“名前ちゃんお金が欲しいの?”
“いいよ。とりあえず会ってくれたらこのくらいあげる”
“気にしないで。可愛い女の子に喜んでもらうのが僕の生き甲斐だから”
“その代わり、ね。僕のことも癒して欲しいな”

 二つ返事で食いついた。「はい、もちろん」送った言葉に嘘偽りはなく、少し体を貸すだけで大金が流れ込んでくるのなら自分はなんと恵まれているとすら思った。
 こんなの簡単だ。

 と、思っていたのだが数時間前の話。それなりの経験が名前の過信を誘った。





「嫌なものはいや!しつこいんだよッ、クソオヤジ!」

 まさか、こんなドスの効いた声が出せるとは思わなんだ。名前は濁音混じりの怒声を中途なく言い切った後で驚いた。勢いのまま口走ったせいか肩が大きく上下し、胸の中心がドクドクと鼓動を打つ。沸点を容赦無くぶち抜いたせいだろうか、思考の方も混乱している。改めて状況を整理しようとしても、「ネイルに傷がついているかもしれない」そんなどうでもいい心配事が浮かぶ。
 目の前の男の容体を気にかける余地など今の名前にはない。ただ訳も分からぬ興奮に押され湧き出るアドレナリンにひどく昂ぶっている体を抑えることに必死になっていた。だから彼のとんでもない格好に何が起きたのか他人事のように眺めている時間が少しだけあった。
 踏み心地の良さそうなカーペットの彼方で醜い巨体がみっともなく伸びている。片方の靴は脱げ、ジャケットには無残にシワがつき、隠されていた禿頭が見事に開帳されてしまっている。
 あまりに無残な姿だ。誰かに勢いよく突き飛ばされない限りこんなひっくり返り方をできるはずがない。

「(誰かに……)」

 ブワッと滝のように湧いた冷や汗が止まらない。風邪の症状の一つと自信を持てたのならどれだけ良かっただろうか。わずかな現実逃避の時間も、いい加減に終わりだと宣告されてしまった。目を覚ましつつある名前がふらふらの思考の隅で唯一確信していること。

「(やってしまった...)」

 かなりの力で突き飛ばした記憶がある。気絶まではしていないようだが痛みに呻いており、しばらくは立ち上がる気配はない。体のどこからも血が流れていないことに不謹慎にも安堵してしまったが、次の瞬間己の頬に張り手を打つ。

「(馬鹿!この耐え性なし!少しくらい我慢できなかったの!?)」

 言葉にできないほど目まぐるしく流れていく罵倒の数々。矛先はもちろん無言で頭を抱える自分に向けてだ。あともう少しで、ほんのちょびっと息を止めていれば次の日にでも名前の口座は腹一杯になっていただろうに。
 泣きそうになるほどの後悔の渦に苛まれる一方で、目的を見失うほどに嫌だったのだな、と冷静に分析する自分がいるのも事実。名前はもう取り返しがつかないことを自覚しながら、このまま逃げる訳にもいかずおずおずと頼りない足先を向けた。

「あ、あの〜、大丈夫ですか?」
「それを......君が聞く?」

 ですよね〜、名前は小心者よろしくすぐさま引っ込んだ。
 痛みがおさまってきたのか、たどたどしくも体を起き上げた男は、最初に出会った頃とは打って変わった面持ちでソファの元へと身を引きずっていく。名前が何も言えず、何も出来ず、ただ見守るしかない中で彼はどっしりと尻を落とすとそれはもう深く長くうんざりしていますと言いたげな息を鼻から流した。

「(やばい...。完全に目が据わってる)」

 名前は空調の効いた広い部屋で妙な寒気を感じながら、男の反応を待っている。もう今更何を言いつくろったところで目の前の男は許してくれないだろうが、トラブルの種が芽を出さないようにひとしきり怒られてから帰る必要があると判断したのだ。

「いつまでいるの?」
「えっ、と...それはどういう...」
「これ以上居座られても迷惑なんだよ。純情ぶるなら他の男にやってくれ」
「(うぅ、これはかなり怒ってる)」

 名前は肌寒さを我慢しながら縮こまってしまった心臓に訴える。早く謝れ、と。男という生き物に対して基本的に不遜な彼女が珍しく一辺倒に非を認めるほどの失態。よりにもよって今夜、絶対にやってはいけない人の前で犯してしまった。

「体は売れるのに唇は売れない?そういう処女性っていうの?いらないんだよねぇ」

 なまじこれまでの印象が良かっただけに目の前でいきなりタバコを吸い始めた男の空気に呑まれてしまう。少しばかり予想と違うとすぐに相手に引きずられてしまう弱さはまだ直りそうにない。そして慈悲の一切を排除し淡々と喋る男に名前を愛おしく見つめていた熱はもうない。

「こっちは貴重な時間を割いて、レストランとホテルの予約までしたっていうのにさ」
「ごめんなさい...。反省、してます」
「なら早くキスしてみなよ、ほら」

 できるのか、胡乱さを隠さない瞳が問いかける。名前を試し、もう一度だけチャンスをくれている。立ち尽くす彼女の背中を追い立てるものがある。早く彼に歩み寄って、謝ってキスをしろと命令する。唇と唇を押しつけるだけの単純な行為だ。気持ち悪く感じる必要がどこにある?
 瞬きの頻度が増え、どうでもいいところに視線が行く。男の元へ向かわなければならない足が鉛と化して動かない。急速に周囲の音が閉ざされていく中で、時間切れを告げる溜息が短く落ちた。

「もういいよ。僕自身、そこまで君にこだわってるわけでもないし。未来の旦那のためか何だか知らないけど大事に取っておけば」
「......すみませ、」
「たださぁ、もう少し必死になった方がいいんじゃない」

 名前の鼻を不快な煙がつく。咄嗟に息を止めたがすぐに限界がきて、せめて臭いを感じないように口による呼吸を心がける。

「体でお金稼いでるんだよね?」

 所詮は子供のままごとか。

 そこから先、何を言われたのか名前の記憶には残っていない。ただ、子供扱いされることを何より嫌う彼女が今夜ばかりは自業自得の結果に俯いたことだけは確かであった。




 部屋に入るまでは有頂天だった。レストランの食事はどれも感動する味で、酒を飲んでもいないのに名前の心は完全に酔っていた。久方ぶりの感覚。あれは、そう。アーサーと初めて出会った夜を思い出す。彼の上辺に舞い上がっていた以来の幸福感。扉を閉めた途端、丸い腕が腰に回り酒の匂いに体が包まれ、降りてくる唇の気配。それに待ったをかけたのがそもそもの間違いであった。

『キスはなし。ごめんね』

 会うたびに男たち皆に言っている台詞だ。ここからの反応は過去、似たり寄ったりだった。何故どうしてと残念がり、彼女が頑なに拒むことを知ると渋々引き下がる。その代わりいっぱいサービスしてあげるから、名前が口癖を紡ぐと、機嫌が直っていく。否、キスができないからこそいかにして機嫌を取るかが名前のテクニックの見せ所だったのだ。
 今にして思えば幸運な巡り合わせが続いていたのかもしれない。彼の反応は名前の予想を裏切るものであったが、男として当然の反応である。

『いいじゃないか、キスくらい』

 しつこく粘着に絡みつき、他のことはすると何度言っても聞く耳を持たなかった。じゃれ合いのような抵抗が次第に、少しずつ形を変えて、ベッドの上に逃げる名前を追い詰める。重い腹が容赦なくのしかかり、本格的に身を捩ることもできなくなった末、指が痛いくらいに顔を押さえつけた。本当に無理だから、と叫ぶ名前を嘲るように容赦なく近く唇を目にした途端、筆舌尽くし難い嫌悪に呑まれ、あとのことはよく覚えていない。

「...はぁ、くそおやじは言い過ぎたか」

 ぶち壊しにしたのは名前だ。悲しさの原因は自分で作った。嘆くのは結構だが、うじうじと悩んだところで全て言い訳でしなかい。ホテルの部屋を飛び出し、エントランスから逃げるように去ってどのくらい歩いただろうか。良い子は寝て、悪い子は夜更かしに浸る境目のような時間帯。駅までの暇つぶしに横目だけでも眺めていくつもりだったブティック店は明かりを落とし、そこら辺を練り歩く数少ないカップルは次々と夜の香り漂うクラブやバーへ入っていく。
 予想外に人気の少ない通りは名前の惨めさを際立たせる。こんな都心まで足を伸ばした挙句、嫌な思いだけして帰る羽目になるとは。全くもって想像すらしていなかった。

「ううぅ〜、頭が痛い。これやばいって...」

 近くに人が歩いていないのをいいことに不調を訴える。誰かに対して助けを乞うつもりもないが、口に出して文句を垂れるくらいならば罰は当たらないだろう。油断すればヒールの踵を捻りそうになるので、注意して歩く。しかし歩くという所作に意識を注ぐのは思ったより骨が折れるもので。しっかり足を伸ばそうと考えるほどに頭がぎゅうっと締めつけられる。まるで蛇に頭蓋骨を締め上げられているようだ。鼻息の荒さからも自分の体がどのくらい参っているのか、よく分かる。本当に限界ならば近くのファーストフード店にでも入っただろう。しかし、帰るだけの体力はまだ残っていた。

「(さいあく。ばか。あほ。まぬけ)」

 身体中の関節が錆びたように軋んだ痛みをあげ始めると、考えることも単純になってくる。目と鼻の先に垂れ下げられていた札束がものの数分で帰らぬものとなった。チャンスを逃した後悔とやるせなさの力を借りて名前に巣食う病原菌が彼女の体力と気力をじわじわと奪っていく。歩き始めてしばらく、そろそろ冗談も笑えないほどに頭痛が主張を増してきた。
 名前は緩やかな坂道を登り切るためにも心地良い布団のことを考えながらどうにか、引きずるように足を伸ばす。いつしか視線は下を向き、考えることすら放棄して棒のような足を機械的に動かしていく。すぐにでも眠ってしまいたい欲求を抱えながら頂上付近までたどり着くことができた。

 永遠と続く石壁の角を曲がり、ひたすら真っ直ぐ進めば駅に着くところで、車のとまる気配がした。
 コンクリートを擦るタイヤと蒸していたエンジンのやむ音。顔を上げた視界の中に車体はなかった。方向からして名前の死角、坂の曲がり角の向こうに停車したことを教えてくれる。こんな時間に道路に止まるとなるとタクシーであるかもしれない。もし運が良ければ駅までの足にできる。早く家に帰りたい一心から期待を込めて頭を伸ばす。



 見慣れない色がなびいた。
 久方ぶりに胸の奥をくすぐるような、陽の色だ。

 思わず息を止めた、限りなく短い時間の中で名前は自身の胸が少しだけ軽くなったような錯覚を覚えた。そう、錯覚に過ぎなかった。彼女の前に立ちふさがったのはもっと厄介な存在。

「......うわ...」

 名前は真顔で頭を押さえた。唐突に頭痛が激しさを増したのだ。より正確に言い当てるならば元々風邪に苦しんでいたところに別の類の厄介毎が飛び込んできて頭の中をかき回されたような、うんざり感。見てはいけないものを見てしまったばかりに起きた不調。残り少ない活力のようなエネルギーがみるみる削がれていくような気怠い感覚に、改めて"それ"の脅威を思い知る。
 彼女の心は驚くことすら飽きて、起こりうる面倒を予期して早くもげんなりと萎えてしまったのだ。萎む目元をこすりながらとりあえず幻覚ではないことだけを確かめて、立派な後ろ姿を上から下まで観察する。

「(足なっが)」

 同じ人間であることを疑うような恐ろしいまでのスタイルを見せつけて、夜の道に浮かぶ金髪が名前の注目を引きつける。未だこちらを見ない顔ではあるが誰であるかは一目瞭然。
 会いたくなかったはずの男が、そこにいた。




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