あれはタクシーではない。
 なめらかな艶を放つ黒塗りの高級車から降りたったアーサーは車内の誰かと楽しげに会話を交えている。金色の頭だけが妙に浮いていると思ったところで濃紺に染まったスーツを着ているのだと分かった。

「(変だな...。不思議な感じがする)」

 一言で表すとしたら懐かしさ。と、当てはめるのが妥当であるか。
 考えてみれば一週間も経っていないのだが。それなのにどうしてかあの背中を久しいと思ってしまう。名前は過ぎ去った時間の感覚に疑問符を浮かべたものの、理由を探ることなく端に追いやった。
 壁から頭だけを伸ばして彼の背中を眺めていた矢先、チャームポイントとも呼べそうなアホ毛が揺らめいたのだ。まるでアンテナのようにふわりと傾いて、ぱったり身動きを止めた胴体が角度を変える。

「(...やばッ!)」

 距離にして数メートル。遠くもなく近くもない距離で、彼なりに何かを察したらしい。しみじみと観察に熱心だった名前の視線の気配でも悟ったというのか、碧の瞳と重なる前にすぐさま首を引き戻す。直後、後ろを振り向いたアーサーと急いで身を隠した名前の動作は数秒も違わず同時に終わりを迎えたが、バクバクと打ちつける心臓のうるささに彼女は一向に落ち着くことができなかった。
 彼の視界に名前の姿は完全な死角になっているはずだ。だというに壁を通り越して見られているような気がしてならない。実際アーサーは考えの読めない視線を変哲もない曲がり角に注ぎ続けている。

「(見つかったら...まずい、気がする。どうしてかは分からないけど)」

 前回は酷い別れ方であった。名前が一方的に恨みを抱いているだけかもしれないが、まさしく悪夢と呼ぶにふさわしき仕打ちを残して去っていった男だ。故に会いたくないと考えるのは当然の摂理であろう。加えて今夜の名前はホテルの乱立する夜の街に狙ったようなワンピースを身につけて、まさしく言い逃れのできない状況に追いやられている。ただでさえ疲れのたまった体に、真正面からアーサーのお説教を浴びるとなれば...

「(お、恐ろしい結末を想像してしまった)」

 自分の考えた最悪のパターンに身震いを起こしながら、どうにかして彼がこっちに来ないよう祈るばかり。露骨に怯える自分を情けないと嘆く一方で、この身は散々なめさせられた苦汁の味を覚えている。二度あることは三度あるというが、その三度目を起こさないためにもここで見つかるわけにはいかなかった。

「いかがされましたか?」
「そこに、誰かがいたような気がしたのだけれど」

 新たに聞こえてきた声には覚えがある。マシュとギャラハッドの父親であるランスロットのものだ。夜道の向こうに去っていく車にポツポツと交わる二人分の会話。どうやらギャラハッドはいないらしい。彼には申し訳ないがそれはもう大きな安堵が胸中に広がっていった。
 
「では私が確認して参ります」

 ギク、心臓が折れたかと思った。
 もうこんな夜中だというに、名前の安堵はランスロットのハキハキとした調子によって束の間に終わる。四肢はガチガチに強張り、とんでもない発言に目を剥いて焦りが露わになっていく。直線が続く道を駆けて逃げる手段を取ることも憚られ、あわあわと自身のまわりを右往左往している。そうしている間にもランスロットが近づいているというのに彼女の頭はどうしようと単語を並べるばかりでいつまで経っても逃げ道が出てこない。

「おっと、」
「おや。君だったんだね」

 さっさと来た道を戻ればよかった。ぐうっと、遅い後悔を抱きながら目をつぶる。壁に張りついて後悔一色にさいなまれる名前の耳が痛がっている。見つかってしまったからには仕方がない。これ以上醜態を晒したところでどうにもならないと諦め、意気消沈しながらも歩み出ようか迷いを巡らせる。

「可愛らしいお嬢さん。ずっとそこに隠れていたのかな」

 それにしても道の往来で口にするには恥ずかしすぎる台詞だ。彼でなければ寒気立っていただろうに。口奏でる人間が変わるだけでとんでもない威力を発揮する。

「(猫相手だけど)」

 少なくとも名前の周りにいる男はこんな恥ずかしい口は開かない。これが英国紳士の織りなす所業なのであろうか。思わず感心しそうになって流石にないだろうと頭の悪い考えを振り払う。
 今の今までどこに隠れていたのか、彼女の足元を悠々と歩いていった子猫は角を曲がって二人の前に躍り出る。ランスロットがあと一歩で角にたどり着く直前の出来事であった。

「(ともかく助かった。ほんとにこういう展開ってあるんだ)」

 アーサーの歯の浮くような台詞に照れたようにゴロゴロと甘えているのが見えなくとも伝わってくる。ランスロットの声が少しずつ遠くなっていく様子からして彼が踵を返したのをひしひしと感じとる。名前はゆっくりと一回だけ大きな深呼吸を繰り出すと、心の底から胸を撫でおろす。

「(てゆーか、なんでメスって分かるのさ。オスかもしれないじゃん)」
「子猫ですか。失礼ながら雌猫とは限らないのではありませんか?」
「(そうだそうだ。言ってやれ)」
「女の子だよ。見たら分かる」
「ほう...。流石でございますね!」
「(え、今の褒めるところなの?)」

 名前にはよくわからなかったが、記憶を辿ってみれば彼らのコミュニティの中ではアーサー至上主義のような、主の言動を三割くらい増しで眩しく解釈する独自のフィルターがかけられていたような気もしなくはない。

 アーサーとランスロット。彼らがここにいる理由は不明だが、この街の特異性を考えれば自然と理解は追いつく。羨むほどの金持ちであることはとうに把握済み。公用か私用かは知らないがどうしてここに、などと今更驚いてやる必要もない。
 ただしタイミングについては呪わずにはいられなかった。決して狭くはない街でよりにもよってどうして、この時間この場所でこれほどまでに近い距離でまみえることになってしまったのか。名前の身売りを何がなんでも止めさせてやる第三者の悪意を妄想せずにはいられない。

「(しかしコイツ…、本当にピンピンしてるわね)」

 マシュの語った通り、子猫を可愛がるアーサーの声音に不調の色は見られない。同じだけの雨量を浴びて、きったない泥すら被ったというのに、詳しい事情までは分からないが少なくとも名前ほど弱ってはいない。認めたくはないが、惨めだ。しつこい風邪はせめて二人で等分するべきだろう。

「今夜は帰らなくていいのかい?」
「明日も早いですから。それに貴方様に比べれば私のスケジュールなど多忙のうちに入りません」
「(仕事、忙しいのか)」
 
 そんな二人のやりとりがどこか遠く聞こえた。風邪は良くないものを運んでくる。弱った体に弱った思考、普段は考えもしない妄言を吐き出そうとする。

「(じゃあ、...来れないよね。そりゃそうだ)」

 唐突に力の抜けてしまった足腰の流れに従って名前はずるずると地面にお尻をついた。自分でも驚くほど熱を孕んだ息をこぼしながら、目の前で来た道を戻っていく子猫の尻尾を見送る。可愛がられるのも飽きたらしい。子猫にさよならを告げるアーサーの呑気な挨拶に、無性に苛ついて垂れてくる鼻水をゴシゴシと強く擦った。

 二人の声が完全に聞こえなくなると辺りは再び静寂の夜に戻っていく。腰を引きずって曲がり角の向こうに誰もいないことを確かめる。
 誰の声もしないのだから誰かがいるわけでもない。それは当然、なのだけれど。

「(気づかれなかった)」

 ポツーン、と名前だけがそこにいた。胸に渦巻く感情の正体もつかめないまま、丸まっていた肩の力を静かに抜く。四つん這いに近い姿勢を持ち直し、膝にこびりついた砂利を払う。うるさいほどに鐘の鳴り響く脳内は何に限らず考えることを放棄させようと圧力をかけてくる。
 立ち上がった名前は再び駅までの道を歩み始めた。



 そこに橙色の穏やかな光が俯きがちの視界に差し込んで、名前の顎を持ち上げた。植物の蔦をモチーフにしているのだろうか、複雑な隆起を描いたランプは彼女が今夜泊まるはずであったモダンデザインのホテルとはまるで正反対の美しさを放っている。
 名前の背丈を軽く越えて、石レンガの上にちょこんと佇む明かりは、道ではなく入り口を照らしていた。夜の街の中でも目立つようにと強い光を放って、歩むものの足を止めさせる。

「ここは……」

 もう一つ、同じデザインをかたどったランプが離れた直線上に並んでいる。二つの明かりが挟む道は遠い先まで斜面が続き、緩やかな石畳の丘の向こうでちらちらと光り輝き名前を誘うものがあった。
 世界が急速に広まっていく感覚。とても大きな存在のほんの一部だけを目に当てていたのが、ついには全貌を一望するまでに至る。上から下までとてつもない迫力を添えて、憧れを抱いたばかりの建物が名前の前に現れた。

 とても綺麗なホテルだった。

「(あの二人はこの道を…、つまりこのホテルに宿泊している、と)」

 何という連中なのだろう。知るところによれば超がつくこのリッチなホテルは悠々自適な生活に憧れていた名前ですら夢のまた夢と諦めていた場所であったのに。どこからかこの登り坂を平然と登っていくアーサーの背広が幻覚となって現れ彼女を挑発する。

「(そ、そんなに金持ってるなら私に美味い飯の一つでも奢りなさいよ…!)」

 身近に誰よりも勝る太客候補がいるのに、どう足掻いても口説き落とせる気がしない。上限の見えない攻略難易度を誇る男から、いつか二回分の代金を支払ってもらう決意をここに誓う。
 妬みもそこそこに名前は改めて立派な門構えを見据えた。

「……。」

 似たような光景を、タクシーの中で見た。あの時と違うのは閉じていたはずの門が開いていること。隠されていた敷地の一部が露わになり、ヨーロッパの街並みを連想させる道が彼女の好奇心をかりたてる。
 遊び心でちょろっと足を伸ばしてみる。公道を跨いだヒールの先がてしてしと石の上をたたく。続けて首を伸ばし辺りを見回す。てっきり警備員や屈強なガードマンでもいるのかと想像していた名前の予想は良い意味で裏切られた。もうこんな時間にさしかかっているせいか、見える範囲に人の気配はない。

「ーーーっよし」

 スチャ、と携帯をかまえてからの名前の行動は速かった。熱病にうなされていた姿はどこへ行ってしまったのか、人目を忍ぶようにこそこそと扉に続く道を駆け上っていく。一枚だけ、あわよくば二、三枚。ロビーの内装が分かる数だけフォルダにおさめることができれば、実りのある夜だったと自分を納得させることができると思ったのだ。



 大きなガラス窓がいくつも連なって緩やかな楕円を描く。西洋建築を模しているようだが開放的なロビーの造りはどれだけ眺めていても飽きる気がしない。内装の至る箇所からお金の香りが漂ってくる。落ち着いた光を放つシャンデリアがほどよいあやしさをかもし、成金趣味に転落することなく一級品に包まれた品位のある世界を作りあげている。

 体の内側にまとわりついていた熱が、感嘆の息に乗せて流れ出ていく。惚れ惚れする美しさとはまさにこの光景、この絢爛さ。ぺったり両手を当てて張りついた窓ガラスの向こう側に、たおやかな笑顔の自分が流行りのドレスを身にまとって優雅に佇んでいる。
 そこまでは妄想できた。純粋な憧れが心の奥からこみ上げてうっとり名前の目をとろけさせていく。優美な生活へのときめきが溢れてやまない、名前は初めてこんな立派なホテルに泊まれるアーサーを羨んだ。

「(なか、入ってみたいなぁ)」

 くっついた額がガラスの冷気を吸収したおかげで、ますますもってこの場から離れがたくなっていく。必要な数だけ写真を撮り、退散する予定のはずがドアマンに睨まれているとも知らないで高級ホテルの窓ガラスに張りついた不審者に成り下がっている。鑑賞であり観察のため隙なく走らせていた視線が、一箇所でブレーキをかけた。

「あれは...」

 いかにも高級そうな宝石店がロビーの奥に軒を構えている。店頭に一際目立つショーケースが置かれているが何を飾っているかまでは捉えることができなかった。
 しかしどうにも興味をそそられる。小さなスポットライトを浴びて魅惑の煌めきを放ちながら上品に鎮座しているようだがアクセサリーならばぜひお目にかかりたい、と奥を探ろうとする瞳にも自然と熱がこもっていく。ぎゅうっと目頭のあたりを寄せ集めて、宝石の輝きを探ろうと焦点を絞らせる。
 いっそアーサーの知り合いとでも名乗って中に潜り込めないか、あの輝きの正体を確かめてからすぐに退散すれば大丈夫かもしれないと本格的に作戦を立て始めた頃だ。



 コンコン、音がなった。
 窮屈だった名前の視界に颯爽と割り込んで、意識を引き寄せる。ジュエリーの輝きに心惹かれ周囲への注意が散漫になっていた視野が、本来の広さを取り戻そうとしていた。黒めいた影がよぎり、額はガラスに押しつけたまま、視線だけを引き上げる。


 苦笑いが、そこにあった。

「......ッッッ!!」

 口から奇妙な音が飛び出てくる。息を吸おうとして失敗してしまった末の咳き込みに近い、意味を成さない悲鳴。
 困ったような笑みが次にやれ仕方ないと有り様を変えた。ぶ厚い窓ガラスの向こうでむせる名前を気遣うように首が傾き、届くはずもないのに彼女を呼ぶ男の声が聞こえたような気がした。
 返事をする余裕も、ましてや真正面から彼の顔を直視する余力すらなく、大きく肩を上下させて空気を取り込んでいる名前に、何を思ったから二度目のノックが響く。

「(な、なに...?)」

 ぱくぱくと餌を欲する魚のように空回る唇。音のない彼の言葉が一音ずつゆっくりと刻まれていることに気がつくと、理解は自然と追いついた。

「(う、ご、か、な、い、で...。動かないで?なんで?)」

 少し考えれば分かることだろうに。この時ばかりは気が動転していた。目の前をあっさり横切った男は楕円状の窓に沿って歩み始めると、嫌な予感が名前の周りを漂い始めた。
 ドアマンに挨拶をされながら彼はその立派な扉から外に出てこようとしている。




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