月夜のもと、濡れ色の髪が躍動する。どちらかの踵をくるっと返すと、名前に捉えることができたのはここまでだ。そこからはせめてコマ送りにしてくれないと分からない世界になってしまった。
 なめらかに伸びた足がアーサーの顔を狙うまで、彼女は随分と遅いシャッターを切っていた。常人であればためらうような面貌に、艶やかなエナメルがめりこもうとしている。

「ーーーッッ!!」

 あんなものを食らって無事でいられるはずがない。蹴られる痛みを想像してしまい、たまらずまぶたが恐怖に潰れる。破裂する衝撃音にビリビリと鼓膜をつんざかれながら、名前は自分の体が急激に冷たくなっていくのを感じていた。

「うお。すげっ」

 ハッとさせられる。何をもってその一声なのか。一縷の望みを胸に、引きつる瞼の隙間から周囲の景色をそうっと取りこんでいく。

「(何が、どうなったの?)」

 目に入れるのを拒んだせいで、事の流れがどうなったのか分からなくなってしまった。逃げていた遅れを取り戻すつもりで五感をひたすら働かせる。
 重なり合った二人の影が夜に溶け、歪なシルエットを形作る。掴み合いの喧嘩に遭遇したのは初めての経験であり、目に映るものをそのままに受けとめるしかなかった。人の足がそこまで高く上がるなんて、ましてや誰かの顔を蹴るために使われるなんて、名前の理屈では行き届かなかったのだ。

 夜が姿形を変えていく。どことなく澄んだ肌寒さが漂い始め、ちぎれ雲の切れ目から青光りが角度を変えて照らす範囲を広げていった。明暗の差が色濃くなってくると、名前はついに矛のように伸びた足がアーサーの側頭部を打っているのを見つけた。

「ッ!!」

 男の微動だにしない体幹に感心しそうになってから、ぎょっとする。
 信じた無事とかけ離れた光景に、心臓が絞られるような焦燥に駆られる。アーサーの普段通りの余裕にそそのかされたばかりに、彼がおぼっちゃまであることを失念していた。
 彼は超のつくお金持ちなのだ。暴力とは無縁の、人を殴ったこともないような人生を送ってきたはずだ。いきなり頭を蹴られて反応できるはずがない。

「(し、死んじゃうっ!アーサーは、お坊ちゃんなのに!)」

 名前はいつ倒れるやもしれないアーサーの影に向けて口布の下から必死に呼びかける。
 しかし、彼はいつになっても地面へ崩れ落ちることはなかった。それどころか悲鳴をあげる素ぶりすら見せない。

「......ッ...?」

 からくりは不明だが、どうやら無事だったようだ。
 名前からは死角であったが、アーサーが咄嗟の判断で掲げた腕はかろうじて男の一撃をしのいでいた。迫る蹴りに対して、頭を庇うように組み立てた腕は意識を奪いにくる強烈な蹴りを防いだものの、内側ではえげつない衝撃の余韻がぐるぐると渦巻いている。

「彼女が怖がっている。やめてくれないか」
「顔は勘弁してくれってか?」

 アーサーは答えなかった。代わりに静寂から一転、顔を狙ってくれた踵の延長戦にある足首を勢いよく手繰り寄せる。回し蹴りの姿勢を崩された男は案の定バランスを崩し舌打ちをこぼす。その隙を狙って、スーツの袖先より伸びた骨太の指がぐわっとアームのように広がり彼の胸ぐらを掴み上げた。

「(......むなぐら?)」

 漠然とした光景に目を奪われる。
 筋のくっきり浮き出た甲が男のシャツをギリギリと捻っていた。誰が、誰を、とそこまで混乱しているつもりはない。けれど、もしかしたらその時の名前は混乱した自分を演じたかったのかもしれない。
 相手の襟首をギリギリと締め上げるアーサーの容赦ない拳が、奇妙なほど目に焼きついてならなかった。

「...はなせよ」
「......。」

 恐怖は一瞬にてすっぽぬけ、その代わりに見てはいけないものを見てしまったような。どうしてか、そんな風に思ってしまった。単純な驚きとも異なる、そう、これはショックに近い。
 昼下がりの紅茶をたしなんだり、靴を磨かれているのが似合うような男が、あんなに乱暴に人を掴むのだと。

「(あれが、本当にアーサー...?)」

 別に、彼の何を知っているわけでもない。
 名前の印象としては料理ができるスケベで、優しさにかこつけた意地悪な人間であることくらいだ。それが彼女の知るところのアーサーの全てであり、言い換えてみればそれが彼の全てだと理解したつもりでいた。
 けれど、それは恐らく名前の勘違いでしかなかったのかもしれない。この男はその他平凡に分類させてくれるほど生易しい存在ではない。
 彼の"底"はまだもう少し深いところにあるようだった。

 そんな非凡に、もう一人の非凡が相対する。胸ぐらを掴まれながら薄ら笑いを崩さない男は、緩急をつけて急激に迫りくる拳から強引に身をよじるとあっさりアーサーの拘束から抜けだす。

「あっ...ぶね!」
 
 互いが互いにマウントを取ろうともつれあい、膠着していた体勢が崩れていく。両者の動きは取っ組み合いにしては迷いがなく、まるでアクション映画のワンシーンそのもので、名前からしたら恐ろしいことこの上ない。どちらかが壁に叩きつけられれば肩を揺らし、誰かの拳が飛び交うたびに目を瞑ってしまう。
 一方であまりにも日常とは乖離した急展開に頭の一部分が冷えていくのも実感していた。自分は一体、何を見せられているのだろう。

「よおし、やろう!マジでやろうぜ!」

 当事者でありながら、蚊帳の外に追い立てられている、それが今の名前だ。
 拮抗する力と力の張り合いの下に、駆け巡る思考が存在していることを、そこにどのような攻防が潜んでいるかも分からないまま、呆然とするしかない。

「(こ、これは逃げるチャンス...っ)」

 せっかくアーサーが彼の相手をしてくれているのだ。いつまでも呆けていては流石に愚図も過ぎるというもの。名前は残り少ない気力を奮いおこし、柱から背中を起き上げていく。それから拳飛び交う異空間に巻きこまれないよう、這うようにして二人から距離をとろうとする。
 このまま芋虫のように這いずって、アパートの敷地外に出られれば通行人に見つけてもらえるかもしれない。

「おーい」

 しかし彼女はすっかり忘れてしまっていた。前提として彼は誰を狙って現れたのかを。渦中の源はあくまでも名前にあるということを。
 金属音が瞬いて鼓膜を痛めつける。キンキンと耳鳴りが連続し、一瞬にして平衡感覚を失った。目の上を長い影が流れていったのは刹那のこと、追うようにして熱風が頭皮を裂くように撫でていったので彼女はあるはずのない痛みを知覚した。
 髪が、すこし千切れたかもしれない。

 少なくとも数本は巻きこまれてしまっただろう。靴底と柱の間に挟まれてちりちりになっているはずだ。
 名前の頭すれすれの高さで柱を蹴りつけた男は悪びれることもなく、胡乱な瞳で彼女を見下げる。

「そりゃないだろ。逃げたらどうなるか言ったよな?」

 パラ、と乾いた砂利が名前の額にかかる。あとほんの少し靴の位置が下にずれていたら彼女の顔はーーー、

「……ッ、ぅ」

 その先を想像してはいけないような気がした。
 逃げようなんて考える気も起きなくなる強烈な一撃だった。危うく最悪の事態になるところを、彼は脅しで留める代わりに色褪せていた恐怖を鮮明なものへ塗りかえていったのだ。
 雁字搦めにまとわりつく緊迫の糸は、見えるはずの視野を奪い、取り戻しかけた平常をなかったことにしてしまう。
 男の目論見はまんまと成功し、名前の本能は「逃亡は無謀」と見事に刷り込みを施されていく。
 
「足を降ろせ」
「おおっと、」
「彼女に不要な脅しをかけるのは許さない」

 名前はただそこにいることしかできなかった。利にならない足掻きなどせず、その柱のふもとで日常と乖離した掴み合いを見守ることだけが、できる精一杯。気の利いた立ち回りや、斬新な発想なんてものは悲しいくらいに浮かんでこない。
 彼女の頭の回転は完全に止まっていたのだ。

「命令すんのが様になってんなぁ」

 名前から引き剥がされた男が愉快げに骨鳴らす。そこで彼女は自分がアーサーの力を引き出さるためのダシにされたことを悟った。
 
「だが、俺を拳で叩き落とせるなんて思わないこった」

 紳士な手合いに押し負けるようではこの仕事は務まらない。男は握りこぶしをつくり、軽く宣言せしめると床を蹴り一気に間合いを詰めにかかる。俊敏な身のこなしを有利にとり、アーサーのボタンの留められた懐にもぐりこむ。

「……ッ!」

 段階を飛び越えた圧倒的な速さに、ひたすら睨みつけていたエメラルドグリーンの双眸が驚愕に丸くなる。息を呑みかけた刹那の表情すら男には、はっきりと見て取れた。

 人体の急所をつくつもりで、殺意のこもった拳がアーサーのみぞおちに叩きこまれる。抉られた勢いで後ろに転がるかと思われた体は、しかしそうはならなかった。

「ッ、ぅ…」
「へー、頑丈なんだな」

 アーサーは自身の動体視力の先を行く拳を喰らいながらも、倒れることなく踵で腹を支える。咳き込みそうになるのを飲みくだし、白くなりかけた意識を脅威の精神力で引き戻す。
 はっきりと苦痛に歪んだ表情を浮かべながらも、汗を垂らすことで耐え切ってみせた。
 胴体の中腹に埋もれた拳を見下ろし、逃げられる前に手首を掴む。体を横にずらし、男を引きずるように己の右側へ引き寄せる。
 アーサーの力に対して踏み留まろうと仰け反った方向に合わせた。

「あ。テメェ、ーーーッ!」

 ガコン、と強烈な肘打ちが入ったところで手首を離す。衝撃に揺さぶられた頭が、揺れて宙を漂ったのち膝から崩れていく。決着がつく瞬間とは存外あっけなく、室外機を背中に地面に倒された男の顔が上がることはついぞなかった。



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