しきりに時刻を確認し、落ち着かない様子でつま先を揺らす。不自然なほど辺りを見渡し、時折思いついたように前髪を整える、長らく同じ動作を繰り返している女がここに一人。

 待ち合わせの時間はすぐそこまで迫っている。浮き足立つ、名前の心は緊張と期待の狭間で揺れ動いている。
 地元から遠く離れ都心の小さな駅。日もとうに暮れ、改札の箱には仕事帰りを匂わせる顔ぶれが吸い込まれていく。オフィスカジュアルとは程遠い、彼女の際どいファッションはどうであれ視線を集める。名前は駅の近くからそっと避難すると人気の少ない高架下に逃げ込んだ。

「...ちょっと早かったかな」

 知り合いと鉢合わせないためとはいえ、まるで土地勘のないこの場所を待ち合わせに指定したのはやり過ぎだったかもしれない、微々たる後悔と、まさかこんなところで誰かに会うはずもあるまい確信を抱きながら、ただひたらすに待っていた。
 名前の中に「懲りる」という概念は存在しない。今度こそ上手くいくと当然のように思っている。失敗する可能性など微塵も考えず、彼女が楽しみにしているのは豪華なディナーに素敵なホテル、気になっているのは渡される紙幣の数だけ。要はバレなければ良いのだから、名前には不安も後悔も、もちろん反省だってちっと存在していなかった。

 化粧でも直そうか、手洗い場所を探し始めた名前を携帯の着信が呼び止める。緊張の反動で大袈裟に肩が跳ねたものの、いそいそと機器を取り出す。もしかしての可能性を辿りやや固い面持ちで画面と相対したのだが、並ぶ名前はしばし彼女を瞠目させた。

「…もしもし、マシュ?」
『あ、はい、マシュです。突然のお電話すみません』

 律儀に返すところがらしいというか。電話をかけながら頭を下げて謝っている光景が目に浮かぶ。申し訳なさたっぷりに語られ名前は許せないと冗談でも言えるはずなく。

『どうしてもお伝えしたいことがありまして』

 急用の予感を察知した名前はよっぽどの事情を推測した。心なしか電話口の声も少し上ずっているように聞こえる。辺りにそれらしき人影は見当たらず、長くならないのであれば、と続きをねだる。

『その...、さっき連絡網が回ってきて、私の学校だけ早めに伝わってきた情報らしいので、よければお伝えできないかと思いまして。余計なお節介かもしれないのですが』
「ちょっと落ち着いて」
『あ、っと、すみません!つまりどういうことかというと......捕まったんです!』
「よかったね...?」

 何が捕まったのかは不明だがマシュの喜びようからして吉報であることには違いなかった。真っ先に名前へ電話をかけてくれたということは、彼女にとっても良い報せであるということ。

『暴行事件の犯人です!ようやく警察が主犯格と仲間たちを捕らえたと連絡が回ってきました』
「あ。……あ〜、その話ね」

 上から数えて三番目程度には気掛かりであった事件。女子高生を中心に巻き起こっていた暴行被害はどうやら終わりを迎えたらしい。実害を被ることもなく小耳に挟むだけの遠い騒動であったが逮捕されたようでなにより。

「やっぱり何人か捕まったんだ。集団暴行って言われてたもんね」
『はい。どうやら大学生くらいの男の人達だったようです』
「えー、それってもしかしてあの人達かなぁ」
『あの人達...。先輩が追い払ってくださった彼らのことでしょうか?』

 マシュと名前の頭に下品な笑みを携えた二人の男の姿が浮かぶ。二人が初めて出会ったきっかけともいえよう、ナンパに勤しんでいた男達のことだ。あの場で名前が追い払って以来、彼らの姿を見かけたことはなかった。記憶の残骸にすらならない予定だった男達が立香の話によって再び息を吹き返し、脳裏にチラチラと過ぎりつつあった今日この頃。

「(オススメの場所があるとか、女の子を集めるのが仕事とか言ってたけど)」

 思い出すのに悩むほど昔の記憶ではない。今にして思えばただのナンパにしては奇妙な言動がいくつもあった。どこかへ誘導するような彼らの口ぶりは立香の語っていた暴行犯の手口と共通点を覚える節があり、巷を騒がせていた暴行事件との関与をマシュと名前は互いに口に出さないまま疑っていた。
 罪悪感を吐露するように誰かへ向けられた不意打ちの謝罪が名前の耳を打つ。

『そんな証拠なんてどこにもありません。決めつけてしまってはいけないと頭では理解しているのですが』
「”かもしれなかった”でいいじゃない。どっちにしろ二度と会うことはないだろうし」

 肝の小さそうな男達だった。たとえ事件とは何の関係もなかろうと自分たちが流血沙汰を起こした、と思い込んでいる場所には二度と近づくまい。

「何にせよ、これでもう普通に出歩けるね」
『はい!一緒に夢の国に行けますね』
「夢の国…、か」

 その件で、彼女に伝えたいことがあった。名前は嬉々としてスケジュールを尋ねてこようとするマシュに待ったをかける。電話の向こうからは「どうしました?」と当然ながら疑問を突いてくるものだから、名前はらしくもなくたじろいた。

「そのことなんだけどさ、」

 しどろもどろ、口下手も良いところだった。これでは疑われてしまうと分かっていながらも、適当な言葉が見つからない。定まらない視線が逃げ場などないのにあちこちをうろつき、そして駅前広場にポツンと突き刺さった時計の針を見つけた。

「…ごめん。また後でかけ直しても大丈夫?」
『はい。それは全然構わないのですが』

 約束の時間に差し迫るどころか過ぎてしまっている。もっともらしい逃げ道を見つけた名前はすかさず「早ければ今夜にでも連絡するから」いくつか言い訳を挟み込んで、何か尋ねたがっているマシュとの通話を無理に終えた。

「(マシュ、何か言いかけてたな…)」

 タイミングが悪かったということでおさまりをつけた名前は、途切れた通話画面を消すのと同時にマシュと暴行事件のくだりを思考の外へ追いやる。真っ暗な携帯に映る、高校生らしくない自分の顔をもう一度確かめると、すらり背筋を正し胸を張る。




「名前ちゃん?だよね」
「えっ、」

 信じて疑わない声が呼び止める。呼ばれたら反応してしまうから名前なのであって。

 高架下の向こうで男が佇んでいた。
 距離にして近くもなく遠くもなく、ぽよんと突き出た大きなお腹が特徴的なそれなりの歳を越えた男。焦茶色の布地が視界を遮り、香水のかぐわしさに不覚にもドキッと音が鳴る。名前は一縷の可能性を編み上げると、預けていた壁から背中を戻し、その人と向き直る。

「どうして分かるんですか?」
「僕みたいな年の男になるとね、外見だけでその子の名前が分かるようになるんだよ」

 二の句を突っ込みたくなるような台詞が、出てこなかった。
 ふくよかな腹回りはだらしないどころか旨味汁がぎっしり詰めこまれた賜物であり、柔和な笑みには高所得者特有の余裕が透けて見える。ハイブランドにのまれることなく渋味のあるスーツを着こなし、艶光る靴には傷一つない。
 名前の勘が手を叩いて喜んでいる。彼は大当たりだと、誰かが囁いた。



 日夜男漁りに励む毎日。出会いはインターネットの至るところに転がっており、大抵は向こうから声をかけてくるものだが今回は珍しく彼女から声をかけた。優良物件は待っているだけではやってこない。自分から動かなければライバルに遅れをとってしまう。
 それでも高校生という年齢柄、堂々と話しかけられないでいた名前が珍しく会いたいと強く願った人物こそ目の前の男。彼は名前が高校生という爆弾を抱えていても臆することなく今夜の待ち合わせを承諾してくれた。

「今夜はよろしくね。君が頑張った分だけお小遣いも弾むと思って」
「〜〜〜っ...!」

 ご馳走を前に待てを食らった犬。目の色が変わり、期待が恐るべき速さで階段を駆け上る。声が出ないのか顎をこくこくと刻んで、男の元に擦り寄る。彼の瞳には名前が子犬にでも映ったらしい。頭をポンポンと撫でると名前は忠犬よろしく尻尾を振る代わりにニコッとかわいらしい笑顔を作った。

「は、はい!名前です、よろしくねっ」

 かねてより効率の悪さをどうにかしたいと考えていた。名前には複数の支援者がいるが、はっきりいって一人一人からもらえる援助は微々たるものだ。毎月何人もの男達からせっせと木の実をねだるよりも、たった一人だけでいいので美味い肉を振舞ってくれるような男と出会いたい。いわゆる数より質へ、いい加減に太客を手に入れたかったのだ。
 たまにいるのだ。たくさんのお金を女の子に振る舞うことに躊躇しない人間が。

「(良かった!来て本当に良かった!)」

 夏風邪とストーカー行為に悩まされ、化粧をするのもヒールに足を通すのも、ましてや何駅も乗り継いで都心深くに繰り出すのも全てが臆病になっていた。だが、労力に見合うだけの価値が今夜の出会いにはあった。名前はついぞ体の不調を忘れ心は男の懐へ一直線に傾いていく。

「写真で見るより全然かわいいねぇ」
「ほんと?すごく嬉しいっ!」

 やり過ぎない露出に上品で可愛らしい色を取り入れ、女の子らしさと大人っぽさを上手く織り交ぜた今日のコーディネートは今夜のために何日も前から用意していたもの。毛の先端から足の指先まで手入れを怠らず、自分でも健気と思うほどにまだ見ぬ彼へ尽くしてきた。その努力が報われる時がきた。
 鼻の下を伸ばしているのはお互い様ときた。上々な反応に心の中で小躍りしながら、さりげなく男の傍に寄り添う。ふと油断をしていると咳と鼻水が出そうになるのを気力と笑顔で押し殺し、足がもつれないように普段より力を込めて歩く。

「まずは軽くご飯でも食べようか。オススメのお店があるんだ」

 彼女なりに色々な男を見てきた勘が、彼の格好からして当たりの鐘を鳴らす。人となりの良さが滲んでやまない彼こそが名前の運命の相手だったのだ。

 乗り込んだタクシーは仕事を終え駅へ向かう人々の流れに逆らって、彼方にそびえる摩天楼の中心を目指す。そこは名前を聞けば誰もが一貫して、金持ち御用達の印象を抱く有名な街だった。安いラブホテルではなく、一泊すれば自慢できるような箔付き高級ホテルがいくつも健在し、言わずもがな世界を代表するようなブランドの本店が軒を連ねている。星に見合った有名な料理店から知る人ぞ知る隠れた名所まで所狭しと並んでいるのだ。
 美味しいものを食べようと待ち合わせの場所を指定するメッセージが届いた時の喜びようは、今思えば自分でもいささか滑稽だった。ずっと行きたいと思っていた街に誘ってくれたのは彼だけだったのだ。渡すものだけ渡して場所も食事もケチる他の男達とはどこか違っていた。

「名前ちゃん」
「はい?」
「可愛いなぁって」
「ふふ、ありがとう」
「いやいや、本当にそう思ったんだよ。もう君さえよければすぐにでも次のデートの日程を決めたいくらい」

 思いがけない誘いに名前は目を丸くする。嫌な印象は抱かれていないと思っていたが、まさかそこまで気に入ってもらえていたとは。行為はおろか、食事すらまだだと言うのに。嬉しく思う反面、流石に話が上手すぎるのではと疑ってしまう。

「ええ、私でよければ喜んで。ご飯でも食べながらゆっくり決めましょ?」
「いいねぇ」

 少しでも怪しいと感じれば都度いくらでもスケジュールをはぐらかすことができる。念のため保険を用意し、名前は太ももに乗る男の手に自身のものを重ね合わせる。時間をかけてどう攻めようか考えていたのだが、この積極的な態度からして案外ハードルは低く設定されているのかもしれない。名前のことを女として見ているのなら、それはもう勝利したも同然。確固とした証拠欲しさに名前は薄暗いタクシーの中でもう少し相手の顔を見ようと首を傾けた。

「わっ、今のなに?」

 それが向かいの車窓を過ぎった瞬間、思わず素が飛び出してしまった。探ろうとしていた顔を忘れ、つい身を乗り出す。あっという間に後方へ流れてしまった景色であったが、かなりのスケールがあるのかまだ視界に届いている。正体の掴みきれないそれ見たさに名前の視線は窓の外に釘付けになっている。
 いきなり膝をまたいで体を乗り出してきた少女に男は驚いた様子であったが、怒ってはいないようだった。恰好と心の広さが比例している。

「いきなりどうしたんだい?」
「あ、ごめんなさい...。あそこのとても立派な建物が気になって...」

 どれ、と男は名前の指差す方向に首を捻る。並木道の一角に構えるそれは他を圧倒する存在を放ち、ただでさえ華やかなこの街の中である種の特別感を匂わせている。

「目敏いね。あれ、ここらで一番良いホテルだよ」
「そうなんですか?」
「そうそう。最高級の冠ってやつ」

 教えてもらった名称は大してホテル事情に詳しくない名前でも知っている有名ぶり。聞いたことはあるが実物を見るのは初めてであり、素人目にも素晴らしく映ったエントランスの一部が頭の奥に刻みついている。いかにも格式高そうであったが、それだけで収まらないから良いのだと男は語った。

「歴史と伝統を誇りつつ、新興ホテルに負けないおもてなしが客を呼ぶのさ」
「へえ、凄い...」
「さすがの僕もあそこに泊まるのは難しくてね。ゼロの数がかなり飛び抜けてるのがなぁ」

 名前のお金持ちの基準が新たに書き換えられた瞬間であった。隣に座る男もかなり優秀と思っていたが、本人曰くあのホテルに泊まるのはもう少し歳をとってからとのこと。さぞやお金を持っているであろう彼をもってしてそこまで言わせるほどのホテルに夢を見るなという方が無理な話だ。どんな人が泊まっているのか、想像をかきたてられた名前が他の建物の影に隠れるまで窓の向こうに視線を注いでいると、タクシーが速度を緩め始める。

「まあ、これから行くところも結構良いところだよ」
「っと...…は、はい。予約してくれてたんですよね?ありがとうございますっ」

 ミーハー心が浮き足立ち、美しいホテルに気を取られ過ぎてしまった。興味の対象が自分からホテルに完全に移り変わってしまったのを隠しきることができなかった。曖昧な表情のまま笑いかけられたので、もしかしたら少しプライドを傷つけてしまったかもしれない。タクシーの精算を済ませてくれている過程で何のためにここに来ているのか本来の目的を思い出す。

「(いけない。今日はこの人に喜んでもらうために頑張らないと)」

 男に気づかれないように小さく鼻をすすり、目的を持ち直す。今夜は一片たりとも気が抜けない、抜いてはいけないのだ。何故ならこのまま食事を終え、向かった部屋で致す行為の末に名前はもうしばらく稼ぐ必要もなくなるほどの大金を振り込んでもらう約束をしているのだから。




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