episode.2


 季節は初夏。初めての夏と書いて、しょか。夏の本番はまだまだ先だ。だというのに体に纏わりつくじめりとした熱気は少しずつ、しかし確実に彼女の気力を奪っていく。高温多湿な日本の夏はほぼ毎日が不快指数100%である、と彼女の独論はこうだ。きっと100人に聞いたら100人が頷いてくれる、そう思っているから。
 シャーペンを握りしめた手がじわじわと汗ばんでいく。無機質な数式と命令文の羅列にいい加減目眩を覚えたところで「そこまで」と教師による救いの言葉が掛けられた。他の生徒共々夏の湿気と試験のプレッシャーの二重苦から解放され名前は深い深い息を吐く。

「試験が終わったところで皆、聞いてほしい」

教科担当であり、クラスの担任でもある教師が帰りのHR間際に今か今かと浮き足立つ生徒達を引き止める。各所で終わりを急かす野次が上がる一方で、教師の顔つきはどこか険しい。

「先週、近隣の区域で高校生を狙った集団暴行事件が複数発生した。犯人は未だ捕まっていない。我が校の生徒が被害に遭った話はないが、夜間の外出は控え登下校もなるべく複数人で行うようにーーー」

名前は途中から話を聞くことをやめた。それよりも夏までの日付を数えることにする。

「(残り一、二...ヶ月)」

長期休みまで長いようで短い。黒に近い灰色の空を眺めながらそういえば傘を持ってきてない失態に遅れて気がついた。



 途中でビニール傘を買っても良かったが金がもったいないのでやめた。カジノでの出費は後から振り返ると思っていた以上に痛いもので、暫くは小さな節約を心掛けている。午前の内にテストが終わったので夜の用事まで暇を持て余すこととなった名前は何を食べようか駅周辺の商店街をうろついていた。なるべく安くて美味しいもの、多種多様な店が連なるこのエリアは高校と同時に引っ越してきた今でもまだまだ散策したりない。
 ただし一歩路地裏を曲がればしなれたスナックとキャバクラやラブホテルがひしめき、更に道を外れると町の裏を象徴する繁華街に出てしまうので気をつけなければ。こんな真昼間からそんな場所に用事はない。

「(いや、今までは結構あったかも)」

学校をサボって何度か知らない親父と遊ぶことはあった。しかしそれもあの夜をきっかけにぐんと数を減らした。あの夜とはもちろん金髪に翡翠の瞳を宿す憎たらしい男に散々痛い目に合わされた日のことだ。

「(思い出すだけで腹が立つ)」

優位性を奪われたセックスは、一度限りの相手だったとは言え腹の底からふつふつと怒りが燃え滾りおさまるところを知らない。酷い夜だった。どれほど快楽が心地の良いものであっても名前の言う通りにならない男などこちらか願い下げだ。

「(なーにが、約束だよ〜っだ。誰が守るかっての)」

要はあの男の面子に泥を塗らなければ良い話だろう。それならば名前はあの日の出来事を何処にも書き込んでいないし、誰にも教えてない。そもそも自分の大失態を冗談で話すほどお気楽な性格ではない。しかし強烈な夜であった事実は塗り替えられず、忘れようにも忘れられないというのは堪え難いストレスだった。

 だからいつもなら一秒も見ずに横目で流す程度の酷く狭い路地裏で、仄暗い裏路地に似つかわしくない色を発見した時、つい足を止めてしまったのも気が滅入っていたせいに違いない。

「(ナンパ...、こんな路地裏で?)」

女一人に男二人という時点ですでにお察しというべきか。恐らく女子高生であろう可愛らしい少女に迫るは大学生の見るからに浮ついた装いの男達。今時漫画でも見ない典型的で穏やかとはかけ離れた光景に名前はドラマの撮影でもしているのかとカメラを探した。けれども生憎とそれらしき機材も、また彼ら以外の人影も全く見当たらない。

「(いや、いやいや...)」

彼らが何をしていようと名前には全く関係はないし、興味もない。あるとすれば好奇心くらいだ。早々に場を立ち去ろうとしたところでこれもまたお約束なのか、男達の背中越しに不安に濡れた瞳と目が合ってしまった。

「(え、...えぇ〜。嘘でしょ)」

助けるなどという行為は露ほど頭の片隅にも無かったのだが、目が合うだけで巻き込まれれてしまうとは。さっさと見て見ぬ振りをして逃げる手もあったが、酷く怯え、鞄を抱き込む彼女の肩を乱暴に抱き寄せる暴挙に小さい舌打ちを鳴らした。
 歩むべく方向を腐臭漂う路地へと向ける。

「こんな昼間からナンパ。よっぽど暇なのね」
「は?」
「なんだァ?」

正義の味方よろしく男達の背中に声をかけた名前は、振り返った二人のチンピラ然とした姿にこの後の展開を簡単に予想できた。失礼ながら、見た目からしてあまり頭の良くなさそうなお二人は横槍を入れてきたのが女子高生だと思うと、だらしなく鼻の下を伸ばす。

「お、可愛いね。もしかしてお友達?」
「同意じゃないようだけど。警察呼ぶわよ」
「待ってよ。ちょっと声掛けてただけじゃん。別に無理に誘ったりしてないし」

涙目で震えている彼女に対してよくもまあそんなセリフが吐けるな。ある意味感嘆する。典型的なナンパ男達は名前を舐めてかかっているのか、警察の文字を出しても腹立たしい態度を崩さない。連絡したところでどうにでもなると、思っているのだろう。確かに名前は武道や知性に秀でている訳ではない。セックスの経験人数が他より多いだけの非力な女子高校生だ。

「けど、そうやって女をナメてると、いつか痛い目に合うでしょうよ」
「へーそっか。そりゃ怖いなぁ」

言いながら男達は名前と距離を詰めてくる。ターゲットが自分から他所の女に移り、動揺を露わにする女子生徒を強い視線でさとす。それからタイミングを見計らい咄嗟に端末を取り出した。名前の素早い動きに警察を呼ばれると思ったのだろう。男達の腕が彼女の手首にかかり強い力で締め上げた。端末をあっさりと奪われる。

「あっ」
「没収〜。悪いね、おまわりさん呼ばれると流石に困るんだわ」
「別に二人共々ヤろうって訳じゃないんだぜ?ただおすすめの場所があってよ」

きっとロクな場所じゃない。下品な笑い方から容易に想像がつく。唇を舐めながら名前の顔を覗き込んでくる男に不快な表情を隠さず眉をひそめる。金も権力も美貌もない、ランク最底辺の男など見ているだけで反吐が出る。昨日の男を擁護する訳ではないが本当に同じ人間なのだろうか、と名前は真面目に疑問を感じた。

「俺たちもさ、仕事なんだよ」
「なるほど。ナンパも立派な職種ってこと」
「違うって。君達みたいな可愛い女の子を集めるように言われてるんだよ」
「何のために?というか誰に?」

知りたいならついておいでよ。下手くそにも程がある誘いに名前は肩に乗せられた男の手を強く叩き落とす。かなり強めの力で叩いたせいか「いってぇ!」と情けない悲鳴が上がった。その隙に奪われた端末を奪い返そうと相手に掴みかかったが、思わぬ反撃にへらへらと笑っているだけの男が一転して激昂に染まった。

「何しやがんだッ、この野郎!!」
「あっ、おい」
「きゃあぁッ!!」

かなり短気な性格なのか手の甲を弾かれただけと言うのにすぐに余裕を失い、容赦なく手を上げる。勢いよく突き飛ばされ、名前は甲高い悲鳴を上げて体のバランスを大きく崩した。

「ーーーえっ、」

自分の方向に飛んでくるとは思っていなかったのか。間の抜けた声が浮いて、驚きの色に染まる瞳がくっきりと見えた。名前は女生徒を巻き込んで、ただし彼女に怪我をさせないように自身の腕で庇いながら路地の壁に勢いよく体をぶつけた。人間の体とコンクリートの壁がぶつかる重い音が響く。ほんの静寂のあとに、近くに立てかけられていた廃材やら裏方道具などがテンポ遅れて激しく地面に戦きつけられる。尋常ではない衝撃音が舞い上がる土煙に乗って辺り一帯に広がった。

「...お、おいっ、どんだけ強く飛ばしたんだよ!!」
「知らねぇよ!俺はちょっと押しただけだっ」

予想を遥かに超える被害状況に男達の顔が酷く蒼ざめたものへと変容する。完全に冷静さを欠き、倒れ臥す二人の女子高生へと近寄ろうとしたところで地面にゆっくりと池溜まりが伸びていくのを見つける。薄暗い路地の地面に染み込んでいく色黒い液体は、彼女達の体から流れていた。

「「っひいぃ!!?」」

自分達がとんでもない事件を仕出かしたのを悟ったのか、情けなく怯え戸惑い泣きながらナンパ男達はへっぴり腰で逃げていく。子供のように哀れな悲鳴を上げる彼等の姿が完全に見えなくなったところで名前はムクリと体を起こした。

「ふん、意気地なし。怪我人をそのまま置いてくんじゃないわよ」

しかし居座られた居座られたで面倒なことになってしまうので結果的には助かった。地面に伏した拍子に潰した容器から今も尚真っ赤な液体が滴り落ちる。ほんのり果実の香りを漂わせるそれは名前の両手や制服のシャツをべっとり濡らし、一見すると凄惨な絵面を映し出す。

「ちょっと、大丈夫?」
「はい…。あの、ありがとうございます。えっと助けていただいて、」
「いいよ、そんなの」

元々助けるつもりはなかった、とは言えないので曖昧に笑っておく。自身の下に無理やり押し込んだ少女は咳き込みながらも怪我はないようで彼女の制服についた砂埃を払いながら初めて真正面から向き合うことになった。

「(......ん?)」

そこで名前は急激な違和感に襲われる。いや、既視感と言えよう。薄紫色の綺麗な髪で片目を隠す少女の容姿。まごうことない美少女な訳だがどこかで見かけたような気がしたのだ。

「こーんな可愛い子、一度見たら絶対忘れないと思うんだけど」
「え、っと?」
「うーん」

隣町のお嬢様学校の制服を着た少女はまだ落ち着かないのか挙動の端々に怯えの色が見られる。やはり、男二人に攻め寄られるのはかなり怖かったのだろう。最初に彼女を見捨てようとしていた名前は罪悪感に胸刺された。

「マシュ・キリエライトと申します。あの、お名前を伺っても?」
「あ。う、うん。名前よ、よろしく」

そう言えば同世代の女の子とこんな風に挨拶を交わすのは何年ぶりだっけかと我ながら拙い自己紹介に呆れる。しかしマシュは気にした素振りも見せず、名前の名前を噛み締めるように何度か呟いて今度こそ自然体と呼べよう穏やかな笑顔を見せてくれた。

「驚きました。あんな風に男の人達を撃退する方法があるなんて」

勉強になりました。と意気込むマシュは少しズレているところがあるなと名前は感じた。そこは良い意味でお嬢様らしい、と流すべきだろう。

「あんたみたいな女の子がどうしてこんなところに?」
「その、...実は久しぶりに兄と彼の友人が遊びに来るので美味しいものでも買って帰ろうとこの街に降りたのですが、どうも道に迷ってしまったみたいで…」
「...ま、ここの商店街有名だもんね」

恥ずかしそうに頬を染めるマシュに女の子特有のいじらしさを感じる。長らく覚えのなかった感情に一応助ける側であった名前も気恥ずかしいような生ぬるい感情に包まれた。どちらも辿々しい会話を繰り返す内に名前は言い訳をかましてこの場を去るよりも彼女を駅まで送り届けなければならない責任感に駆られる。放っておけばまた別の男に絡まれそうだ。
 けれどマシュはどうしても美味しいご飯を買って帰りたいらしい。何でも兄はもちろん彼の友人もとても大切なお客様なのだそうだ。目的を果たすまで帰ろうとしないマシュに名前は仕方なしに頭を掻く。

「じゃあ一緒に買い物しましょ。あんた見るからに土地勘なさそうだし」
「迷惑でないのであればお願いしても、良いでしょうか?」

マシュのおずおずとした問いかけに相槌一つで頷いた。ジャケットを羽織り、ワイシャツについた赤い汚れを隠した名前はマシュの腕を引いて表通りの店を散策する。マシュどころか普通の一般人でさえも知らない穴場の店や、安くて美味しい食材を扱っている露店を案内する度に少女はキラキラと目を輝かせて喜んだ。
 正直名前にはこの手の友人がいない。テスト終わりの放課後に同級生くらいの女生徒と街を遊び歩く経験は初めてで、どんな大男の相手をするよもずっと緊張に見舞われる。

 マシュとの会話を重ねるうちに知ったことと言えば彼女は名前より一つ年下であること。父子家庭で父と兄の3人で暮らしているようだが父とはあまり良好な関係を築けていないこと。リスのようでリスではない摩訶不思議なペットを飼っているなど、様々な事情を教えてもらった。

「先輩はこの近くに住んでいらっしゃるのですか?」
「うん、一人暮らしなの」

今度遊びに来てもいいよ、と冗談を言える程度に名前はマシュとの会話を気に入っていた。趣味も環境も異なる二人だが不思議と話していて心地よく応答のテンポも合う。マシュが彼女のことをどう思っているのかわからないが、無理に気を遣っているようには見えなかった。

「もうこんな時間ですね」

広場の時計を確認する。夕方を過ぎ、駅から住宅街に向けて人の歩みが増える中、両手に沢山の荷物を抱えたマシュと名前は買い物を切り上げ駅への道を目指す。ここ最近雨が続いているためか、冷え切った空気に鳥肌を立たせながら二人は改札の付近までやって来た。本来ならばここでお別れ、なのだろうが次の列車の発車時刻を確認している名前にマシュが「あの、」と緊張に固まった問いをかける。

「もしまだ時間があるようでしたら、来ませんか?」

それが彼女の自宅を指していることは明白だった。精一杯勇気を振り絞ったのだろう、僅かに唇が震えている。兄弟もおらず、いとこと遊んだ経験もない名前はもしも身近に歳下の親戚がいたらこんなにも愛らしいのだろうかと一人考えていた。断った方がきっと楽だ。マシュも名前が何をしているのか知れば酷く幻滅するに違いない。嘘を突き通せる自信もなく、謝るために口を開く。

「服も、」
「え」
「助けていただいたお礼がしたいんです。シャツを洗濯させていただけませんか?」
「あ、お礼ね。そんなこと気にしなくていいのに...」
「お願いします」

そこまで言われると無下にしにくい。冷徹になりきれない名前は曖昧な気持ちで頷いてしまった。

「(厚意に甘えるだけなら今日くらいは、)」



 高級住宅街が立ち並ぶことで有名な駅で降りた二人は、下町風情が印象的な商店街と違い、洗練された景観が続くゴミ一つない美しい坂を登る。一軒一軒がどれも巨大に過ぎるせいか人とすれ違うことが極端に少なかった。

「着きました」
「この家...?」

冷や汗を垂らし引きつり笑いを隠せない名前にマシュは何てことないように頷く。実際彼女にとっては生まれ住んでいる家なのだろから平然としているのが普通なのだが。名前は違う。テレビの中でしか見たことのないような豪邸は彼女の稚拙な想像を軽く超えて姿を現した。高級住宅街の中でも頭一つ抜けた高台にあるマシュの家。仕事で滅多に帰ってこない兄と父の話が名前の脳裏に過ぎる。彼女はこんなにも大きな家で夜を一人で過ごすことが多々あるのだそうだ。

「先輩の今夜の予定をお聞きしても良いでしょうか?」
「バイトがあるの。でもまだ時間あるから」

ガチガチのセキリュティで固められた玄関の造りに好奇心から視線を走らせつつマシュの後に続いて家の中にお邪魔させてもらう。誰もいないと聞いていた自宅から灯りが漏れていること不思議に思っていると、前に立つマシュが小さく息を呑んだ。

「おかえり、マシュ。おや、そちらの子は...」
「お父さん!?」

多忙で滅多に家に帰ってこないと言っていた彼女の父親は、流石美少女の娘を持っているだけあって大人の男としての色気たっぷりな美丈夫だった。かなり驚いている様子のマシュに戸惑うようにはにかむ。彼の娘であったら反抗期なんて来ないだろうと思うほど、とても優しそうでかっこいい父親だ。

「どうして家にいるんですか」
「とぅわ!」

それは疑問ではなく不平に近い、容赦のない叱責だった。昼間の穏やかで無垢な表情はどこにも見当たらず名前も思わず目を瞬かせる。しかし一番ダメージが深かったのは彼に違いない。父親は露骨に傷ついた表情をしながら娘からの冷たい視線にむせていた。

「し、仕事が早めに片付いたのでね。今日はあの方もいらっしゃるだろう?」
「そうですか。わざわざお疲れ様です!」

罵る勢いで労いの言葉をかける矛盾ぶりに傍に控え立つ名前もただ圧倒されるばかり。まさか自分が「マシュ、落ち着いて」と声をかけることになるとは思わず、名前が背中を軽く叩くことでマシュもようやっと我に返った。

「すみません、先輩!恥ずかしいところをお見せしました」
「どこも恥ずかしくないって。ほら、早く食材を冷蔵庫に入れてあげないと」
「そ、そうですね!」

ぎこちない空気感を打破すべく、名前は他所様の家に図々しいと思いつつもマシュをキッチンへ促す。彼の父親への挨拶も程々に区切りの良いところで早々にお暇しようと考えていた。この親子に何があるのか出会ったばかりの彼女には分からないが、滅多に帰ってこない父親がせっかくいるのならこれから大切なお客様を迎えるためにも名前去ったほうが良いだろう。
 広々としたリビングの備え付けられたこれまた立派なキッチンの片隅で、マシュと二人食材や惣菜をカウンターや冷蔵庫にしまう。時刻は夕食時にはまだ早いか。ついでに食器を並べる手伝いも一緒にさせてもらう過程でランスロットと名乗るマシュの父親が名前も知る世界的に有名な大企業の重役であることを知った。

「そうだ、先輩。私ってばすっかり忘れていました。シャツを洗いましょう」
「別に気にしなくていいのに」

シャツ一枚どうってことない、と頓着しない名前に対してマシュはダメだと首を振り洗面所まで引っ張る。仕方なくシャツに手をかけた時、来訪を告げる玄関のベルが鳴った。

「お兄さんと客人さん?」
「はい、そのようです。すみません、ちょっと行ってきます」

パタパタと洗面所を後にするマシュに名前は洗面所の扉から顔だけ出してそっと玄関の様子を伺う。単純に美形親子の兄の顔が気になるというミーハー心によるものだ。

「おかえりなさい、兄さん。それから、お久しぶりです」
「ただいま」
「やあ、久しぶりだね。マシュ」
「(ん?)」

ランスロットとマシュに被さり見えない来客の声に我が耳を疑う。聞き間違いにしたってタチの悪い幻聴にドクン、と心臓が嫌な音をたてた。

「お、おかえり、ギャラハッド。久しぶり、だな...」
「どうも」
「......〜〜っ」

どうやら息子にも手痛い態度を頂いているらしい。ランスロットへの冷めた切り返しに名前はまたしても忘れたい記憶の隅を突つかれている感覚に陥った。ほんの少し傾いたマシュとランスロットの隙間からツンと澄ました顔立ちは見間違えようのない...。
理解する前にバッ、と勢いよく頭を引っ込める。洗面所の壁に張り付いて激しく鼓動する心臓の音を抑えようと必死だった。

「(ちょっ...と待って。あの男って...!)」

幻聴の次が幻覚ときた。名前は何度も、それこそ痛くなるほど目を擦ってからもう一度慎重に顔を傾ける。どうか勘違いであってほしい、こんな巡り合わせなどいらない。
 玄関辺りではランスロットへの当たりを除いて和やかな談笑が交わされているようだ。肩を落とすランスロットの背中が何とも痛ましい......じゃなくて、

「今日はマシュが隣の町の商店街から美味しい総菜や食材を買ってきてくれたようで」
「い、いえ!選んでくれたのは全て先輩でッ」
「先輩?」

ギクッと全身の毛が逆立つ。この声...こんなにも離れた距離にいるのに背中を優しく愛撫されているような艶隠せぬ声の主は、

「マシュ、友人ができたのか?」
「そうなんです!私を怖い人達から助けてくれたんです」
「へぇ!それはぜひ会ってみたいな」

ーーーマシュ待って。やめて。

「はい、ご紹介をいたしますね!ぜひお上りください、アーサーさん」




backnext

TOP