白状しよう。
マシュをナンパしていた二人組の大学生。名前の雑な演技で追い払った男達を彼女は疑っていた。立香の話を聞いて、マシュの不安にあてられて、決定的な証拠もないまま不安と疑問がぐるぐると渦を巻き、大きなとぐろを作りあげた。彼らは、…今しがたすれ違った男達はきっと暴行事件に関わっている。
「恥ずかしすぎる」
それとちょびっとの申し訳なさ。自責にかられた名前は我慢できずに顔を手で覆うとくぐもりながらも白状することで正気を保とうとした。幸いなことに周囲に人の影はない。喧騒と照明ばかりがチラついてやまなかった道は抜けた。足は再び闇に沈み、夜は夜らしく本来の色を取り戻す。
「そだよね〜。よく考えればそうじゃん」
全くもってお門違い。証拠もない憶測だらけ。穴だらけの推理がまちがいであるのを教えてもらえたのはせめてもの救いか。
よくよく考えれば巷を騒がせている暴行事件の犯人とあんな確率で遭遇するはずもない。すべてを腑に落としながら何より一番名前を恥ずかしくさせたのは。
「(こんなの、マシュに偉そうに言えた義理じゃないって)」
名前の耳は穴の奥まで真っ赤に染まり、偉らそうにしていた夕方の自分を記憶の中で殴りつける。不安がっていたマシュに気にするなと声をかけたくせに、誰よりも彼らを疑っていた。それがあまりに格好悪くて恥ずかしくって、とてもじゃないがマシュには話せない。
次に彼女に会ったとき、果たして気恥ずかしさを我慢しながら目を見て会話をすることができるだろうか。名前は今すぐどこかに埋まりたくなりながら、やはり家には帰りたいと気を持ちなおす。
せめてマシュが絡まれたのは恐ろしい暴行犯ではなく、ちゃちなナンパ男であったことを伝えるべきか、携帯を睨みつけ悩みに悩んだすえ、文字を打ち込み始めたタイミングでバイブが着信を鳴らす。
「うっ、わ!......も、もしもし?」
誰かの悪戯を疑う偶然だった。意図せず触れた指が勝手に通話を開始して名前は焦って耳元にそれを押しつける。
『先輩』
噂をすればなんとやら。
「ま、マシュ?こんな時間に電話してくるなんてどうしたの?」
『ですよね。おやすみのところにいきなり電話をかけてしまい申し訳ありません』
ギクリ、わざとらしく背中がのけぞった。おやすみどころか外を出歩いているなんて知られたら、きっと彼女はびっくりしてしまう。なるべく優しいトーンを心がけそんなことはない、と伝わらない身振り手振りを繰り広げる。
「本当に寝てなかったから」
『…はい、ありがとうございます。実は私もあまり寝つけなくて、少しだけ…そのお話できればと断りもなく電話をかけてしまったのですが』
「いいけど、なんかあった?」
おし黙る携帯に名前はやってしまった、と唇を深く丸める。こんな時間になってまで電話をかけてくる理由なり原因があるはずなのに、直球すぎる質問だっただろうか。
『いえ、何も。特に大したことは』
機械のアナウンスのような否定。後半になるにつれて音がしぼんでいく。気落ちしているようにも聞こえたが、どちらかと言えば心ここにあらずと表現するにぴったりな印象を抱かせる。ともかく何かがあったことは確かなようだ。
...そこを暴かずして何を喋れというのか、恨むなら自分の下手っぴな誤魔化しかたを恨めと名前は巻いた唇を戻しながら今度は口のウォームアップを始めた。
「ね、マシュ」
『はい』
「誰と話してたの?」
『えっ。いえ、誰といいますか。大したことは何もなくて』
否定しない。大したことはないと訴えているが、それすなわち誰かと何かがあったのを自白しているようなもの。名前は適当な相槌を打ちながら語尾に「それで、誰?」と好奇心をおさえきれずしつこく尋ねていく。
『だ、誰もいません』
「ちょっと、なんで隠すの。別にからかわないって」
『いや、あの本当に大したことじゃないんです。ただお世話になったのでお礼を伝えたくて』
「あ、やっぱ藤丸?あいつ早速連絡してきたんだ」
『せ、先輩...!』
掠れながらも必死な悲鳴が名前の耳を貫いて、ごめんとにやける顔を自重しようと努力する。まるで詮索好きの近所のおばさんそのものだ。ともあれ予想が当たったことがご満悦なのか、「それで?」とさらに根掘り葉掘りたずねる姿勢に変わりはなかった。
藤丸にマシュの連絡先を教えてもいい?そんなメッセージを送ったのが朝の授業中。休憩時間に帰ってきた返事には快諾の文字がつづられていた。やれ仕方ないと彼に後輩の連絡先を告げた時の、嬉しそうな顔ときたら。お昼休みにメッセージを送ってからバイトに入るまの時間、二人はメッセージのやりとりを続けていたらしい。
彼のコミュニケーション能力の高さは名前の想像を軽く越えていた。誰であろうと返信が速いタイプなのだろうなと思っていたが、まさかここまでとは。マシュもそこまで嫌がっていない様子からしてよほど波長が合ったのだろう。
「なんか、すごいね」
『えっと…。ど、どこかでしょう?』
それは名前にもよくわからない。ただぽんぽんと軽やかなキャッチボールを交わすように、二人のやりとりが画面を見ずとも目に浮かんでくるようで。それがとてもいいな、とあやふやな感想が出てきてしまったのだ。
遅くまで起きているとギャラハッドにたしなめられるから、兄に聞こえないように小さな音量で通話をしていたのだという。
「この時間まで?」
『藤丸さんのバイトが終わって、親御さんと遅めの外食に行くと先ほど出かけられていったので、そうなり…ますね?』
「(そ、そんな簡単に仲良くなっちゃうもんなの...!?)」
名前は「へぇー」と乾いた返事を転がしながら、予想外に展開の早いマシュと立香の交流に単純な驚きとは別の、ある種の焦燥感に近い感情に心臓をドクドクと鳴らす。
「(私って、別に悪いことしてないよね?兄や父にバレてもまさから怒られるなんてしない、よね?)」
女の園で育った彼女に軽い調子で男の連絡先を渡してしまったことをあの男連中がどう思うか。そして来たる立香との対面でどのような反応をするのかまったくもって見当がつかなかった。
「(いや、こんなこと考えるなんて時代錯誤にもほどがあるでしょ。あの二人も案外気にしないんじゃない?大丈夫だって、だいじょうぶ…)」
誰とでも気軽に連絡が取れるのは良いことではないか。それにマシュと立香はあくまでも仲の良い男女のお友達。この関係が進むか下がるかは誰にも分からない。
つまるところマシュが名前に電話をかけてきたのは、普段ならとっくに寝る時間を過ぎてまで立香とお喋りにふけっていた結果、寝つけなさにうなされた頭が携帯を手にとるよう至らせたらしい。ちょうどお尋ねしたいこともあったので、マシュの丁寧な言葉遣いを耳に入れながら名前はいつかし家のすぐ近くまで帰ってきているのに気づく。あともう少しが似合う位置に、見慣れたボロアパートがどんより突っ立っている。
「(やっと帰ってこれた…)」
『気になっていたんです。先輩が言いかけていたこと』
「言いかけてたって、……あぁ、さっきの話の続きね」
とても中途半端なところで切り上げてしまった話があった。迫る待ち合わせの時間が、名前雑な対応をしかせたのだ。そこは一応、反省している。
「あのチケットってさ、期限があったよね?」
『そうですね。再来週くらいまでだったと思います』
玄関の鍵はどこにやったか、あちこちをまさぐりながら名前はマシュの返事に思案を深める。二人が話している夢の国への招待について、チケットに残されている時間はとても短い。見つけ当てた鍵に指をこすりながら、彼女の心は迷いに揺れていた。
『先輩?』
マシュが行ったことないテーマパークに憧れているのは知っている。こっちで生まれ育ったと教えてくれた彼女に西洋のお城とは馴染みのない文化らしい。だから行きたいのだと、チケットを手にした帰り道、名前にわくわくしながら誘いをかけてきた鮮やかな表情が昨日のことのように思い起こせる。
「(でもなぁ…)」
地球の裏側から帰ってきたような懐かしさがあった。ボロはボロでも落ち着ける場所はここしかない。どことなく気が緩んで、冴え渡っていた意識にベールのようなもやがかかってくる。玄関の前に立ち、手にしていた鍵を差し込んだ名前は、重い瞬きを数度重ねてから留め具のきしむ音に身を委ねそうっと優しくノブを引く。
キィ、とゆりかごの響きをふっとうさせる音が聞こえ、ゆっくりと開いた扉の向こうには終わりの見えないブラックホールが広がっている。明かりのない真っ暗な廊下はいつだって静まり返っていた。
「ただいま」
返事はない。でもそれは別に悲しいことではない。虚しいと憐れむ人間もいるのかもしれないが、そういう人間は睨めばすぐ黙る。
『あ、あのぅ…。もしや今の時間までお出かけされていたのですか?』
「ちょっとコンビニいっただけ」
ギャラハッドにチクらないでね。冗談に近い口止めを残す。
軽いあくびをこぼしながら足首にスナップをきかせ、捨てるようにヒールを脱ぎ捨てる。カランコロンと玄関に転がったかかとを立たすのは明日に回して、明かりもつけずその場に立ち竦む。
『あの、先輩?何度も呼びかけてすみません。本当に大丈夫ですか?』
「うん、へいき」
あれ、頭が熱い。
まるで燃えているようだ。
家に帰ってきた。
ただそれだけの事実が名前の体にどれだけの安らぎをもたらしたか彼女本人も気づいていない。あとほんの少し気を緩めれば体を前のめり地面に叩きつけ、そのまま目覚めない自信があった。名前はぐらりと糸の切れた操り人形のように傾く体を壁に預け、はぁ…と重たそうな息をこぼす。
「それでさ、ゆめのくにの、ことなんだけど」
『は、はい』
もう少しだけ時間をくれないか。行けるかどうかまだ分からないから、せっかくの誘いを断っているみたいで申し訳ないんだけど、あとちょっと経ったら行けるようになるから。
指先が足腰を支えようと何かを摘もうとしていた。けれど味気ない壁にはおしゃれな額縁の一つも飾っておらず。靴箱すらない狭い玄関で名前はひと一人が座るに適した地面にぐってりお尻をつけてしまう。
かろうじて判別のつく前後が、最近はもっぱら癖になった確認をいつものようにする。それこそとても、何気無い仕草で郵便受けを見やる。
「……、」
『あの、もしかしてお体の具合が悪化しているのではありませんか?』
「大丈夫、だから、その」
何を言おうとしてたんだったか。
名前が伝えようと温めていた言葉を簡単にさらってしまったのが、熱にうかされたひどい病であったならいくらでも言い直しができたかもしれない。けれど、目の前のこれは。
この、箱は。
暗闇に慣れた目が、直方体の輪郭をうつしとる。自身の存在を主張するかのごとく、受け箱の蓋を押し上げてそびえるラッピング。可愛らしいフラワーボウから垂れたリボンがわずかな空気の流れにゆらゆら揺れて、意味もなく彼女の視線を引きつける。
怯える間を惜しんで、抜きとったそれは思いのほか軽く、けれども箱特有の固さが指先にじんわりと染みていく。いつか送られてきた大きさと同じ、縦に長く横に短い、パパから産地おすすめと教えてもらったクッキーのお土産と同じくらいの厚み。
なんでこんなものが名前の家にあるのだろう。
ゆっくりとした動作で腰を持ち上げ、玄関の明かりをつけた名前はまずそれが間違いなくあのプレゼントなのか確かめる。差出人不明、愛らしいパステルカラーに包まれ、巻きつけられたリボンには寒気立つメッセージカードが差しこまれている。山折にたたまれたカードの中身を見る勇気まではわかず、名前の気分は今夜一番の急降下を見せ、やるせなさが体を支配していく。
「さいあく、超キモいの見ちゃった」
『虫ですか!そういえば藤丸さんは先輩がゴキブリに困っていたと心配そうにされていました』
「(ゴキブリなんて言ってないし。あいつ、人のことをベラベラと…)」
まあ、あながち間違ってもいないような。ただしゴキブリは名前に欲情しないだろうからゴキブリの方がましかもしれない。
今日の放課後、家に帰ってきた時点では何も届いていなかった。だからこそ落差がますます名前を打ちのめす。あの時彼女は、不覚にも「終わったかもしれない」そう思ってしまったのだ。
名前が都心へ出かけている間に届けられていた箱。故意に留守を狙ったのが正体は明かさないまま嫌がらせだけを続ける意思表明のように感じてしまい、ぞわりを背中が寒くなる。
「わたし、やっぱり行けないかもしれない」
『それはどういう…』
名前はこの嫌がらせの真意も、送ってきた相手の素性も何一つとして知らない。けれど向こうは彼女の素性も家も通っている学校も全部握っていて、どこまで知られているのか見当がつかない。もしも、交流の痕跡まで辿られてマシュのことを知られたら、いいやもう知られていたら、
『…いえ。今夜お尋ねするのはやめておきます。どうか安静になさってください』
「ごめんね」
『明日お見舞いに行けたら良かったのですが。放課後は委員会が入っている上に、私は先輩の家の場所を知らないので、………そういうえばアーサーさんは先輩の家の場所を知っているんですよね?』
「(なんでそこであいつが出てくるの)」
マシュはアーサーと名前の間に起きたことや二人の関係を知らないはずだ。誰かが教えない限り。
『アーサーさんは明日お休みらしいので、お願いすれば先輩のお見舞いに行ってくださるかも…!』
病人が全員看病されたいわけじゃない。彼女はその事実を認めるべきだ。当人に悪気がないのは毛頭分かりきっているのだが、何故だか名前にはお前に逃げ場なんてないと突きつけられているようにしか聞こえず。
「…いらないかな。私、あの人とあんまり仲良くないし」
『そ、そうだったのですか!』
どうにか柔らかい言い方はないか探して、出てきたのは結局それだった。名前はプレゼントを地面に放ると、ついでに真っ当な郵便物は届いていないか、改めて郵便受けをのぞきこむ。何も入っていない。
『では、住所を教えてください…!体に良い食べ物を送ります!』
「そこまでしてくれなくていいよ」
『けれど何か体に入れないと。先輩夜ご飯は食べられましたか?』
「いちおう...食べたけど」
美味しい高級料理を心の底から堪能できたかと問われれば少し悩んでしまう。出てくる料理は何から何まで美味しそうだったのだが、名前は最後まで完食できなかった。どうしてもお腹が空いていなかったのだ。
『…あの、本当に心配です』
「大丈夫だって。いざとなったら胃に無理やりつっこむから」
『それはダメです…!』
不思議なものだ。同じように心配してくれているというのにアーサーとマシュでは態度がころりと変わってしまう。彼女の不安げな声は素直に受けとることができるのに、どうしてアーサー相手となると名前はあんなにも警戒してしまうのだろう。うさんくさいとか以前に、彼と対峙すると何故だか隙を見せてはいけないような切迫感にかられてしまう。
もはや条件反射に近い己の態度に、少しやり過ぎだったろうか、うつらうつら朦朧とした思考が本格的に名前の意識を覆い始める。
「………?」
それは、ぽんっと軽やかな音を立てて、彼女の背をついた。天からいきなり捧げられた贈り物と言っても差し支えない、あまりに突然のことだった。
空っぽの郵便受け。うっすら覗く投函口。落とした箱に、マシュとの会話。ぐるりぐる切り刻まれた材料が鍋に投入され混ぜられていく。名前はゆっくりとブレを起こす視界を困惑しながら見守り、足の裏から恐ろしいまでの速さで迫る何かに蓋をしようとする。
「…あ、れ」
いつだったか、回覧板が入らないと文句をつけられたことがある。名前の家の小さな箱受けではどんな角度から突っ込もうとも、板がつっかえてしまい投函口からはみ出てしまうのだ。
あれは、とうに引っ越した近所のおばさんだった。
印象なぞないに等しいたった一回のクレームを、どうしてこのタイミングで思い出したのだろう。
下がる視線。無意識にそれを探す。
まっさらなパステルカラーは汚れひとつなく、綺麗な直線を保っていた。
ーーーそれって、なんか、おかしくない?
どくり、どくり。
心臓の脈動する音がおどろくほどすんなり届いているのに、思考はちりちりに千切れてまとまらない。名前は自分の体が怖いくらいの緊張感に包まれていると知覚していながら、上手に認識できないおかしな状況に落とされていた。
前後不覚の混乱のなか、分かっていることが少しだけ。
こんなの入るはずがない。無理に入れようとしたらきっと曲がってしまう。
あの箱は、届かない。
少なくとも、外からは。
「おかえりぃ」
軽やかな声は後ろから聞こえた。
ふり返るのは、自然のこと。
だって、そんなこと言われたの、初めてで
「なんて俺が言うべきことでもないかね?」
ゆるりと傾く艶めいた美貌。薄がりからサラり、長髪がこぼれる。透けた瞳にのまれた名前は自分が誰を待っていたのかを忘れてしまった。
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