運命、と喜ぶほど頭に花は咲いていない。意地を張っているのでも恥ずかしがっているのでもなく、ただ純粋に会いたくない。アーサーとのセックスは名前の心のささくれを剥がし、痛みというより苦みに近い何かを刻んでいった。世間の狭さに驚きつつ、考えるのはこの場からどうやって去るか、そんなことばかり。
 彼と出会った日からそれなりに時間は経っている。きっともう自分のことなど忘れているだろう、と悲観できたらどんなに良かったか。人の倍くらい脳みそが発達していそうなあの男のことだ。会った瞬間名前の記憶を頭の隅から引っ張り出すだろう。「久しぶりだね」と嫌味の一つも感じさせない笑顔がありありと目に浮かぶ。

「(あぁ...こんな想像をしてしまっている自分が恥ずかしい)」

自分でも思っていた以上に混乱がおさまらないようで。広い洗面所に名前の細く長い溜息が落ちていく。再会した彼が何を告げ彼女をどう思うかなど、どうでもいい。ただあの瞳と正面から向き合うのがどうしても嫌だった。

「すみません先輩、お待たせしました」
「ん、大丈夫だけど」

申し訳なさそうな顔で戻ってきたマシュについ力のない言葉を返してしまう。明らかに落ちたテンションを隠すことはできず、名前の初めての後輩は心配そうに彼女の顔を覗き込む。

「どうかされたのですか?お加減が優れないようですが」
「いや、そうじゃないんだけど...。えっと、随分かっこいいお客様だなって」
「アーサーさんのことですね。確かに、とても綺麗な容姿をお持ちだと思います」

初めて会った時には物語の中から出てきた王子様かと思いました。と己と全く印象を抱いていたことに、何とも言えない笑いがこぼれる。合致してしまった名前と容姿に、この巡り合わせを再び嘆いたところで、俯いた視界にベットリと濡れた赤が目に入った。
 買い物から今の今まで着用していたせいか、濡れた液体の違和感は消えていても絵面がかなり痛々しく。フルーツの香り漂う爽やかさに反して、着色液が真っ赤に布地を染め上げるギャップがおぞましい。

「どうぞこれを。そのままでは色素が肌に定着してしまうかもしれません」

万が一の可能性ではあるが無いと断言することもできない。ここはマシュの厚意に甘えるとして、まずは服を脱ぎ、蒸しタオルで肌に張り付いた液体を拭う。差し出された無地ニットの触り心地を堪能しながら特に何も考えず袖を通したところで、頭部が服の首まわりをすっぽ抜いた。洗面台の鏡の向こうには制服を脱いだことで女子高校生らしさのカケラも無くなった女が間抜けな顔をしている。

その時だ。天啓のような雷鳴がつむじから足の指先にかけて轟いたのは。

「(そうか、バレなければいいのか)」

それなら不自然に理由をつけてここを去る必要もない。マシュに迷惑もかからない。夜ご飯は食べられる。何故こんなにも良いアイディアがすぐに思い浮かばなかったのか、名前は呆然とその場に立ち尽くす。本格的にマシュが心配してオロオロし始めた。

「あの...ほ、本当に大丈夫ですか?」
「マシュ」
「は、はい!」

近寄ってきたマシュへ、振り向きざまに両肩を掴む。名前の圧力に押されて完全に怯んでいる。

「すっごくダサいジーパン持ってない?」
「だ、ださい…?あると、思います」
「(よし、あとは髪型と口元をいじればいける…か?)」

我儘を承知で貸して欲しいとねだれば、名前の意図をあえて聞かず彼女は快く服を持ってきてくれた。このお礼は後日必ず返すとマシュに誓い名前は洗面台へと向き直る。よくよく思い返してみれば、アーサーは彼女のケバケバ度数限界値の大人メイクが施された顔しか知らない。高校生だと見抜かれたのは書類のせいなのだから、今度はきっとバレやしない。駆け足で髪をまとめながら名前は小悪党よろしくほくそ笑んだ。



 談笑もそこそこに、アーサーは時計の針をちらりと確認する。晩飯を迎えるにはいささか早い。ランスロットに尋ねればマシュを助けてくれた恩人は暴漢との騒動で汚れてしまった衣服を着替えているとのこと。ならばここは自分の出番だろう。不意に立ち上がったアーサーに親子揃って不思議そうな視線が注がれる。

「うん、惣菜だけではいささか物足りないというもの。私にも何か振る舞わせてもらえないだろうか?」
「なっ…!いえ、御身の手を煩わせることはできませぬ。ここは私にお任せを。すぐにツマミの一つでも作ってまいりましょう」
「包丁を握ったこともないくせに、何を言っているのやら」

ダイニングリビングの場で唐突に跪かんとするランスロットをアーサーは苦笑いで制し、ギャラハッドは呆れたように息を吐く。頓珍漢な返答を口走ったことに気付いた男は息子の「退け」という無言の圧力にあえなく屈し、キッチンを明け渡す。流石のアーサーも憐れみを感じたところで、彼の思考を読んだのか、ギャラハッドに「気になさることはありません」と言い切られてしまう。

「アーサー様の手料理が頂けるとは身に余る幸福です。ささやかながら僕でよければ手伝わせていただけないでしょうか?」
「ありがとうギャラハッド。ぜひ頼もう。ただ、様付けはよしてくれ」
「…申し訳ありません。敬称を取り払うことは僕にはとても」
「そうか…。いや、そうだね。すまない、妙なことを言った」

そう従者に背を向けながら答えたアーサーは、カウンターに並べられた食材やら冷蔵庫の中を物色する。何を作ろうかある材料で短時間でも作れそうなメニューを考えていると、キッチン横の扉がガチャっと音を鳴らす。

「アーサーさん、兄さん。お待たせしました」
「大丈夫さ、私も勝手にキッチンを借りているからね」

アーサーは申し訳なさそうに眉尻を下げながら現れたマシュに優しく微笑む。本当に気にしていないのだから、もっと気を楽にして欲しい。その意思を彼女に伝えようとして、さらに奥から覗く瞳とバチッと視線が重なった。

「……。」
「マシュ、彼女は」
「あ、はい!ようやくご紹介できます。こちら苗字さんと言いまして、私が怖そうな人達に絡まれているのを颯爽と助けてくれた、とっても凄い方なんです!」
「…どうも」

ぺこりと簡易なお辞儀に簡易な挨拶。アーサーにとってはあまり馴染みのない態度に虚を突かれつつ、思わず無遠慮に観察してしまう自身の行動を諌めた。が、彼の行動は人間の反射に近く、そう視線が動いてしまうのも仕方がないのかもしれない。
 ニットにジーンズとリラックス感を前面に押し出した部屋着姿。乱れた髪がこれでもかと言うほど乱雑に後ろでまとまっている。顔の半分以上は白いマスクで覆われており、唯一見えるはずの瞳は長い前髪に隠されてはっきりと視認することはできない。全体的に猫背気味で挙動も最小限。後ろでギャラハッドが固まっているのが手に取るように伝わってきた。

「すみません。先輩はどうやら風邪気味のようでして…あれ、アーサーさん?」

いかがされましたか?マシュは何とも言えない表情で口を結んだままでいるアーサーに首を傾げる。彼の後ろで同じく気難しい顔をしている兄も同様だ。何が彼らがこうも言い表し難い表情になっているのか彼女にはさっぱりだった。

「…あぁ。すまない。暴漢を追い払ったと聞いていたから、てっきり男性とばかり」
「先輩はとっても頭の良い方で、思いがけないアイディアで彼らを追い払ってくれたんです!」
「それはぜひ話を聞いてみたいな。料理を味わいながらゆっくり、ね」

かまわないだろうか、苗字さん?
マシュは自分の後ろで名前が何度も深く頷くのを感じる。そしてアーサーの美貌に酷く驚いて緊張しているのだろうと当たりをつけた。



 やはり男はちょろい。ちょろ過ぎて笑い転げてしまいそうだ。名前の口が大きな弧を形作る。マスクをしていてよかったと心の底から安堵した。目の前にいる人物が一夜の過ちを犯した女と知らぬまま、手を差し出してきた王子様にこちらも握手をし返す。
 彼らはこれから料理を作るようで、マシュは手伝いますと意気込んでいた。名前は風邪気味であることを配慮されて哀愁漂うランスロットが腰掛けるダイニングテーブルで待機することとなった。すれ違いざまにギャラハッドとも挨拶を交わしながらなるほど、道理でと一人納得する。彼はアーサーとの夜が明けた朝に紅茶を持って部屋にやってきた男だった。

「(マシュと会った時の既視感はこれね)」

よく似ている兄妹だ。感心しながらランスロットの向かいに腰掛けたところで「苗字さん…?」と唖然とした声に顔を上げる。見れば驚きに満ちた顔が名前をマジマジと観察している。

「随分と雰囲気が変わられましたな」
「はい。こっちが本当の私です」
「な、なるほど」

もちろん嘘だ。こんな醜悪極まりない格好でイケメンの前に出るのは本来であればプライドが許さない。しかし今は状況が悪い。アーサーの何を知っている訳でもないが、奴の勘は鋭いと彼女の勘が告げている。こうしてやり過ぎとも言える変装を重ねることでようやく誤魔化しきれる相手だ。

「それに、いつの間にやら風邪まで召されてしまったのですか?お可哀想に…」
「っ、ゴホッ…、は、はい。何分病弱なもので…」

それも嘘。悲しいかなここ数年風邪など引いたことがない。体は至って健康体そのものだ。しかしこうして病状を偽ることで万が一窮地に追い込まれた際には、具合が悪いを貫き通して切り抜けられるだろう。仮病で仕込みの手伝いをサボっていることに罪悪感を抱きつつも、バレたくない。そんな自分本位な意思が勝った。

「そうでしたか。どうかお体を大切に。貴方が寝込んでしまわれてはマシュも悲しむでしょう」
「ま、まぁ。お嬢さんは優しい子ですから」

初めて会った時から会話の節々に感じていたマシュへの印象は年齢に反して、無垢で可憐であること。浮世離れとまではいかないが一つ一つの仕草や言葉遣いに落ち着きがあり、容姿の美しさと合わさって庇護欲の掻き立てられる、そんな少女だった。名前を凄いですと崇める瞳に裏は感じられない。誰に対しても真っ直ぐで優しい子なのだろう。会って間もなくともそのくらいのことはすぐに分かった。

「ええ、おっしゃる通りです。彼女は優しい。だからこんな私のことも許してくれている…」
「(随分とナイーブになってるな)」

複雑な家族関係と言ったところか。今のところ彼らの会話やこの家の中には、一般家族にあるべく母親の姿が欠片も見当たらない。まぁ、名前には関係の無いことだが。ランスロットの独り言に「はあ」と曖昧な相槌を頷きながら、こっちはこっちでめんどくさいとテーブル中央にある洋菓子を一つ頂いた。



 問題が起きたのを知ったのはキッチンから嫌な音が飛んできたからだ。一般的に料理に携わる者ならばまず聞いたことのない轟音にランスロットが驚いて立ち上がり、名前は嫌な予感に何度目かになる菓子を咀嚼する。テーブルからマシュの挙動不審っぷりがしっかり見えていたことから、彼女はあまり料理をやらないのでは、そんな予想が浮かんでいた。

「マシュ!?怪我は?」
「へ、平気です。ただ私のせいでミキサーが…すみません」

駆け寄ってきたランスロットに両腕を抱かれしょんぼり肩を落としながら力なく俯くマシュ。よっぽどショックだったのか父の怪我の確認作業に全く抵抗しない。間違えて何やら熱い液体をミキサーに入れ、電源を押してしまったらしい。熱が膨張して蓋を押し上げ、白亜ベースの艶やかで美しかったキッチン周りは見るも無残な光景へと変貌していた。あっちこっちに液体が飛びかかり、その被害を受けたのは道具や食材だけではない。

「ッふ、フフ...。ギャラハッド、平気かい?」
「はい。アーサー様にお怪我がないようでなによりです」

笑いごとではない。一歩間違えれば大火傷をしていかもしれない。そんな当たり前の危険性に突っ込むより先に、アーサーは笑いを耐えきれなかった。小さく肩を震わせて、頭からべっとりトマトソースを被った男を案じる。ギャラハッドは熱液が飛びかかり負傷する被害こそ免れたものの、ミキサーによる二次被害を受けたらしい。ピタゴラ装置も真っ青な偶発的な仕掛けによって、暴れるミキサーにぶつかり飛び上がったボールが、狙ったように美しい銀髪を染めていく。可哀想に、彼の頭髪からはしばらくトマトの香りが漂うのだろう。

「すみません、兄さんッ!私のせいでとんでもないことになって、大迷惑をかけてしまって、」
「それよりも怪我だ。火傷はしてないか?今は実感がなくとも後から痛みがやってくる可能性もある」

ギャラハッドはどこまでも冷静に、マシュの身を気遣っていた。自身も大変なことになっていながら、その罪悪感を彼女に感じさせないように矢継ぎ早に事態を処理していく。一先ず着替えと洗浄、怪我の具合を見るためにランスロットと共にリビングから二人を追いやって、散らばった液体を綺麗に掃除していく。

「手伝うよ」
「いいえ。料理の手伝いができなくなった分、掃除は任せていただきたいのです」
「…じゃあ、私が」
「君は風邪を引いているんだろ。病人なら大人しくしていてくれ」
「(なんかトゲがあるな)」

まさか、私の正体に気づいて?
いや、ないない。

変装は完璧だ。あっさり手伝いを断られて、すっかり手持ち無沙汰になってしまった役立たずの名前はギャラハッドが手早くキッチンの汚れを片付けていくのを見守ることしかできないでいる。少しだけ、風邪を偽ったことを後悔した。

「それでは僕も軽くシャワーを浴びてきます。なるべく早めに戻りますので」
「気にしなくていい。ここのところ忙しかったからね。せっかくだからゆっくりお湯にでもつかっておいで」

申し訳なさそうにリビングを去っていくギャラハッドの背中を名前はぼんやりした頭で見送った。あれほどの量を頭から被ったのだ、時間をかけてよく洗い落とさなければ後々困ったことになろう。マシュが火傷をしていないかも気がかりだ。帰ってきたら真っ青な顔で何の迷惑もかかっていない名前に謝ってくるだろうから、何かしフォローの言葉を考えておく必要がある。そして娘とのコミュニケーションが壊滅的に下手っぴな父親の心の内も他人事ではあるが心配だ。
あれよあれよという間に人がはけていったリビングにはアーサーが包丁を扱う音だけが響く。

「(あれ、二人きり?)」

思いがけない展開に初めて自分の置かれている状況を自覚する。否、緊張することなど一つもない。ここにいるアーサーと苗字という女は全くの初対面。さて、トイレにでも行こうかと腰を上げたところで涼やかな声に呼び止められた。

「苗字さん」
「…な、なんですか?」

たかが名前を呼ばれただけなのに、名前の背筋が小さく泡立つ。

「風邪は酷いのかい?」
「...いえ、ほぼ治ってます。これは予防、みたいな」
「もう感染した後なのに?面白いな」
「再発防止です!」

クスリと笑われて無性に気恥しさが名前を襲う。何も間違ったことは言っていないはずだ。重症なフリをしようかと一瞬迷ったものの、呆気なく見抜かれてしまうような気がして結局元気なことをアピールしてしまった。

「具合が酷いようだったら医師を一人紹介しようかと思っていたのだが、いらない心配だったかな」
「(嘘つかなくて良かった!)」

まさにありがた迷惑。アーサーの世話など受けてたまるか。そう理由もわからない意地が断固として彼の提案を拒絶する。彼の親切心を無下にすることには何の抵抗も湧かない。マスクの下で口を尖らせる名前を見越したように彼は始終穏やかな様子だった。

「こっちへおいで」
「なんっ、何を…」

唐突に名前を手招くその言葉は、嫌でもあのベッドの上で起きた屈辱の夜を思い起こさせる。忘れたい記憶であるはずが、時たま思い返しては体の芯が疼く、あの感覚。快楽にすぐ流されがちな自分の身を生まれて初めて恨んだものだ。恐る恐るアーサーの元へ近づいて様子を伺う。キッチンに立つ姿は不思議と違和感がなかった。もしかしたら、彼は名前の正体などとっくの昔にお見通しの上で同じ言葉を投げかけたのかもしれない。

「野菜を切るのを手伝って欲しいんだ」
「え、」
「包丁は使えるかい?」
「う、うん...」
「良かった。私は鍋にかかりきりになってしまうから、君が手伝ってくれるととても助かるよ」
「(気づいてない、か)」

当たり前のように包丁を手渡されて、名前はすっかり拍子抜けする。それもそのはず。冷静に考えてみれば同一人物と自称したところで信じてもらえるかどうかの変わりようなのだから。無意識に強張っていた肩から力が抜け、緊張していた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
 名前の炊事能力は可もなく不可もなく。一人暮らしをする上で最低限の家事は覚えたものの、人様に堂々と料理を振る舞えるほど味に自信はない。

「(この男、料理するの...?)」

どう考えてもただ座っているだけで三食美味しいご飯が出てくるような身分にいるだろうに、料理の腕まで磨いて一体何を目指しているというのか。慣れた様子で鍋の火力を調整するアーサーに愕然としながら名前はまな板の上に鎮座する玉ねぎに手を伸ばした。

「(ま、料理ができるからと言って美味しいとは限らないし...)」

これで不味かったら腹の底から笑ってやろう。ほんの少しだけ余裕が出てきたのか、心の中で軽口を叩いていざ中心を半分に切る。わざと下ろした前髪が視界を覆い、作業をする上でかえって邪魔に感じていると、どこからか伸びてきた白い指が彼女の髪をすくった。

名前のものではない、もっと大きくて骨ばった美しい手。

「前髪は、避けた方がいい」

それまでずっと髪のカーテンで閉ざされていた視界にいきなり光が飛び込んでくる。何故いきなり目の前が明るくなったのか、その理由を探すより先にクイっと首が傾けられた。

「君は瞳が見えたほうが可愛いから。少なくとも、僕はそう思う」
「は...」




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