様子を窺うような控えめの声が、薄い壁を通り抜けて部屋の隅で縮こまっている彼女の耳にしっかり届く。一度は幻聴の類を疑ったが、関節を立てた音がもう二回、密やかに鳴るとこれが夢でないことを教えてくれる。

「ーーーぁ、」

 風邪のせいだろうか、鼻の奥がツーンとしみて、目頭が無性にこそばゆい。
 どうしているんだろう、と尽きない疑問が頭を占領しつつある傍らで、名前は初めて彼の凄さを実感した。この男はきっとそういう星の下に生まれたに違いない。だってこんなタイミングで現れたら誰だって希望を抱いてしまう。
 
「名前、僕だよ。アーサーだ」

 名乗りさえすれば開けてもらえると思ったら大間違いだ。天然では済ませられない図々しさもあるのだと、まさかそんな元気を言えるはずもなく。
 去り際に二度と来るなと叩きつけたのは、ほんの数時間前のこと。表情の細部に至るまで、鮮明に思い起こすことができる。
 まだ明日になっていないのに、どうして。時間のたたない再会はこんな状況ながら喜びよりも疑問ばかりをはじきだす。ただそこにいるだけなのにもう救われた気になっている自分を認めるのが、恥ずかしかった。

「深夜の来訪になってしまったのは本当にすまないと思っている。開けてくれ、とは言わない。君はもう眠っているだろうから、ここからは僕の独り言だ」

 まずいーーー、
 名前はお腹にありったけの力をたくわえた。

 アーサーは彼女の家の中で何が起きているのか気づいていない。知らぬまま語り始めようとしている。彼女としてはもどかしい状況だ。
 今夜に限りその扉を蹴破ってくれて構わない。どうにかしてこの異常事態を伝えたくて、大きな声で叫ぶ。助けてとつける余裕もなく、名前はひたすら彼の名前だけを呼んだ。

「...ッぁ、さ...ぁ?」

 あれ、なんだ、これ。
 くらりと目眩に引っ張られた。あるべき場所、あるべき物が遠い彼方に吸いこまれていき、天と地が逆さまにひっくり返る。それまで拍を取りもどしつつあった心臓が、途端にリズムを崩す。必然的に息を吸って吐くことばかりに意識を取られ、名前は自分がどんな状態になっているのかいつまで経っても分からなかった。
 体が言うことを聞かない。お腹に力入れろと命令したのに、動いてくれない。喉を痛めつけるほどに鳴らしたつもりが、死にかけの衰弱よろしく掠れた息をこぼすだけ。

「(どうして、口が…)」

 はくはく、と唇がわなないて苦しみを訴える。誰でもいいから助けて欲しくて腰をよじろうとした。けれどこの身は指先一つ言うことを聞かない。そうして、焦るべき感情すら奪うように緩慢な力が名前の意識に侵入してくる。気にかかることがたくさんあるのに、それらを理解しようとするのが大変な道のりに思えてくる。
 誰かが、名前の体の主導権を奪っていく。

「しー」

 彼女の背中は壁を離れ、頭からぺったり畳に沈む。静寂を指示する息の音だけが頭に残響する。舌を伸ばすほどに求めていた彼の存在すら忘れ、頬に張りつく髪を一本ずつ丁寧に剥がしてくれる指の冷たさだけが彼女の感じとれる全てだった。

「俺がただの善人でないことくらい分かれよ」

 名前にしか聞こえない、とても密やかな囁きには、おおよそ調子と呼ばれる音をまるで感じなかった。馬鹿にされてもいるようで、それだけではない気もして、全部が予想でしかない。頬にあてがわれた硬い腿のおかげか、畳のしわがつく心配はなくなったが、それだけだ。意識があるだけの人形となってしまった名前は、胡座の状態からされる膝枕がそれほど快適でないことを今夜知った。
 眼球を動かすことすらできず、長い腕が地面を水浸しにしているコップをどこかへ移動させる流れを見守るばかり。

「アンタの彼氏がどっか行くまで、もうちっと待ってような」

 誰かに何かを言われたような気がする。音はいくらでも耳に入ってくるのに、意味を考えることを頭が拒否する。

「あ、でもついでに顔だけ拝んでおくか。色々と報告しなきゃならねーし」
「君の風邪の具合がとても気になってしまったんだ。情けない話、責任は僕にある」

 人の言葉が分からない。考えようとすると疲れてしまう。

「喋れんとは思うが大人しくしてろよ〜」
「明日を迎えるまでの今夜、君が熱病に苦しんでいると思うと、足が動いてしまったんだ。本当にすまない」

 声が聞こえたり、聞こえなかったり、もどかしさに口先がわななく。縛られた腕の痛みや、近くにあった人の気配が消えたくらいはどうにか感じ取れるのだが、とても離れた距離で呼びかけてくる言葉が耳に入ってこない。
 意味を呑み込もうと躍起になるあまり、名前の傍を離れた男が、いつの間にかまた戻ってきていることに、頭を持ち上げられ、腿に乗せられるまで気がつかなかった。

「あれ、マジでアンタのかい?色男だねぇ」
「...ち......が」
「眉目秀麗ってやつ。いやー悪いことしてる気分になるぜ」

 ひそひそと耳打っているが、名前はこの男も相当に笑えない面貌だったことを思い出す。そうだ、彼女は誰よりも綺麗な男をもう一人知っている。

「(アーサー、)」

 四肢と頭の自由は取り戻せないが、呼吸だけはどうにか調整できるようになってきた。ついでの誰の声を求めていたのかも。
 触ってほしくないのに、男の手が名前の頭をなぞるようにすべる。退けといくら訴えても声に出なければ意味はない。彼女なり悪戦苦闘を送っている一方で、扉の向こうのくぐもった声は、やはり中の異変には気がつかない。
 普段は勘の良さの塊のような男であるのに、彼は心から名前が夢のなかにいると信じているらしい。

「僕の行為は君からすれば押しつけがましいはずだ。納得してくれとは言わない。ただ、専門の人間から風邪に効くものを色々と貰ってきたんだ。これをどうしても届けたくて」

 ポトン、と限界まで静寂を貫く空間に金具の回る音が聞こえる。聞き覚えのある響きからして投函口に物が落とされたのだろう。深夜にも関わらず家を訪ねにきたのには、そういう理由があったらしい。
 扉越しの優しい口調が、どこまでも彼女を心配しているようで、ここまで自分を気にかけてくるその顔を見てみたいと思った。うっかり絆されそうになった矢先、聞き捨てならない台詞が名前の度肝を抜く。

「果物は明日届けに来よう。君が眠れているようなら良かった」

 まて。まてまて。
 もう帰ろうとしている意思が見え隠れしているのだが。

「(いつもはもっと図々しいでしょうが!)」

 名前は足首を傾け、地面を擦るように叩いた、つもりになった。けれど余すところなく薬に支配された体はそんな抵抗すら許してくれない。
 まさか彼にこんなことを思う日がくるとは思わなかった。が、今は緊急事態。終わりに向けて緩やかになっていく喋り口に、焦りが募っていく。
 本当にこのまま帰ってまうのか。

「(まって)」
「長居は迷惑だろうから、僕は帰るよ」
「(おねがい、扉、開けるから)」

 行かないで。

「...あーさッ」
「こーら、大人しくしてろって言ったろ」

 熱をもった大きな何かが名前の口元を覆う。ありったけの力をこめて絞り出した呼びかけが掌に吸いこまれていく。
 しまった、と顔が青ざめるより先に、力の入らない唇を開かされいつぞやの布地がぐっと侵入してくる。遠慮なく舌を押しつぶされて呻きの一つ上げることができない。そうして押し込まれた布塊が抜けないように別の布を回され頭の後ろであっさり結び目を作られてしまった。

「おやすみ、名前。また明日」

 とても残酷な言葉を贈られた錯覚に陥った。胸の奥がツキリ、とナイフで抉られたように痛み、じくじくと傷口が疼く。
 足音を奏でる響きが遠くなっていく。名前は鼻から必死に酸素を吸い、ありったけの大声でアーサーを呼んだ。

「(こっちだって!気づけ!)」

 けれども辺りは静寂を保ち、顔周りで荒い呼吸がわずかに鳴るだけ。やがて靴音は完全に聞こえなくなってしまい、目の前でもぎとられた希望の芽が、地面に落ちて萎れていく。

「行ったな。よし、いいぞ」

 いくら後悔したところで都合良く事が運ばないのが現実だ。
 仕方のないことだ。こんなのは名前が勝手に傷ついて、勝手に泣き言を言っているだけだ。そんな当たり前のことなど考える以前に弁えている。

 でも、でも、理屈なんて感情の前にはひどく脆い。
 怖い思いをするのは嫌だ。こんなことになるなんて思わなかったのだ。

「大切にされてるねぇ」
「......。」
「明日戻ってこれるかは。まぁ、どうだろうな」

 嫌な奴。言葉を封じ込めるこの忌々しい口枷さえなければ、これでもかと罵倒を喚き散らせる自信があった。けれど今はまだ叫べない。暗い気持ちに押しつぶされそうになるのを、くぐり抜けて名前は布地の裏で鼻をすする。
 風邪に負けている場合ではない、と思ったのだ。
 表情には微塵も表れていないだろうが、気持ちはぎゅっと男を睨んで、脱力させられた四肢に無駄と分かっていても力を込めるのをやめない。

「頑張ってんなぁ」

 この男は、肝の座っている名前をもっと褒めるべきだ。そんな勢いで足先を持ち上げてみたり、腕を引っ張ってみたりと、とまらない汗をかき続ける。諦めてはいけないのだ。今夜は気づいてもらえなかったが、明日も来ると宣言していたので、その時点で違和感に気づいてもらえるかもしれない。
 勘の鋭い彼のことだから、もしかしたら名前を助けにきてくれたり。なんて、ありえるかもしれない未来を考える。

「でもさぁ、ホントの痛みってやつは頑張ってどうにかなるもんじゃないだろ」
「(どういうこと...?)」

 疑問に丸くなる瞳に答えることなく、彼は腰を上げた。誰かの力なしでは立つことのできない彼女の背中と膝裏に手を回し、まさかのお姫様抱っこ...ではなく荷物でも担ぐような絶妙な雑さ加減で、俵抱きにしてしまう。頭に血が上って苦しむ名前によしよしと他人事よろしく適当に声をかけ、まるで重さを感じない軽やかな足取りで玄関へと向かう。

「(私、死なないよね?)」

 突飛な考えが頭の端から端を行った来たりしている。男は玄関扉のノブを捻り隙間から周囲に人の影ないことを確認すると、物音を立てることもなければ不必要に辺りを警戒することもなく、あっさりと外に出てしまう。名前はひっくり返った天地に酔いそうになりながら、こういうことに慣れている彼の手際の良さを垣間見た。

 寂れた住宅街の、目立って古びたボロアパートの一角。誰も通らない、通ったところで目にも留めない。少ない街頭は夜の色に押し負け、名前と男を暗闇に同化させていく。
 部屋ではあれほど頼もしかった月明かりも、表に出てしまえばアパートの二階の廊下という、厄介な影を生みだす原因に早変わり。一層暗がりを強調する道筋は男にとって都合がよく、名前には気落ちする余力すら残っていなかった。

「俺ってさ、働き者なんだぜ」
「......?」
「もうずーっと、毎日汗水流して働いているわけ」

 いきなり何を話すかと思えば、自分語りをされところで響くものなどない。...のだが耳が勝手に拾ってくるのでは仕方がない。
 汗水の言葉を借りるには、限りなく遠い位置にいそうな男ではあるが、名前の知らない表には出てこない世界を渡り歩いて来たと、そういうことを言いたいのかもしれない。

「こういうのを、何度も何度も繰り返してる」

 身についてくるものがあるんだよ。
 興味も、耳を傾けてあげる理由もなかった。彼女が考えているのはこれから連れられていく未知の場所への疑問や自分の体が五体満足で帰ってこられるかどうかの不安のみ。右から左へ男の話を流しつつ、少しだけ流暢になった口調に違和感を抱く。

「呼吸や視線もそうだが、音もな」
「(ひとりごと?)」
「足音なんてのは、特に分かりやすい」

 これは名前に向かって話しかけているのだろうか、答えられないと知っていておちょくっているのだろうか。それにしては先ほどまでの気安い雰囲気が消失してしまっているような。男は真っ直ぐに進む道の奥を見据えていた。

「...なんて思ってたんだが。例外アリ、と」

 歩み具合に合わせて揺れていた感覚が、ぴたりと綺麗に止まった。名前からは見えないが、考えられる可能性としては迎えがくると語っていた件の続き、仲間への引き渡しが始まるのか。ようやっと少しずつ力の入るようになってきた手足の先を緊張に固まらせる。

「驚いたな」
「ーーーッ!」

 夢から戻ってきたばかりなのに、また夢を見ているのだと思った。整った靴が、砂利を擦って仁王立つ。そんな気配があった。誰が誰の前に立ちふさがったのか、見えなくとも頭は瞬時に把握する。

「良い耳を持っている。使い所を間違えてはいるようだが」
「いいや。俺は何も間違っちゃいない。アンタ、嫌味の才能もなかなかだ」
「不快にさせたところで私からの謝罪はない。しかし、いらない口は慎もう」
「(えっ、...え?!)」

 名前は諦めが悪いだけで、物わかりの良さとは結びつかない人間だ。整理しなければならない状況に限って、散漫する思考をかき集めることができない。たっぷり時間をかけて混乱の渦に揉まれた挙句、ようやく一つの答えに辿り着いた時、二人の流れには完全に置いていかれていた。
 
「彼女を離せ」
「ハッ、冗談。帰れよ、王子様」

 彼は帰ったのではなかったのか。中の異変に気づいていたというのか。
 ここにいる、と呻くことで主張する。言うことを聞くようになってきた足をばたつかせ、苦しい体勢ながらアーサーの存在を確かめようと何度も腰をよじる。しかし、彼女の目にはどう足掻いても灰色の地面しか映らない。
 
 それでも抵抗に暮れる刹那のこと。振り子のように揺れた頭が男の腕の隙間を捉えた。



「私に、同じことを言わせるな」

 二つの碧と交わって、思わずそらす。
 肌がビリッと焼かれ、胸の奥に焦げ目をつくる。振り絞ろうとしていた喉がすっと大人しくなり、額から汗がたらりと落ちていった。波及する圧が自分に向けられたものでないのと知りながら、暗闇の向こうに手を伸ばそうとするのをやめてしまう。
 聞いたことのない声だった。有無を言わせぬ絶対的な権威を盾に、対面しているというだけで捕らわれの身である彼女すら脅かしにかかっているような。

「印象変わるねぇ…。優男がしちゃいけない顔になってるぜ」

 名前はゴクリ、喉を下す。暴れていた体を大人しくさせ、血の溜まった頭が熱くなってくるのをじっと我慢していた。
 打ち合わせでもしていたのかと思うせるような、永遠を疑う長い沈黙。言葉を発さずして相手の何がわかるというのか。彼女の届かない領域で、相手の力量を見計らうよりもこの体勢をどうにかしてほしい。そんな不満をつけたくなるほどだった。

「(も、もう限界...)」

 目を開けるのが辛くなってきた先のこと、彼女を担いでいた男が腰を低くかがめ、戒めを解くこそなかったが弱々しい背中を近くの柱に凭れかけさせる。一転して楽になった姿勢に安堵とほんの少しの驚きを交えて、名前は彼を凝視した。
 まさか引き下がってくれるのだろうか。
 けれども悪だくみを諦めるつもりはないようで。男は立ち去ることなく、代わりに道を譲らないアーサーと向き直る。

「コレは連れてく。アンタは邪魔。俺の言いたいことはそれだけ」
「なるほど。分かりやすい」

 柱を頼りに一息つきたいところを名前はアーサーの姿を探す。スーツの色の影響で暗闇に溶け込んでしまっているがどことなく不敵に笑う気配がした。い)や、本当はもっと険しい顔をしていたかもしれない。
 どちらにせよ、彼は彼女の予想を遥かに超える堂々ぶりでそこに立っていた。明らかに尋常でないこの状況で、彼は慌てることなく自然体を貫いている。普通なら縛られている名前に驚くなり、戸惑うなりすると思うのだが、そういう感情的な部分を一切晒すことはなく。
 やっぱりこの男、普通じゃない。

「あ?得意な感じ?いいねぇ、そういうの」
「お互い手癖が悪いだけのこと。彼女を置いて去るならば、それで許そう」
「アンタも大概しつこいなぁ」

 まだ本調子には至らず、緩やかなまどろみにありながら、名前の瞳は一触即発のすぐ手前を捉えていた。まるで微動だにしない影達を前に、身じろきすら許されない空気が張り詰めている。意図された緊張感に囲まれ、ここから先、どうなってしまうのか全く予測がつかない。口交渉による平和な解決には至らなかったらしい。
 であればーーー、

 名前は影が傾いたのを見た。月明かりの影に埋もれた黒い塊が、揺れる。

「もう怖くないよ、名前」

 安心しなさい。と聞こえはしなかったが、つけ加えられたような。怯えているのが丸わかりだったらしい。彼女の心を労ってくれる優しい声音だった。名前の耳によく馴染み、不思議な魅力をもってして良くも悪くもたちどころに動けなくさせてしまう。
 名前は口で返事ができない代わりに、首をぎこちなく縦に落とす。

「僕が、すぐに助けてあげるから」

 不意に、顔が見たくなる。暗がりの向こうで笑いかける彼を探してしまう。
 聞こえのよい台詞に、優しさだけを受け止めてしまって良いものか悩む。一目姿を拝むことができれば納得できるはずだ。と、必要ないはずのもやもやが名前の上に薄い雲を作る。

 でも彼は笑ったのだろう。
 そうであればいいな、と思った。



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