てっきり電話でもかかってくるかと思いきや、そんなことはなかった。

 よれよれの膝が改札をまたぎ、暗闇一色の寂れた地元に帰ってきても携帯の画面が変化することはなく。名前は電車に揺られているあいだ、死刑執行を待つ囚人のように怯えていた過去の自分にシラけた面持ちを向ける。何も起きないのだから、そんなに縮こまらないで、気楽に居眠りでもしてればいい。くだらない寸劇を繰り広げるかたわらで、アーサーを意識しすぎるがゆえにコリコリに固まっていた思考をほぐす。

「かえろ...」

 帰って、寝てしまおう。ぽけーっと緩みきった表情は、魂の半分が抜けかけた屍のそれと同じ匂いをまとっている。タクシーのお尻すら見当たらない真夜中、名前のつま先はぐるり方向を定めると、じれったいほどの鈍足で駅のロータリーをまたぎ、そろってシャッターをかぶった商店街を歩いていく。
 
 寝静まったアーケード通りに、ヒールのこすれる音だけが響く。小気味よさのかけらもない引きずり方に靴の寿命が呆れるほどはやく縮まっていく。
 頼りない歩みに誘われて、名前の中でとりとめのない考えばかりが浮かんで沈むを繰り返す。買わなければよかったワンピース。行かなければよかった夜の街。何故だが妙なくらい気怠くて、そういえば風邪はどうなったんだっけかと、他人事のように思考が浮ついてしまう。次の一歩を踏み出すことすら煩わしくて、いっそシャッターの隅に丸まって朝を迎えようか、真剣に悩んだほどだった。

「......なんて」

 ハハハ、空笑いが夜の空に吸い込まれていく。自覚を越えた疲れがたまっていたのかもしれない。ここまで帰ってきたのだから、自分の家の布団で寝たほうが気持ち良いに決まっている。ますますもってあのボロアパートが恋しくなっただけだ。
 名前はようやく気持ちを切り替えると、来たる嵐に向けてどう備えるか考えを巡らす。

 きっと明日、彼はくる。

 根拠はない、がアーサーという男の生態と何度か対峙してきた名前の直感がビンビンにサイレンを鳴らしている。
 「好みが分からなかったから色々な果物を買ってきたよ」カゴにこれ見よがしと彩りを盛った男が、慈善たっぷりの笑みで玄関と扉の隙間に足を挟んでいる光景が目に浮かぶ。
 仮にこれが名前の思い過ごしであり、アーサーが彼女の意思を尊重して家への来襲を控えてくれたとしても、そのまま引き下がるとは思えなかった。音沙汰のない携帯がこのまま黙っている可能性は低く、何かしらのアクションはあるとみて間違いない。いっそ朝から身一つ携えて遠出でもしようか。不調を鳴らす体が無理だと訴えるのとは裏腹に、名前はいざの作戦として頭に書き込む。
 彼との会話を無理に切り上げてしまったのは名前だ。自分で蒔いた種だからこそ十二分に用心せねばならない。

「(あの時、なんて言えばよかったんだろう)」

 それっぽい理由や上手い嘘が見当たらず、子供のように叫んでしまった。あれではアーサーも納得しないはず。
 都合が悪くなったら逃げる。トラブルに巻き込まれる前に尻尾を退散する。どんな場面にも役に立ち、面倒な相手をやり過ごすにはうってつけの方法。誰にでも効果覿面の常套手段が彼には通じていないような。名前の叫びはその場しのぎ、苦渋の一手でしかなかった。

「(でもさ、拒絶されたら誰だって嫌な気持ちになるんじゃないの?)」

 目の前に自分を睨みつける相手がいるとして、何食わぬ顔で手を差し出せる人間がどれだけいるというのか。アーサーの心の裏側を垣間見える日は当分どころか永遠におとずれまい。
 口では説教を垂れながらも彼があえて名前を野放しにしているのは知っている。そうでなければとっくに警察の厄介になっているはずだった。何を考えているのか分からない、そんな彼を警戒しながらずっと生きていくのはそのうち我慢の限界がくる。
 どうすればアーサーは諦めてくれるのだろう。彼は名前の体が気に入っているようだからその時だけ大人しく従っていればこの生活を続けていけるのか。

「(......そんなの、一番ダメでしょうが)」

 名前は何のために男に体を売っている?普通に暮らしていれば彼女よりずっと地位も金もある人間が、みっともなくすがりついてくるのが気持ち良いから。それはアーサーであろうと例外ではない。

「どうしたもんかなぁ...」

 そろそろ本格的に厄介払いをするべきではなかろうか。小さな脳みそで彼が自分に口出しできない材料がどこかに転がってないかうんうん唸っていると。
 いつもの道を曲がろうとして、遠いところから耳をつく喧騒に顔を上げる。首を何度か回して、とある路地奥に焦点を凝らす。見覚えのあるような狭く汚い細い裏道。その向こうではギラギラと熱を感じるほどに眩い明かりが野太い笑い声に合わせてチラチラ揺れていた。





 強すぎる光が名前の眼球を刺し、たまらず腕をかざす。けたたましい笑い声、うだるような熱気が鼓膜や皮膚をチリチリに焼いていく。
 指の間からのぞく限り、攻撃的な眩しさを放つのは一つや二つではない。統一感のない光の看板たちは我こそが一番と己の存在を誇示している。
 照らされ過ぎて砂じゃりの影を消し去ってしまうほどにえげつない光彩の世界。加減を覚えないこの色にはいつきても慣れない。

「うへぇ...」

 所狭しと軒を連ねる飲食店。大衆居酒屋とふりわけられる店の賑わいぶりは通りの端をコソコソ歩く名前からしても一目瞭然であった。酒の付け合わせのようなサラリーマンのゲラ笑い。店と店の合間に押しつぶされて地面にしみていく汚水。まとわりつく湿気とつむじをさす光の熱。
 濁った空気が息苦しさを煽り、名前の不快指数はとうに限界を越えつつあった。知覚に入りこむ全ての要素がヘドロのような重さを含んでどっしり、彼女の背中に乗りかかる。

「ッ!!......う、っわ」

 鼻をつまむ。見たくもない泥のようなものが地面にぶちまけられており、たまらず目を背ける。今からでも引き返した方がいいのかもしれない。しかし名前は諦めた様子で大通りを足早に急ぐことを選ぶ。
 夜になると街の中心は変わる。昼間の活気盛んな商店街から細い裏路地がいくつもまたがった隣の通りへ。酒と馬鹿笑いにまみれた騒音ひしめく嫌な世界が台頭しはじめる。
 普段であれば避けて通る通りの中心を自ら突き進むにはそれなりの理由がなければできない。

「(はやく、はやく帰りたい...)」

 崩れかけの化粧を洗い流し、かかとをこする靴擦れの痛みから逃れたく、朦朧とぼやける頭が明日のことは明日になってから考えれば良いから、今は少しでもはやく我が家へ。迫る限界が、名前に近道を選ばせた。

 歩きながら携帯をいじることで周囲への気が削がれ、過剰に毛を逆立てていた神経がほんの少し和らぐ。数字がいくつか、家計簿の支出の項目に増えたのがいただけないが、今夜については忘れると決めたのだ。これ以上考えることは何もない。
 そんなことよりも、と気を取り直した名前は、生きるに欠かせないメッセージアプリを起動するなり友達の一覧に並ぶ男たちの名前を品定める。誰よりもはやく会えそうな人はいないだろうか。風邪が治り次第すぐにでもホテルで待ち合わせできそうな相手を物色する。
 枯れかけの男の扱いなんて慣れたものと思っていたが、どうやらまだまだ見る目が足りないようだ。大きな獲物を逃したしまったので、また一から探し直しとなる。釣り上げた小さな魚達に片端から声をかけてしばらくは細々と地道に稼ぐしかない。

「(それに変態ストーカーも捕まえないとね)」

 疑いの目をもって、これまでに関係をつないだ男たちとのトーク画面を順にのぞいていく。見る限りでは話が通じそうな男たちばかり。名前が成人していない分、むしろ慎重にご機嫌を伺いながらプレイに誘ってくる輩が多いように見受けられる。良識を超え、傍迷惑な粘着行為を仕掛けてくるような人物はこれといって見当たらず。
 最後は決まって皆、次の約束を示唆する穏やかな文末で締めくくられている。

「(関係ごちゃごちゃになるとアカウント作り直してたからなぁ。ここには載ってない人達も結構いるし...)」

 ここにきてズボラな管理をしていた自分に呆れかえる。長続きしない相手はすぐに消してしまったのでそういう相手は人としての印象も薄い上に携帯の履歴にも残っていない。

「(でも、あんな下着と気色悪い玩具を送ってくるってことは絶対私とえっちしたことのある奴に決まってる...!)」

 犯人像は間違っていないと自負している。ただ、肝心の目星がつかない。誰彼構わず直球で尋ねるほど危険な賭けに出るわけにもいかない。
 送られてきたプレゼントは二つ。これきりで終わるならば万々歳であるが、まだ続くようであればいつまでも隅に置いてはおけない問題だ。我慢だなんてそんなのは泣き寝入りと同じ。警察には突き出せないが、いざとなったら寝ずの番で投函口の前に陣取るくらいはやってやるつもりだ。無論、男漁りをやめる予定もなく名前は素早く指を弾きながら誘いの言葉を並べていく。

 ゲラゲラ、まさに典型的な。
 また一段とやかましい酒に酔った笑い声が、道の向こうから歩いていくる。これも街の一側面と切り捨てて、気にしないように平常心を装った名前の指がすれ違い、......止まった。

「(聞いたことのある、笑い声だ)」

 理性ではなく本能の部分が、彼女の体ごとブレーキをかけて時間と思考を切り離す。耳が壊れてしまったのか、あれほど煩わしかった喧騒がその時だけ聞こえなくなり、代わりにぐんっと瞳が精度をましてスコープを覗きこむように焦点を定める。振りむきざま、男の腰元から揺らめく光は今夜一番の存在感を放って、名前を射止める。

「あッ、」

 やたらと酒臭い集団は硬直する彼女に気づくことなく仲間内で異様な盛り上がりを見せながらすぐに遠い背中となった。

「...センス悪すぎ」

 なんて趣のあるアクセサリーだろう。よほどのお気に入りなのか、以前も身につけていたことからして彼の趣味がうかがえる。
 街の独特なやかましさが戻ってきて、開きっぱなしの目がじわじわと乾いてくる。随分長いこと観察していたいつかの背中は瞬きの合間に看板の隙間に消え、名前の頭にはいつかの後輩の言葉が鳴り響いていた。

"ーーー捕まったんです!"

 暴行事件の犯人。

「あいつらじゃ、なかったんだ」

 どうやら決めつけるのは早計過ぎたようだ。




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