※新しいキャラが出てきます。口調は独自解釈強め。



 なんども、なんども、名前を呼ぶ。そんなに悲痛な声を上げなくても、と返事をするつもりが、通話口も耳元に持ってこようとして宙を掴む。
 手に馴染む形が、いつの間にかどこかへ姿を消していた。続いてカツンと固い音がしなる。乾いた響きを立て転がったそれを拾おうとして、前から伸びる腕に掻っ攫われた。

「ありゃ、画面割れちまってるよ」

 また、喋った。
 まともに思考するだけの力は彼方に飛び立ち、名前は立ちすくむだけの人形と化す。

「これって俺のせい?」

 ちっとも悪く思っていないような態度が印象的な、妙な男だった。





 名前はひどく疲れている。頭が布団を欲しがっているらしい。だからこんな夢を見るのだ。
 知らない美形が、狭い居間にあぐらをかいて、爪楊枝を口に運んでいる。美味い、と頬をもぐもぐさせながら快活に笑う。お腹が空いていたのだろうか、噛んでいるのではなく飲んでいるような、明らかに足りない咀嚼を重ね、早々に皿の上を平らげてしまう。

「いやー、うまかった。見た感じ料理できなさそうなのに、包丁使うのは得意なんだな」

 違う。それは名前が切ったのではない。桃の皮を剥いだのも、スイカの種を除いてくれたのも、彼女よりも一回り大きく、しなやかに伸びた指が全てやってくれたのだ。
 人様の家の台所を漁った挙句、許可もなしにくつろぐ権利などあるか。言ってやりたい文句は味のしない布地の隙間に吸いこまれていった。咥内には満ちるのは唾液ばかりで、溜まる不満は届かない。舌を押し潰されているせいか、思うように嚥下することができず口端よりてらてらと涎の筋ができてしまう。
 物言えぬ不自由。満足な呼吸ができない不安。制限された自由にもうずっと鼓動が鳴りっぱなしで落ち着く兆しすらない。焦りやら不安やらがごちゃ混ぜになって名前を苛んでいた。

「辛いだろ、それ」

 男はこちらを見ることなく、次は手持ち無沙汰にグラスを傾けている。酒なのか水なのか、判断つかない液体が月明かりのみを頼りに水面の揺らめきを生みだす。張力が限界を越えて、床に染みを作る前に手首を捻り、楽しみどころを見出せない戯れにふけっていた。
 ふと黒々としていた長髪が、月の光を受けて緑濃い流れをを見せたとき、名前は改めて男の美しさに息を呑む。美髪の間から、ちらちらと薄光る萌黄色を流されると、自分がどんな目にあわされたのかすら忘れかけてしまうような。闇によく馴染む美形だった。
 怖いくらいの余裕を、整った横顔に乗せて彼は名前の苦しみを全て理解しているかのように口奏でる。

「叫ばないって約束してくれんなら、口だけは外してやってもいいぜ」

 暗闇に近い部屋で、双眸と対面する。薄い唇が吊りあがり、香り立つような艶っぽさをまとわせながら形ばかりはかわいい瞳が、すうっと細まる。
 美しいが故に、怖い。邪気を感じさせない口調の裏に、大きなものが隠されているような気がして、名前は首を縦にも横にも振ることができないでいた。

「なんだよマジでビビってんのか?仕方ねぇな」
「んっ、むッ...、ぅ!」
「俺も暇だしさぁ。話し相手になってくれ。な、いいだろ?」

 卓袱台にコップを置くなり、男は唐突に距離を詰めた。壁際に逃げていた名前を追いこむと、遠慮なく腰に乗り上げ、膝立ちの姿勢から彼女を見下ろす。垂れた髪の先が頬にかかり、体はかちこちに冷えて動かなくなってしまう。
 びくびくと瞳を恐怖に染め上げた、彼女の露骨な怯えぶりに気をかけることなく、男は頭の後ろにある結び目を器用に解いていく。
 ほどなくして、布ずれがしゅるりと耳に入り、名前は久しぶりに新鮮な空気を味わった。押し潰されていた舌を懸命に動かし、溜まっていた息を飲みくだす。肺を大きく膨らませ、必死に酸素を蓄えようと気を逸らせる。結果として大きな咳を何度も吐きだしていた。

「ちょいと喉奥に詰め過ぎたかね」
「ッケホ!...ッハ、はぁ、...誰のせいで、こんな」
「俺のせいか。そういやそうだ!」

 ハハッ、軽過ぎる笑いを飛ばしながら男は腰から退いた。冗談にしたって面白くない。名前はままならない手元で、どうにか床を擦り背中を立たせる。壁に身を預け直し、男と距離をとりたい一心で無理に捩ってしまった腕を労わる。どうやら、こちらは外してくれないらしい。
 だからこそせっかく自由になった口で、間髪入れず悲鳴を上げるつもりが、すぐには力が入らないのは誤算だった。名前としては叫んだつもりだったのを、実際のところは覇気のない呻きを無様に晒すだけ。
 どうしてもダメなのだ。火照った体が、鐘を鳴らす頭が、彼女の活力を信じられない勢いで奪っていく。

「けど、俺にこんな目に遭わされてるのは誰のせいだと思う?」
「...しら、な」

 男は胡座をかいて名前と向き合うと楽しげにお喋りを始めた。余裕の証拠である。
 結局、彼女のお粗末な頭脳では逆試合を仕掛けることなんてほとほと不可能だったのだ。

 外の投函口からは絶対に入れられないプレゼント、立香の語るところの名前の彼氏、そして今夜、彼女の帰宅を扉の内側で待っていたこの男。これまでに届いた三つの贈り物が、誰の仕業だったのか全て繋がったとして遅すぎた。

 この男が、そうだったのだ。ここ数日、名前を悩ませていた全ての元凶。
 どうやって、どうして彼女の家に忍びこんだのか、分からないことだらけの状況でありながら、真相を知りたいと願う欲求が彼女の中で踏ん張ってくれているおかげで、恐怖に我を見失わずにいられる。

「随分と具合が悪そうだが、水でも飲むかい」

 男の側からしても名前の不調は一目瞭然らしい。異常なほどに汗を滲ませ、座り姿勢すら崩れそうになっているほどの弱りぶり。胡乱な瞳は焦点を失くしかけ、情けをかけられた事実だけを耳が必死に咀嚼している。

「ほ、ほしい...」
「んじゃ、飲ませてやるよ。ほれ口開けな」

 今の名前は冷静に物事を把握できない。言われるがままに口を開け、唇に当てられたコップが傾いていくのを健気に待つ。しばらくして冷たい水が流しこまれてくるのを、天からの恵みにあずかったように必死にすがる。飲みこみきれない液体が、口端を伝って顎を通り、首の下まで垂れていくのすら気持ちが良い。みるみるグラスを空にした名前は、わずかながらも潤いを浴びたことにより、この恐ろしいだらけの空間で、少しだけまともな息をつくことができた。
 
「あーあ、殆どこぼれてるじゃねえか」
「…っは、う」
「なんなら着替えるかい、これに」

 床に片膝をつけた男は名前が落ち着くのを見計らい、彼女を覗きこむ。会話の流れから自然とそれを差し出し、不快に歪む表情をせせら笑う。わざわざリボンの結び目を解く過程を見せつけてくる辺り、愉快犯でしかない。
 「やめて」名前の口から重々しい否定がもれた。

「やめてよ」

 情けないことに拒否を紡ぐ口はとても弱々しかった。今度はどんな欲望がその箱に閉じ込められているというのか。見たくもないし、聞きたくもない。何も、知りたくない。
 なんて、そんな風に思っていることを絶対に気取られてはいけない。

「へぇ、怖いのか」

 けれど男の察しがよいのか、名前が分かりやすいのか、彼の的確な言葉はぐさりと彼女を抉ってひどい傷を作った。思いの外、傷口の大きさに名前は痛むより先に驚いてしまう。自分ですら認めたくない感情を、誰かに指摘させるのがこんなに悔しいなんて思ってもみなかった。
 
「確かに、俺もちょいと見させてもらったが、いい趣味してるぜ」
「……。」
「アンタ、面倒臭い奴に目つけられちまったな」
「待って。何を言ってるの?」

 途端、混乱に顔を曇らせ、瞠目する名前に、男は頬に手をつきながら「ぁ?」とこれまた理解できないものを相手にするかのように表情を渋らせた。不法侵入者と家主、互いの間にやりづらい沈黙が流れる。

「あんたが私のストーカーじゃないの?」
「はぁぁ??おいおい、勘弁してくれよ」
「違うの?!」
「ちがう。断じてちがう」

 不服である、としかめ面で頑なに否定される。身振り手振りもおまけに付け加えて。そこまで否定しなくとも。名前はほんの一時、自分がフラれたような錯覚に陥りかけた。それもすぐのこと、我を取り戻す。悪人でなければ目の保養とうっとり見惚れていたであろう美形に「ないない」と手を振られミーハー心は複雑だった。

「でも私の学校に来たでしょ。それに今だって、勝手に人の家に忍びこんで...!」
「ん〜、なんつーかなぁ。それはその通りなんだが、俺にアンタを辱める趣味はないので、安心してくれや」
「なにが安心よ...。できるわけないでしょ!」

 噛みつかんばかりに気を昂ぶらせている名前に対して、彼はどこまでも飄々としていた。「強気だねぇ」と名前の怒りを煽るばかりで彼自身、とても落ち着いている。罪の意識などこれっぽちも感じていない。本来であれば異常な態度と断じられるべきを、あまりにもあっけらかんとした淡々ぶりに、思わず名前の方がどもってしまう。

「ほんとほんと。俺はただ趣味の悪いブツを渡すように頼まれただけ。ん?これじゃアンタにとって悪いヤツであることに変わりはないか」

 まるで馴染みある相手と戯れるように、おちゃらけた笑顔で自分が縛り上げた女に話しかける。悪いことなど何もしていないような気さくな人間を自然と演じている。
 例えばこれが、脅すなり傷をつくるなり、分かりやすいくらい酷い目にあわされていたら、名前はこんなにも声を張ることはできなかった。そういう意味では、彼のたおやかな声音は彼女を錯覚させていく。

「なら、...誰がそんなことを頼んだの」
「俺の依頼人。あ、おい、依頼人と主ってのは全然違う存在だからな。勘違いすんなよ」

 男のおかしなこだわりなど、どうでも良かった。名前をはぐらかしているつもりだとしたら、ますます食い下がれない。彼がただの使い走りであるなら、一連の嫌がらせを指示した人物がいるはずだ。
 名前は知りたいと願う一心で、さりげなく彼女の隣にまで移動してきた男に体を向けた。彼なりに話しかけやすい雰囲気を演出しているのか、恐怖を置き去りに真実を求めようとしている。
 男はただ黙って、唇に薄い弧を描き名前の切羽詰まった様子を受けとめていた。

「教えなさいよ…!」
「俺がアンタに?言う義理あるかい?」

 けれども肝心の答えが出てくる手前で弾かれてまう。そうやって名前をおちょくって遊んでいるのだと、彼女は同じ質問を三度は繰り返した辺りで思い知る。最初からまともに取り合うつもりなどなかったのだ。
 そうと知った名前は、意味のない問答を諦め男から見えないよう一生懸命に手首を捻る。隙のない縄縛りに綻びがあると信じて感覚を頼りに探っていく。これで簡単に解けてしまうような、甘い男ではないと分かっていても、結び目を緩めるくらいはできないものか。からかわれたくらいで匙を投げたりはしない。
 きっとこのままでは、何かとても良くないことが起こる。漠然とした不安が彼女の背中を押して抵抗を形にさせる。

「頑張るねぇ」
「(こいつ、他人事だと思って)」
「曰く、アンタは最悪の売女らしいが、こうも健気だとよっぽど恨まれてたのが分かるってもんだ」

 男はケラケラと、面白がって歯を見せた。虚をつかれたの名前だ。縄を擦っていた手が止まり、男の言葉をたっぷり時間をかけて受け入れる。それでも結局は理解しきれなくて、とうとう彼に向けて首を傾げるはめになった。

「ど、どういうこと?」
「会ってみりゃわかるさ。もう少しで迎えがくる」
「迎えって、」

 縄で縛っておしまい、とは思っていなかったが、いよいよ本当の危険が迫ってくる。
 まさかそんなはずないと隅に置いていた可能性が現実味を帯びて、計り知れない不安となり名前に襲いかかる。熱病による苦しみなんて気にならないくらいの寒気が名前の体をぞくりと駆り立てていく。焦るのにも怯えるのにも疲れて、考えるのを放棄したくなるような目眩に苛まれたせいか、目を開けるのすら臆病になってきた。

「(これ、やばい、かも…)」

 かも、も何も。
 本格的にまずい展開だ。この男は家宅侵入罪の罪だけでなく、誘拐犯としての名も刻んでいくつもりらしい。

「や、やだ…」
「おーい、暴れんなって」
「こないで。いや、はやく出てって...ッ」
「よしよし。一緒にいこーな」

 名前の意見など聞き入れてもらえるはずもない。それでも竦む体に鞭を打って、絶対にどこにも行くまいとたどたどしい動きで後ずさる。少しでも彼との距離を空けようと畳を擦り、部屋の隅へ逃げる。近づいてきたら足でたくさん蹴ってやるつもりだ。
 男は無理に追い詰めたりはせず。けれど名前の願望を聞き入れるつもりがないのも明らかだった。
 
「ち、近づいたら...い、痛い思いをすることになるわよッ...!」
「はは」

 抵抗の意思が相手に効くかどうかは置いておいて、言葉にして伝えるのは大切なことだ。あまりにも小物くさい言い回しに、流石に男も空笑いをこぼすだけであったが。

「(なんで、こんなことに...)」

 おかしい。変態野郎を捕まえると息巻いていた名前はどこに行ってしまったのか。冷静に努めればいけないと、言い聞かせるほどに頭は真っ白になっていく。

 行きたくない。行ったきっと、良くないことになる。



 そして、とどめを刺された。いきなりのことだった。心臓を鷲掴みにされてたまらず鼓動が止まる。極限まで高まった名前の緊迫感に容赦ない一撃を加えて、どっと汗が吹きでてくる。
 聞こえなれた間抜けな響きが、ポーンと一音を鳴らして現れた。来訪を知らせる何者かが、名前と男、二人だけの空間に存在を刻む。あまりに突然の一撃に息の仕方を忘れている彼女に対して、彼は一転、硬い表情を作ると流れるような仕草で立ち上がる。

「来たか」
 
 最悪だ。ギュッと目をつぶる。
 誰が来たのか。そんな当然の疑問すら浮かんでこなかった。最悪な状況がもっと悪くなっただけのこと。
 名前は誰であろうと易々と客人を招き入れたりはしない。なのにたった一夜で自分の家が土足に踏み荒らされそうになっている。あの扉の向こうから次にどんな人間が現れるのか、絶望に近い展開に膝を寄せ身を縮こまらせる。
 もう余計な恐怖を、この耳に入れないでくれ。そう願っていた矢先、コンコンとノックまでもが開けてほしそうに懇願してくる始末。

「ま、なーんもできないと思うが、騒いだら死ぬし殺すぞ」

 ひぐっ、と息が詰まった。
 ただの脅しとは思わせない迫力があった。伊達男でも演じていたというのか、開いた瞳孔には名前への配慮など一切なく、その気になればきっとどんな風にも痛めつけることができるのだと、遠回しに知らしめてくる。颯爽と回る後ろ髪へ、もう容易には話しかけられない。
 悠々と玄関に向かう背中を見送るだけでいいはずがないのに、逃げなければいけないのに、何もできない。ひくひくと喉が震えて、視界がどんどん狭まっていく。

 ふと、男の動きが機械のネジでも切れたかのようなピクリと止まる。不自然な一歩を刻んだまま微動だにせず。名前は疑問すら抱くことができず恐怖に塗り固められた瞳で、彼の背中を見上げていた。



「名前?」

 とうとう幻聴が侵食してきた。ここにはいないはずの声が聞こえて、名前はそんなにもあの男を恋しがっていたのかと、愕然とうなだれる。確かに、まあ、彼は彼女の常識を越えてくる言動を多々起こすので、想像のしやすい展開かもしれない。
 けれど、これは名前の都合の良い妄想だ。現実はそんなに甘くない。

「名前?そこのいるのかい?」

 いや、本当に、ありえない。



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