ガクン、と手から滑り落ちそうになる包丁を「おっと」と軽い調子に名前の手首を掴むかたちで押し留める。そうしてアーサーはどこからか出したヘアピンで彼女の長い前髪を器用に横に流した。手馴れた動きに感心する一方、突然名前を襲った衝撃は彼女の心と体置き去りにしていく。さながら横面を思い切り殴られたような、そんな感覚。
 髪をめくられた、それだけ。たったそれだけのことなのにどうしてこんなにも驚いているのか、まず自分の反応が信じられない。更にはこの男も男で、初対面の設定である女の髪をいきなりめくるなど、許されると分かっているからこその蛮行だ。

「あぁ、すまない。女性の髪をいきなり触るのは失礼だったね」

一応自覚はあるようだが、彼のすまないには謝罪の色が見えなかった。ピンでかっちり前髪を留めた後に言われたところで説得力を微塵も感じさせず。下心ではなく親切心から来た行動故にタチが悪い。

「(こいつ、何考えてるの)」

そうだ、名前は彼のこのような接し方が嫌いだった。美貌を逆手に己の真意をひた隠し、あっさりと距離を詰めてくる。今だって名前の変装を見越した上でボロを出させようとしたのか、天然にやってのけた所業なのか判別がつかない。それは彼女が男達から金を無心するために使っていたやり方だ。
 同じことを自分にやられる嫌悪感、何より分かっていて戸惑ってしまう自分が思いの外ショックを受けている。それが女として自然の反応だと言われても、納得はできない。ただ悔しいだけだ。

「やめてください。こういうの」
「…ごめんよ」

せめてもの意趣返しに留められたばかりのピンを外す。一度はまっさらだった視界が再び陰ってから、アーサーを意識している事が丸分かりの態度を取ってしまったことに気づく。あまりにも幼稚な行いだ。やってしまったと心の中で唸る。
 対して横に立つ男はすっかり眉を下げて悲しそうな顔をするものだから、まるで名前が悪いことをしたような気分にさせられる。否、客観的に見てアーサーの親切心を無下にしたのは彼女なのだから間違ってはいない。

「(だからってもう一度つけ直すなんて恥ずかしいこと、できるわけないじゃない)」
「今後、君に触れる時は気をつけよう」
「いいえ、これっきりよ」
「え?」
「…何でもないです」

ついぞ零れた本音はアーサーには聞こえなかったらしい。危ないと胸をなで下ろす一方で名前はこんな調子で晩飯の場を切り抜けられるのか不安を感じつつあった。
 それからは無心になって調理に専念する。衛生的にも後ろ髪はしっかりまとめ直したが、前髪だけは意地で下ろし続けた。言われた通りに野菜を切り、味付けや時間の判断はアーサーに任せ、名前もできる限りの手伝いで支える。彼の指示は驚くほどわかりやすい上に、指示も的確で彼女が暇をもて余すことはない。垣間見える優秀ぶりが返って腹立たしかった。



 アーサーが最後の料理皿をテーブルの上に並べると、リビングの扉が開く音がした。すっかり服を着替えたマシュがランスロット共に戻ってきたようだ。彼女の片手の甲は赤味を帯びて腫れている。心なしか表情も暗い。痛みが酷いのか、そう名前が心配して駆け寄るとマシュは慌てて首を振った。

「いえっ、私は全然平気です!咄嗟に避けたので怪我もそんなに酷くないですし...。それよりも先輩に迷惑がかかってしまったことのほうが申し訳なくて...」
「謝らないでよ、迷惑なんて思ってないから。それよりも早く怪我を治して元気になって欲しいなぁ」
「は、はい!すみま...あ、いえ。ありがとうございます」

素直に名前の言葉を受け取ったマシュはそれ以上卑屈に考えることはせず、少し恥ずかしそうに微笑んだ。ランスロット曰く応急処置は施したそうだが、念のため明日は二人で病院に行くらしい。その話が出てから嫌がりこそしないものの、やや複雑そうに顔を歪めたマシュに暗い表情である原因の見当がつく。改めて二重の意味で彼女を励ました。

「ご飯はもうできてるから。ほら、一緒に食べよう」
「...わぁ、凄い...。これを先輩とアーサーさんが作られたんですね...!」
「それもマシュ。君とギャラハッドが下ごしらえを手伝ってくれたお陰さ」

アーサーはしっかりとマシュを褒めて、彼女の頭を優しく撫でた。椅子までのエスコートを鮮やかにこなす様は文句のつけようがなく。彼のスマートな動きは作りものっぽさがない。あくまで自然にこうあるべきだと自身の信義に近い何かに従って行動しているのだろう。名前はそんな人間がこの世に存在することが未だに信じられないでいる。

「アーサー様、マシュへのお心遣いに感謝申し上げます」

今にも跪きそうな勢いで礼を取ったランスロットは目尻を柔らかく下げる。彼の心根は名前の知らぬところにあるが、溢れんばかりの敬いが真っ直ぐにアーサーへと向けられているように見えた。彼やギャラハッドがアーサーを様づけで呼ぶのは単純な位の差によるものだとばかりに思っていたが、それだけではないのだろう。

「(これがカリスマってやつか)」

もしかしたら自分は結構やばい男とヤってしまったのかもしれない。ここにきて少し汗が垂れた。二人きりではな無くなった空間は心なしか息がしやすく、名前はアーサーと距離を置いて椅子に腰掛ける。
 少し経つとしっとりと濡れた髪を晒しながらギャラハッドが戻ってきた。ようやく全員揃ったということで始まった食事をこっそり楽しみにしていたのは名前だけの秘密である。この家にあった食材は高級スーパー御用達と言わんばかりの揃いぶりであったし、調味料等も本場イギリスから仕入れたボトルだらけ。テーブルに並ぶ惣菜や料理の数々はコンビニ食で済ませることもままある彼女からすればご馳走と言えよう。

「おぉ...!これは美味しそうだ」
「アーサーさんはお料理が得意と聞いていましたので、とっても楽しみです!」
「どうだろう。皆の口に合うと良いのだけれど」
「何をおっしゃられますか。アーサー様の料理の腕は僕が良く知っています」

アーサーの味付けはギャラハッドのお墨付きらしい。外国の食事マナーや料理の種類などさっぱりなので、周囲の様子を伺いながらそっとマスクを外す。取り分けられた皿にはブロッコリーにクリームソースが絡んだ前菜が湯気を立ち上げ待っていた。イギリス料理は不味いんだっけかと、有名な話を頭の片隅に浮かべながら、その真意も確かめるつもりでパクッと一口頂いてみる。

「あ、...」

しつこすぎないクリームとブロッコリーにも薄く味付けがしてあるのか、飲み込んだ途端にはまた次が食べたくなる。箸が進むならぬフォークが進む。食が進むと言い換えるべきか、ともかくこれは、

「どうかな」
「...まぁ、」

狙ったようにアーサーに問われ、一瞬言い淀む。じっと隣からギャラハッドによる無言の圧力が襲う。そうだ、この場で意地を張っても仕方がないと理性が名前を諭す。

「おい、しい...です」
「良かった。日本人の君の口に合うか心配だったのだけれど」

心底からほっとしたように胸を撫で下ろしたアーサーは名前の言葉に純粋に喜んでくれているようだった。あんな出会いが無ければただの良い人で終わっていただろうに。過ぎた事を後悔してもどうしようもないが、どうせ再会できたのだから今夜が初対面だったらなぁ、と別の意味でカジノでの出会いを嘆く。あの時はアーサーを色で誘惑し、一夜限り最高の相手として記憶に刻ませるつもりであったが、彼はブ男相手に調子に乗っていた名前が口説き落とせる相手ではなかった。

「(けれど、今夜初めて会ったとしても同じことしたに違いない...)」

そんな醜態を何も知らないマシュやランスロットに見られたくはない。美味しい食事で穏やかな気分に包まれながら、名前はアーサーを中心に盛り上がる身内話に半分耳を傾けていた。

「それではしばらく日本に滞在されるのですね」
「留学の形をとっているが実際は視察とバカンスみたいなものだね。もちろん勉学にも励むつもりだよ」
「いかがでしょう、初めての日本は」
「そうだな...」

アーサーは顎へ手を当てながらマシュの問いに言葉を探す。名前は食べてばかりで真剣に話を聞いていない。

「知りたいことが多過ぎてね。でも教えてもらえるかどうか」
「お任せください!私たちにできることを精一杯サポートいたしますので!」
「ありがとう。マシュは頼もしいな」

和やかな会話を尻目に名前は一人黙々とご飯を口に運んでいく。美味であることは当然として、やはり若干の気まずさを感じていた。ここにいる全ての人間と彼女は今日が初対面、という設定である。周知の仲である彼らの間に割って入ることは戸惑われた。
 かといって完全に素知らぬフリをするのは印象が悪いため、適度に相槌も打つ。正直会話の内容は聞いているようで聞いていない。

「では観光地巡りなどはいかがでしょう?もちろんお時間がある時で構わないのですが」
「いや、今度時間を作るよ。かねてより日本の建造物には興味があったから」

「でも、」そう続いた声音が少しだけ雰囲気を変えて名前の耳にするりと入り込んでくる。どこか雑踏を聞き流すような感覚でいた彼女の思考が静かに引き戻された。

「こんなに美味しい惣菜があるなら、まずはその町の商店街から見てみようと思うんだ」
「それなら先輩が詳しいです!」

いきなり話の矛先を向けられてはしたなくもフォークが音を立てる。ハッと顔を上げれば三人の視線が名前に集中していた。適当に名所を紹介してから流れを変えようと開いた口がランスロットによって邪魔される。

「そうでありました!レディ、貴女の武勇伝をお聞かせください。私も断片的にマシュから話を聞いただけですので」
「え、えぇー...大したことなんてしてないし」
「僕も気になります。どんな手腕を駆使して妹を助けてくださったのか」

父親は純粋に事の顛末が気になっているようだが、息子の方は暗に教えろと言われてる気がしてならない。隣の男にやりづらさを感じつつ、ここで渋って話を引き伸せば苦痛な時間が増えるだけなのも分かっている。

「先輩...!」
「(うぅ〜、そんなキラキラした目で見ないでよ)」

アーサーとはまた違う、マシュのキラキラした視線に引っ張られ名前の背中にチクチクと痒みが這う。自分で話すのは恥ずかしい。けれどマシュに説明してもらとなると、自惚れではなく事実から五倍くらい内容を盛られそうだ。

「苗字さん、無理に話そうとしなくていい。ただ私達は君の活躍を知った上で君を尊敬したい。それだけなんだ」
「(サラッと言ってくれちゃって)」

アーサーの殺し文句は渋っていた名前の口を陥落させた。負けは認めても溜飲が下がる。自分のことを他人に話すのは得意ではなかった。その場限りの嘘をつく方がよっぽど簡単。けれど仮にマシュと口裏を合わせ、偽りの出来事を述べようが彼には通用しないだろう。無論、そんな必要はないのだけれど。結局女はつまらない意地を捨てきれないのだ。

「ーーー別に、たまたま帰り道で...」

なるべく手短に、それだけを意識して名前は渋々と語り出した。



 最低限の状況を簡潔に説明したつもりだった。しかし話を聞いている連中、特にランスロットは名前の言葉をかなり好意的に解釈したばかりか、彼女が着色液を血液に見立てて男達を追い払ったくだりでは「なんと!」とか「おぉ!」と大袈裟な反応をしてくる。その度に名前はかなりの羞恥に見舞われるのだが、おそらく本人は気づいていない。

「で、シャツを洗濯してくれるから来ただけ、...です」
「なるほど。そんな経緯があったんだね」

名前の話を噛みしめるように、アーサーは深い相槌を打つ。語りの最中、彼女にずっと視線を注ぎながら一言一句聞き逃さない姿勢はランスロットとは別の意味で居心地が悪い。兎も角、どうにかして喋りきることができた。

「苗字さん。貴女は華奢な腕に反して強い勇気と賢い知恵をお持ちなのですね」

改めまして娘を助けていただきありがとうございます。深々と頭を下げられ名前は頬をかく。彼と対面した玄関先で、事情を軽く伝えた際に散々お礼の言葉はもらっている。きっちり話した後で再度頭を下げられるといい加減反応に困ってしまう。ランスロットは見ているこっちが恥ずかしくなるような慈愛の瞳で二の句を告げた。

「それにとってもチャーミングだ」

ピシッ、部屋の空気が凍りつく。室内温度が二度下がり、気のせいだろうか隣から隠しきれないプレッシャーがリビング全体に伝播していく。

「お父さん、自重してください」
「…っと。す、すまない」

今日初めて聞く、マシュの冷え冷えとした声に関係ないはずの名前の背筋までザワつく。ランスロットのウィンクに掛け合わせた褒めゼリフは純粋に女心が刺激されたが、ここは何も言わない方が良さそうだ。「苗字さん」呼びかけられて顔を上げればアーサーが穏やかに微笑んでいる。

「私からもお礼を。君がいなければマシュは危険な目にあっていたもしれない」
「そんな、」

大袈裟な、とは言えなかった。過ぎた遠慮はマシュの身を軽んじているようなもの。感謝に相対するふさわしき謙遜が見つからず、ともかく頭を下げる。

「誰でもできることですよ」
「そうだろうか」

真剣味を帯びた声色は、いつぞやの夜を思い出す。髪の壁越しにアーサーの瞳に見つめられ、何故か顔を逸らすことができなかった。相も変わらず恐ろしい眼力だ。

「君はまずマシュを助けようと想ってくれた。そして短時間に策を練り判断し実行することができた。きっと自身が思っている以上に勇気がいるはずさ。誰もができる行動であるはずがないんだ」
「(そうなのかな、)」

そこまで褒められる理由が彼女の中には見つからない。どれだけ凄いと言われても実感が湧かない。アーサーの言葉が嘘でないことは一目瞭然だが、だからといって素直に喜ぶのは阻かられた。流石に褒められて怒るほど捻くれた性格はしていないつもりだが。これはどちらかと言えば戸惑っているのかもしれない。

「けれど、もし次が」
「え?」
「今の言い方は良くないな。…今後万が一にも、危険な状況に襲われたら必ず大人の助けを呼ぶんだよ」
「(コイツ...!白々しい)」

女子高生だと分かった上で彼女の体にホイホイ食いついて来た男の台詞とは思えない。けしかけたのは名前だが、奴は始終理性を保ちながら情事にふけっていたように思える。アーサーが何を企んでいたのか名前は今も掴めない以上、その言葉はそっくりそのままお返ししよう。

「約束してくれ」

また、約束。この男は名前に決まり事を強制させようとして、一体何様のつもりなのか。名前の正体をお見通しで、わざと台詞を被せているのだとしたらとんでもない男だ。心にじんわり灯った炎が熱く彼女の神経を静かに撫でた。

「はい」

名前は静かに頷いた。内心思うことはいくらでもあるが、ここで言いたい放題喚き散らしてアーサーに彼女の正体が完全に露見してしまうのは避けたい。大丈夫だ、今夜限りの奇跡の再会に過ぎないのだから。
 ふと、習慣で膝の上に置いていたスマートフォンの画面が灯る。うっすら視線を下げた先には何かの通知が届いており、最初の数文字を捉えただけで内容を即座に飲み込む。ハッと顔を上げ壁の掛け時計を見れば時間は名前が思っていた以上に進んでいた。

「(やばっ...!)私、そろそろ行かないとッ」

夕食に招かれている身であることも忘れて名前は勢いよく立ち上がる。アーサーやギャラハッドとの再会ですっかり忘れていた。彼女はのんびり食事をしている場合ではないのだ。

「そういえば、何か用事があるとおっしゃられていましたね」
「あ〜、...バイトみたいな?」

間違ったことは言っていないが、歯切れの悪い名前に各者首を傾げる。時間がないのか慌ただしい挙動のまま皿に残っている料理をかきこんだ。「ごちそーさま!」と風邪であるのを全く匂わせないような元気の良さで立ち上がる。

「ごめんマシュ、服はまた後で返すから!」
「構いませんが...。あ、先輩!」
「待ちなさい」

通学鞄を肩に下げてリビングを後にしようとする名前をアーサーが引き止める。突然去ろうとする彼女の背中を引き止めるのは当然と言えよう。しかし、名前は本当に急いでいるのだ。勝手ながら伝言はマシュに伝えて欲しいと願わずにはいられなかった。

「これから夜中にかけて大雨が降るだろう。それにアルバイトと聞こえたが、高校生である君が働けるのはあと一時間弱」

まるで咎めているようにしか聞こえず、名前はムッと眉をしかめる。

「そこまでして行かなければならないのかい」

アーサーは彼女のアルバイトに見当をつけているのか。そんなはずはない。幾ら何でも彼を買いかぶり過ぎだ。ただの保護者気取りで名前を止めようとしているのなら、

「余計なお世話」

ベー、と伸びた名前の舌にアーサーは虚を突かれる。落ち着き払っていた瞳孔が僅かに驚きに開いているのを見ては少しだけ気分が良くなった。




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