心臓がドックン、ゆっくり大きく脈動する。頭が真っ白になって考えることをやめる。足裏が地面に縫いつけられピクリとも動かない。
 虚をついた登場が、名前の緊張感を異様に持ちあげる。一度はやり過ごした相手だからこそ見つかってしまったショックも大きい。

「(帰るべきだったんだ)」

 まっすぐ、家に。ランプの造形などに気を取られてはいけなかった。お金持ちの世界に憧れて、彼の後を追うべきではなかった。うっかり鉢合わせてしまう可能性は考えるまでもなく導きだされる事実であったのに。
 けれど名前は知らぬふりをした。坂を登り、分かった上で写真を撮りにやってきた。たかがいち建築に執念のような火を燃やして。

「(そういえば、写真。...撮ってない)」

 内側でずっと響いている心臓の音は恐怖か怯えのどちらかでしかないはず。それ以外に思うところなんてない。刹那、断言したはずの場所に矛が突き立てられる。
 これは矛盾だ。本当に彼を恐れているなら名前の足が石畳に曲がることはなかった。つまり無意識の奥底で"見つかってもいい"と思わないかぎりーーー



「名前?」

 驚くほど近くで声が聞こえて、パチッと目が覚めた。答えは出ないまま沈んでいき、二度と浮かんではこない。どうでもいいことを考えている間に、アーサーは名前のすぐ傍まで距離を縮めていた。
 あずかり知らぬところで忙しいと聞いていた彼が、曲がり角の向こうで元気そうにしていて、窓の向こうで名前を見つけた。とても遠い距離にいた人がいきなり目の前に現れて彼女の名前を呼ぶ。懐かしさの正体を、そこに見つけたような気がした。

「少し、失礼するよ」
「うわっ!?」

 名前は半分は運、半分は自分で招いた結果に呆然としている。呼びかけにちっとも反応しないのを見かねてか、彼は口上を述べるなり自身の手を彼女の首横に当てた。直後、ビクゥと体に電流が走らせた名前は跳ねるように後ずさる。しきりに首元をさすりながら、彼の見開かれた瞳が次第に険しい表情へ変化していくのを、警戒心を強めながら睨みつけていた。

「いきなりなにすんのよッ」
「...これは、」

 やはりきっちりスーツを着こなしている姿からして仕事帰りだろうか。青を何回も塗り重ねたような深い色味のシャツがネクタイとジャケットの間から顔をのぞかせている。容姿に不調のかげりなし。観察もそこそこに普段の喧嘩腰がすっかり板に張りつきつつあった。

「いきなり触らないで」
「ひどい熱だ。僕と別れた朝から少しも良くなっていない。しっかり睡眠をとっているんだろうね?」

 アーサーは顎に指を当て、まるで極めて深刻な状況と相対したかのように眉をひそめている。ついに謝らなくなったな、じっとり横目を流してから名前は語尾を強めた彼の問いに聞こえないふり。返事をする代わりとして嫌味に口を尖らす。

「開口一番それ?他に言うことないの?」
「え、」

 するとアーサーの瞳がくるんくるんに丸まったものだからおかしなことでも口走っただろうか、名前は首を曲げて自身の言葉を振り返る。

「私、変なこと言った?」
「...いいや」
「でも驚いてるじゃない。どうして?」
「違うんだ。どうやら自分に都合の良い解釈をしてしまったようでね。気にしないでくれ」

 ぽっかり、今度は名前の顎が落ちる番だった。口ごもるアーサーなど世にも珍しい。珍獣の生態と並ぶ光景だ。名前は自身の言動に思い当たる節がなかったため、どうしても理由を問い詰めたくなったが「ところで」と切り替える彼の対応の方が早い。

「僕の切ったフルーツは食べてくれたかい?」
「あ、忘れてた」
「......。そうか」

 しゅん、と哀愁をただよわせながら残念そうな顔をするものだから、名前はうぐっと口の端をかむ。反射的に言い切ってしまったとはいえ、なまじ顔が整っているせいか罪悪感が鋭く突き刺さってくる。これはおそらく分かっていてしている顔だ。騙されてはいけないと首を払う一方で、素直に答えたことを間違えたと思っている自分もいた。

「この時期だ。はやく捨てないといけないね」
「(え、えぇ〜。そんな顔しないでよ...)」

 これでは名前が悪者だ。あまつさえ気まずさを感じつつある状況に彼女の神経がだんだんと耐えきれなくなっていく。あのフルーツ達は元より美味しくいただくつもりだったのだ。本当に今の今まで忘れていただけであって。

「わ、わざとじゃない。ほんとは、食べるつもりだったし」

 食べ物に罪はないから。
 ぴよぴよと小鳥が鳴くように口を尖らせて小さな言い訳を落としていく。これは決してアーサーへのフォローではない。ただ食べ物を粗末にする女という印象を与えないための作戦なのだ。

「それなら」
「う、うん」
「明日は果物を持ってお邪魔するよ。名前の好きな種類を教えて欲しいな」

 変わり身の早さにもしや引っ掛けられたか?と疑いを持つはずが、さらりと落とされた爆弾に全て吹き飛んでいく。

「あした...」
「おかゆも作りに行くよ」
「明日!?」

 ここ数日インターフォンが鳴らされることはなく、仕事も忙しいと聞いていた。人を脅すように宣言しておいて、結局はめんどうくさくなったのだろうと名前は畳の上でグスグス鼻水を鳴らしながらもせいせいしていた。しおらしい雰囲気はかき消え、にこにこと企んでいることなんて何もないようなご機嫌な態度。

「(あした、くるつもりだったんだ)」
「迷惑だったろうか?」

 来訪の予定を告げられて呆然としている名前を覗き込もうとしてくるアーサー。ぼんやり思考の海に身を投げそうになって、皮肉にも原因を作った相手の言葉で引き戻される。こうしていちいち気を抜いてしまうとますますもって彼のペースに呑みこまれてしまう。ハッと音が聞こえそうな勢いで我に返った名前はとんでもないことを考えている自分を糾弾するように声を荒げた。

「め、迷惑よ!二度とくるなって言ったの忘れたの?」
「覚えているとも」
「なら来ないで。来てほしくないの」

 そもそも誰のせいでこんなに風邪に引っかかったんだか。物言わせぬ笑みで容赦のなくホットパンツを下げてきた手つきを名前は未だに覚えている。「あんたのせいよ」とやかく文句を並べれば「それは、言い逃れできないかもしれない」初めて気まずそうに眉尻を下げられた。

 かもしれないもなにも、あの夜のことは忘れない。そして忘れさせない。最終的に流されてしまった名前だが、うっすら当初は抵抗していたような記憶がある。これはチャンス、と恨み辛みをたたみかける名前だったが、アーサーは「うん」だったり「ごめんよ」と相槌を打つか、小さな謝罪を繰り返すかのどちらかで本当に反省しているのか怪しいところ。何を言っても上面で受け流されているような歯痒さに名前は躍起になってアーサーの懐へ詰め寄った。

「ねえ、怒ってるんだけど」
「それは僕も同じかな」
「えッ」

 まさかそんな返しが跳ねて戻ってくるとは思わなかったのか、名前はアーサーが怒っている事実に刷り込まれた恐怖からピクッと固まってしまう。

「どうしてここにいるのか、とは聞かないよ。誰と会っていたのかも尋ねない」

 そうだ。彼からすればそっちの方が本題であったか。名前の顔からサラサラと綺麗な具合で血の気が引いていく。
 長い指先が名前の胸元のリボンに絡んでくるくると遊ぶ。何をするのだ、と勢いよくはたき落とすにはアーサーの表情は達観の域に入っていた。

「可愛らしいワンピースだね」

 それが褒め言葉でないことくらい馬鹿な彼女にだって分かる。何食わぬ顔でお説教を始めようとするアーサーに、名前の忌避感がみるみる膨れあがっていく。逃げるように俯く彼女の視界に艶やかな二つの足先が現れて一歩、距離を詰めてくる。彼は手を伸ばせば届く距離に立っていた。
 
「今夜の用事は済んだといったところかな」
「...べ、つに」
「楽しかったかい?」

 名前は決してアーサーの顔を見ないようにしながら指の先をなんども組み替える。いつかの朝を沸騰させる乾いた声音が否応なしにあの時の彼を思い出させる。
 これこそが恐怖。また首筋に噛みついてくるかもしれない、そう思わせる威圧。
 こうなることは分かっていたはずなのに、窓越しに彼と目が合った瞬間、どうしてすぐに走りださなかったのか。いつでも逃げられると油断していた結果、またこうなってしまった。

「た、楽しかったわ...。あんたに会うまでは」
「なるほど。僕には会いたくなかったということか」
「......そうよ、当然でしょ。タイミング悪すぎだし。こんな、最悪の夜よ」
「また随分と嫌われてしまったな」

 押し負けたくない。謝りたくない。毅然と振る舞う唇とは裏腹に、俯いた表情は冴えない。
 ついた嘘がバレないか不安だったのだ。楽しい時間はあまりに短く、大失敗の夜であったが正直に伝えるにはプライドが邪魔をする。名前は徹底して彼を邪険に扱い、隙を見せないようにもがくあまり、余裕の二文字が頭から完全に消え去っていた。
 元より体調が著しくないのも理由として挙げられるが、嫌いの裏側に閉じこもっている感情があるのを気づいていない。本人にも原因不明の高揚感がアーサーを前にして薄っぺらい悪口となってぽろぽろとこぼれていく。

「わざわざ外に出てくるなんて暇なの?仕事忙しいんでしょ、早く寝たら」
「心配してくれてありがとう。明日は休みをもらっているから平気だよ。だから君の家を訪ねようと考えていたんだ」
「(だから来るなって言ってるのに...。しつこい!)」

 名前の意志を捻じ曲げるような発言に、くんと顔をあげる。ポケットに手を入れたままツンと澄ましている男に鼻息荒く食ってかかる。

「もうッ、私に構わないで!好きにさせてよ!」

 今夜こうして会えたのだから、明日わざわざ家にくる必要はないはずだ。彼もいい加減に分かっただろう。脅したところで名前はこの生き方をやめない、と。

「それは誰に向けた台詞かな」
「......ぇ、は?」

 つくづく、名前の気を動転させるのが得意な男だ。証拠に力んでいた肩が、わずかに揺れた。

「(え、え?どういうこと?)」

 アーサーが名前の思考の二歩三歩先を進んで、言葉を選んでいるのは悔しいが認めざるをえない。二人では頭の出来に雲泥の差があるのだから、言葉で翻弄されるのはもはや仕方がない。
 彼女からすれば頓珍漢に映る台詞でも、アーサーからすれば名前の考えを汲み取った上で口に出した理由が少なからず存在しているはずだ。真面目な表情が冗談ではないことを物語っている。
 けれどそれでは名前には伝わらない。だって彼女の国語の成績はとっても悪いから。ぽくぽくと頭に疑問符を浮かべてばかりの名前をアーサーは分かっているはずだ。彼も間髪入れず返答を求めているのではない。そうではなく、相手を翻弄する点で言えば彼の思惑は一つ成功したのかもしれない。

「ようやく僕の方を向いてくれたね」
「......、どいうこと?何がいいたのか全然分からないんだけど」
「難しい質問を投げたつもりはないよ。ただ君の独り言がこれ以上続くのは寂しいなって、」
「ひとりっ...!?ちょっと、私の話聞いてた?全部あんたへの文句なんだけど!」

 ここまで言われて自覚がないとは言わせない。明確な悪意を向けられながら、とぼけているのだとしたら笑って病院をすすめる。しかし、ありえないことだ。この男は天然に入り混じって腹の奥底に何かを隠しているのだから。

「...ッ人のこと馬鹿にするのも大概に、」
「しないさ。僕は君と話がしたいだけなんだ」

 ますますもって意味が分からない。会話なら今こうして交えているではないか。彼は一体、名前のどこを見て独り言と切り捨てたのだろう。憤りが疑問へと姿を変えていく。彼が何を考えているのか分からなく、て分かりたくて、名前は穴が空くくらいその美貌を眺めていた。
 ついには手を伸ばさずとも届く距離まで縮まっていることを知らず、気配なく顎に添えられた指がクッと形を曲げてそのまま持ち上げる。先程までの名前なら暴れていただろうに、理解の範疇を越えた質問に毒気を抜かれ、名前は随分久しぶりにアーサーの瞳と交わった。

「触らないで」
「ねぇ、名前」

 口だけはどこまでも反抗を貫く。彼の雰囲気に呑まれないためのささやかな抵抗だった。

「本当にそう思ってる?」

 ずいっと腰をかがめてアーサーが距離を詰める。吐息が名前の肌を撫で、深い湖の色を思い浮かばせる双眸にのみこまれる。目をそらすことが、できない。

「な...に、」
「僕が来ない間、君はあの家で何を考えていた?」
「私は別に、なにも...」
「そして今日、僕を見つけてどう思った?」
 
 唇が驚くほど近づいてきて名前の足が震えた。押し返すことも引き寄せることもしない手が上等なスーツにしわを作る。
 言われたことそのまま頭に流れこんで、何度も何度もこだまする。腰を引こうとしていつの間にか回り込んでいる腕があった。後ずさるつもりでいたのが、ビクともしない腕に阻まれて下がれない。
 顎を挟んでいた親指が緩やかに動きを変える。肌をたどって丘の端に、短い移動を終えた指がむにっとやわらかい唇を歪ませる。

「この口で、喋って」

 本当のこと。

 ゾクリ、背筋をかけるものがあった。
 エメラルドが鋭く名前を射抜いて圧倒する。美しい笑みが有無を言わせぬ迫力をもって彼女をのみこむ。穏やかな声音には確かな命令の影が隠れていた。
 唇をなぞる指に彼の熱が込められている。名前の戸惑いの一切を意に介さず、時折押し上げたかと思えば執拗に感触をさすって擦りつけるような動きが続く。不注意に喋ろうとすれば親指がうっかり口の中に入ってしまうような危機感から、名前は文句として聞こえない潰れた悲鳴をこぼした。まるで嬌声を上げているような羞恥に、心臓がトクトクと不思議な心音を鳴らし始める。

「(なん、か...へん。これ、まるで)」

 キス、されてるみたい。
 経験もないのに、錯覚が名前の脳を支配する。ぽやんとわずかに開かれた口から熱にうなされた吐息が流れていった。熱は熱でもとりわけ甘くねだるような色をのせて、アーサーはその変化をしっかり受け止める。

「そう、いい子だね。人と話すときは相手の目を見るんだ。覚えなさい」
「わかっ...ん、わかッ、らから」
「僕が尋ねたことは後ほど聞かせてもらうとしよう。その時までに素直になっているように」

 コクコク、一生懸命うなずく。
 よし、と納得したのかアーサーの指と腕が離れていき、晴れて自由の身となった名前は必死に呼吸を整える。残る違和感が気になって仕方ないのか、なにもついていない唇をゴシゴシと拭っていると、またもや許可もとらずアーサーの手が伸びてきた。ぶるると背筋を泡立たせ、警戒心の強い猫のように後ろ歩きで距離をとる。

「そんなに怯えなくとも」
「ビビってないし!あ、ぅ...、で、でもそれ以上近づかないで...!」
「やはり、お見舞いだけでもさせてもらえないだろうか。大丈夫、怖がらないで。君の嫌がることはしない」
「怖がってないし!」
「必要以上に長居はしない。約束するよ」

 うさんくさい。怪しまないはずがなかった。
 説教をするためや、名前の不埒な外出を監視するために足を運ぼうとしているのだとしたらまだ分かる。使命感に突き動かされているのだろうと納得はしないが理解はできる。正義感も人によっては迷惑だが、ある種の諦めを持つことができる。
 だからこそ、疑わずにはいられない。お見舞いなんて、そんなの面倒だろうに。今夜だって言いたい放題喚いた。病気にかかっているせいでエッチだってできないのに、わざわざ果物を届けに訪れようだなんて。彼には何のメリットもない。世話好きもここまでくると不信に変わる。それとも何か別の思惑を隠しているのだろうか。

「明日、家で待ってて」
「......っ」

 始終押されっぱなしの名前に我慢の限界がおとずれる。あれよあれよと約束を確約されそうになり、このままではいけないと警告を鳴らす。理由なんてどうでもいい。この際強く断言するのが大切だ。彼女の頭はそう結論を出した。

「だめッ、やっぱ無理!」
 
 いいじゃないかお見舞いくらい。誰かの囁きを振りはらい、名前は自分でもわからないまま激しく首を振る。子供じみた所作と自覚しながらも、本音の一部をぶつけたことに間違いはなかった。

 言い逃げよろしくアーサーに背を向けて登ってきたばかりの坂を駆け下りる。後ろから引き止める声が聞こえたが振り向きはしない。大きな声で拒絶したせいだろうか、バクバクと痛いくらいはやる心臓が興奮の値を示す。ヒールの痛みも忘れて、大通りに飛び出た名前は運良く通りかかったタクシーを捕まえることができた。開いた扉にすかさず乗り込もうとする彼女の後ろから呼び止めるものがある。

「名前、逃げないで」
「......。」
「逃げられると、追いかけたくなる」
「ひぃっ」

 今夜一番の恐怖だった。勢い任せに座席に飛び乗り、驚いている運転手に駅へ向かうように告げて、扉の閉まる音と同時に振り返る。

「う、うわっ...」

 幽霊か化物にでも遭遇したような情けない悲鳴。振り返らなければよかったと後悔が苛む。窓の向こうに目の据わった相貌を見つけてしまったのだ。追いつこうと思えば間に合ったはずを、離れた位置からわざわざ声をかける男のなんと恐ろしいこと。名前は即座にアーサーへ背を向けてうずくまるように座り直す。

「(だめって言ったから、来ないよね...?)」

 チャイムを鳴らされたところで家に上げるかどうかは家主の名前次第。いくらでも追い返せる。たとえ図々しいと思われようとあれだけ啖呵を切った相手を再び家に招くのは面倒臭いプライドが許さなかった。

「(親切心だとしても、絆されちゃだめ。あんなの金持ちの気まぐれなんだから。これ以上隙を見せないようにしないと...)」

 彼がその程度の男でないのは短い交流の中で重々承知のはずなのに、名前は言い聞かせることをやめなかった。いっそ呆れてくれればいい。普段では考えられない自虐が栓を切って溢れてやまない。きっとこれは風邪のせいだ。熱で苦しんでいるからおかしなことばかり考えてしまうのだ。
 アーサーの誘いを拒絶してしまった後に襲いかかるうしろめたさも、じくじくと疼いてやまない一縷の寂しさも、熱病によって生み出されたまやかしの想いに、決まっているのだから。
 名前は幾度も自分に言い聞かせ、ぎゅうっと強く目をつぶった。




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