは黒いジャケットに袖を通しながら横顔だけで受け止める。特異の直感が彼に何を告げたのか、ランスロットの話に一応は耳を貸してくれるようだ。

「良い人がいらっしゃるようでしたら、私の方からお父上に口添えさせていただくこともできます」

 アーサーは瞬きをせず、立ち上がる。膝を伸ばすまでの寸秒に言うべき言葉はまとまった。

「それだけお伝えしたかった。私の我儘です」

 空目を使えばよいものを優しさから素直に物申してしまうのは美徳の為せる業だ。聞くものが聞けば憤りを覚えるのであろうが、ここにいるのは彼らだけ。アーサーは不意にランスロットのことが心配になった。「さあ、如何様にも罰してください」と四肢を曝す彼は保身なぞ一切気にしない。きっとこれまでに損な役回りを受けたこともあったろう。伝播して周囲にあらぬ誤解を与えていないか気がかりだった。けれどそんな彼だからこそアーサーはこの地で彼を供に据えたのだ。真にアーサーの意思を汲み取ろうとついてきてくれる、頼もしい部下にあることに間違いはなかった。

 金箔を縁取った薄箱から光をなめらかに反射するハンカチを引き寄せる。きめ細やかな生地の感触を味わい、たたみ、胸ポケットにしまい込む布ずれの音だけが静寂を支配していた。いよいよ準備も本格的に整ったところで、扉に向かう足先が思い出したかのように忠臣のふもとへ向けられる。

「ランスロット卿」
「はい」

 乾いた声。語尾の上がらない平坦な口調。ランスロットの片膝が地につき、首を垂れる。

「どうにも勘違いをさせてしまったようだね」
「……勘違い、」
「君のそれは思い過ごしに他ならない」

 すまない、私の落ち度だ。
 謝るアーサーにランスロットが自身を責めないはずがなかった。やはり尋ねるべきではなかったのだとつい数分前の自分に激しい叱責が降りかかる。

「此度の無礼な発言、いかなる罰もお受けいたします」
「いいや。少なくとも浮かれていたのは事実さ」

 年の功に似合わぬ、曇りのなきまなこ。見据える先はランスロットにすら計りきれない遠い彼方にある。アーサーは心の内を一切語ることなく、あくまでも男を安心させるようになだめてばかり。

「気を引き締めよう」
「...アーサー様」

 ランスロットの瞳があまりに悲痛に暮れるものだから、アーサーはまたもや口数の少なさで彼に思い違いを与えてしまったような気がして言葉を重ねた。

「間違っても、私を哀れんではいけないよ。決して虚しい人生を送っているつもりはないんだ」

 月並とは言い難いがかなり恵まれた人生を送っているつもりであった。決められたレールこそ用意されているが視野を狭め、自分の世界を小さくしているつもりもない。娯楽を謳歌し、面倒毎には真摯に対応する。必要に見合った努力を磨くことで多くのものを手に入れ、揺るがない地位を築いた。彼は男が思うよりもずっと充実した毎日を送っている。
ただし、

「彼女をそこまで気にかける必要はない」

 ランスロットは、せめてこの時点まで食い下がるべきだった。どういう意味で言っているのか尋ねるべきだったのだ。

「思い込みが招いた発言でした」
「よし、この話は終わりだ。それ以上頭を下げるのはやめてくれ。事実、痛い所を突かれてしまったと思ったよ」

 アーサーが許さない限り地蔵のように地面に張りついて動かないであろう膝を立たせる。上等なスーツにシワが寄っていない辺りは流石としか言いようがない。残るは夜を迎える前に眉山の険しい顔をどうにかしてもらわなければ、気がかりなのはそこだけだ。

「やるべきことを終えたら帰るさ。いつか必ず、ね」

 そう言ってアーサーが踏み出した以上、話を蒸し返すのはもはや不可能だ。深追いは自身の首を締めかねない。ランスロットは猛烈な後悔の波に押し寄せられながら、しかしどうして自分が半ば勢いに任せ口を開いてしまったことに理由を見出せずにいた。




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