なんか、既視感がある。
 前にもこんな風に怒られたような。



「あれがバイトかい」

重い足取りでホテルの外に出ると、背を向けた男の圧が襲いかかってきた。怒りと呼ぶには物足りない、沈着な怒気に当てられて、名前はゴクリと唾を飲み込む。顔が見えないのが、返って凄みを効かされているようで、何と話すべきか口ごもってしまう。

「べ、別に…」
「答えになっていない」

逃げようとする名前へ、容赦なく追い立てる。悪さをした子供へ向けた接し方は投げやりで。アーサーの物言わせぬ雰囲気に押しつぶされて、名前の視界は地面の一点に向けられたまま、どんどん狭まっていく。

「そうよ」

このまま落ち込んでいては一つも反論できなくなってしまう。彼の自由に諭されるのだけは避けたくて、名前は勢いよく腹を振り絞る。強気な喋り口に乗せて、暗転しそうな意識を前へと引き上げる。

「...、て言ったら怒るの?あんたには関係ないでしょ」
「どうだろうね、呆れてはいるけども」
「う、うるさい。大体どうしてこんなところにいるのよ!」

これ見よがしにため息を吐かれて、咄嗟に食いつく。きっと軽蔑されているのだろうと思うと居心地悪いことこの上ない。自分がしていることを後悔も反省もしないが、ラブホテルに入る場面を見られたとなると、相手が誰であろうと地面に埋まりたくなる程の羞恥心が残る。

「妙なお説教するつもりなら勘弁してよね。むしろ怒りたいのはこっちなんだから!」
「へぇ。それは何故?」
「邪魔されたからに決まってるでじゃない!同意の上でのホテルなのに、どういうつもり?」

くわっと目と口をこれでもかと見開かせ、アーサーがこちらを見てないのを良いことに鋭く指を突きつける。と、狙ったように彼は身を翻した。やっぱり真正面から向き合った方が後姿より何倍も怖い。伸びたばかりの人差し指があっさり丸まる。

「助けようなんて考えていたのなら、とんだおせっかい男ね」
「何を言っているのか、僕にはよく分からないな」

ピシャリ、一刀両断されて「へ?」と拍子抜けする。置いてけぼりを食らう名前を尻目にアーサーはスラックスのポケットからとあるアイテムを取り出した。先ほどの名刺ではないが、似たようなカラーにサイズ感。あれはもしかすると彼女の学生証ではないだろうか。

「それ...」
「忘れ物だよ。こういう大事なものは、鞄の外口ではなく内側にしまっておくといい」

差し出されるがままに受け取る。間違いなく彼女の落し物だ。マシュの家を出る際にどこかへ引っ掛けるなりして落としてしまったのか。確かにあの時は時間に追われていたから、小さなカードケース一つ失くしたくらいでは気づかなかったかもしれない。

「こんなところまで、届けに来たの?」
「ないと困るだろう」
「…わざわざ追いかけなくたって、空いてる日に取りに行ったのに」
「素直にお礼が言えるのも、立派な淑女へなるための近道だよ」

知るか。
と一蹴しそうになって思い留まる。軽やかな調子ではあるが、彼だって暇ではないだろう。予定していた夕食会を抜け出して、ここまで来たというのか。近くもないが遠くもない距離、電車の乗り継ぎだって必要だったはずだ。もしかしたらタクシーなり別の足を使ったのかもしれないが、名前のためにせよアーサー自身の理念に基づいた行動にせよ、届けてくれた事実に変わりはない。

「あ、...りがと」

本当に小さくではあったが、彼女の感謝はしかとアーサーの耳に届いた。ここで初めて、優しげな笑顔から頷いた彼に、名前の押しつぶされそうになっていた圧迫感が次第に雪溶けていく。緩みそうになる頬を抑えながら学生証を鞄にしまった。

「(金ヅルに逃げられたから、これでおあいこね)」

恐らく今夜のサラリーマンとは二度と連絡を取り合うことはないだろう。それどころかあの男はなんだと後で怒りのメッセージが届くやもしれない。お駄賃なし。せっかく整えた化粧や髪が無駄骨となってしまったし、また新しい相手を探さなければならない。けれど次はもっと金回りの良い相手と巡り会えばいい。それだけの話だ。名前は全く懲りていなかった。



「色々と聞きたいことはあるけれど。...久しぶりだね、元気そうでよかった」

名前の様子を気にしながら、アーサーがタイミングを見計らって切り出す。次の相手とのセッティングを考えていた名前は唐突な挨拶に目が点と化してしまった。

「ひさ...え、なんて?」
「あの日の朝は一緒にいてあげられなくてごめんよ。早朝から用事が入ってしまい、やむなくギャラハッドにお願いすることにしたんだ」

彼は名前の不意をつくのに長けているようで、本日何度目かになる衝撃の海に叩き落としてくるのは流石というか。

「あの日の朝って言った?」
「言ったね」
「......。ちょっと身に覚えがないかな〜」
「おや、名前は僕のことを忘れてしまったのかい?」

目玉をひん剥いて名前は音もなく絶叫した。

「な、なまっ。なまえッ」

一歩のけ反れば、合わせて向こうも長い足を詰める。マシュの家では名字しか名乗らないように細心の注意を払っていたはずだ。当然のように名前を名前と呼ぶアーサーはどうして彼女がこんなに驚いているのか分かっていない。

「なんで私のこと知ってるの!」
「すまない。質問の意味が分からないのだが」
「変装してたでしょうが!」
「あぁ」

合点がいったのか、質問の意味を考えあぐねていたアーサーが弾かれたように目を見開く。完全にショックを受けている名前に爽やかな笑顔を寄越した。

「初めて会った時と随分様変わりしていたから驚かされたよ。初対面のフリをして欲しいようだったから合わせてみたのだけれど、上手くいったかい?」
「……は、はは」

口の端を痙攣させながら名前は愕然と心の中で膝をつく。つまり、何の意味もなかったということだ。いや、マシュやランスロットの前で面倒な事情を離す必要がなくなったのは良かったが、肝心の名前の正体を誤魔化す目的が失敗していたのでは無駄な努力に等しい。アーサーは会った瞬間に彼女を名前と認識した上で、空気を読んでくれた訳だが。

「(余計に惨めだわ...)」

直訳すると恥ずかしい。一人演技を続ける名前はアーサーからしてもさぞ滑稽だったろう。そもそもあの家で再会した時に、本当に正常な判断力を持っていれば彼の目を誤魔化す事などできない、と分かっていたはずだ。苦虫を噛みつぶしたように苦悶する名前に彼は珍しく焦りの色を見せた。

「えっ、と。どうやら対応を間違えてしまったようだね。マシュはともかくランスロットには僕達の事情を話しておくべきだったか」
「絶対やめて」

そんなところで天然を発揮するな。無自覚と分かっていてもアーサーに厳しい視線を送らずにはいられない。彼は名前が先日の件を屈辱と感じて根にもっているのを知らないのだろうか。知っているなら彼女の恥を広めようとする発言はしないはずだ。何もかもが名前の思惑の斜め上をいく。アーサーという難敵を前に彼女はどうしても攻略法を見つけられないでいた。

「......。」
「な、何よ」

真正面から睨みつけられていながら、名前の敵意にも気分を害した様子はなく、それどころか顎に手を当てて彼女の顔を観察してくる。瞳に力が宿っているとしたらアーサーは間違いなく最上に位置するのだろう。とうに見慣れたと思っていたはずの双眸に射抜かれた結果、名前の声はわずかに上擦っていた。

「いや...化粧の度合いで印象も大分変わるんだな、と思って」
「お好みならもっと派手な姿もあるけど」
「見てみたい気もあるが、また別の機会にお願いするよ」
「嫌味だっての!」

アーサーのペースに巻き込まれて、どうしてか名前がフラれたような構図になってしまう。「違うよ」と穏やかに否定されなければ、きっとからかわれていると信じたまま今度は名前が彼の胸ぐらを掴んでいたかもしれない。

「もっと薄くしよう。その方がいい」
「なーんで、あんた好みの顔にならないといけないわけ。恋人でもない女のメイクに口出すなんて図々しいんじゃない?」
「その厚い化粧は君の魅力を引き出せていない」

何様のつもりなのだろう。人の容姿にケチをつけるのは勝手だが、矯正しろと言われる筋合い無い、それこそ彼女の勝手である。名前は全く取り合わず、どう考えても横暴な発言に初めてアーサーへ小さな嫌悪感を覚えた。

「使い分けてるのよ」

たまらず反論する。考えなしに声を上げたのは己のスタイルを否定されたのが気に食わなかったから。はっきりした理由もなければただ自分の好みにして欲しいがために、この口のなんと我儘なことか。アーサーが彼女のためを思っての助言など考えられるはずもない。

「あの人の、...あんたが追い払ってくれちゃった彼の好みだから。分かった風な口を聞かないで」
「ではカジノでの君の着飾りようは自分を大人に見せるためで、いいのかな?」
「...だから、そういう言い方をするなって、」
「"そういう"、とはどういう?言ってくれなければ分からない」

ギリ、と奥歯を噛みしめる。言葉遊びのつもりか、名前の口からボロを引き出してお得意の正論を返す魂胆ならこれ以上付き合ってはいられない。肩にかけた鞄の持ち手へ無意識に爪が食い込んでいく。

「約束しただろう」

いつかの夜のことを言っているのは明白だったが、こんな場面でたかが口約束を持ち出されるのが許せなくて名前は知らんぷりを決め込む。

「もう悪事を働かないと、誓ってくれた」
「......わす、」
「忘れたとは言わせない」

名前に二の句を告げさせない姿勢は、今度こそ本当に怒っている、彼女に思い知らせるには十分だった。だからあんな意地悪な言い方をしたのか、名前はあるはずもない緊張感に襲われて、怪しくなっていく雲行きに背筋に緊張が走る。

「あんたが無理やり言わせたようなものよ」
「だが君は頷いた」
「違う。無効よ、あんなの本心じゃない」
「簡単に嘘をつくのはよすんだ。その報いはいずれ必ず君に帰ってくる。先程も思い知ったろうに」
「あれは挑発したから!」
「かもしれない。けれど、君は彼があそこまで激昂を露わにする男だと知っていたか?」
「それは...ッ」

月に数回、約束してはお小遣いをもらうそんな逢瀬をもう数え切れないほどに重ねてきた。ありとあらゆる負債は全て向こうが負担し、何となく気に入らなかったらおねだりしてさらに欲張ることもあった。どんな理不尽な要求にも笑って「仕方ないな、今回だけだよ」と甘やかすことはあれど断ったり怒ったりなど、少なくとも彼女の嫌がる行為は一切してこなかった。

「今日ではかった、それだけだ」

彼女の思考を容易に見越してかアーサーは冷たく言い放つ。

「いつか何をきっかけに琴線へ触れるか分からない。もしかしたらあの怒りを向けられるのは僕ではなく君だったかもしれない」
「私は自分からそんなヘマしない」
「君がそう思っていても、彼も同じとは限らないだろう」

ようやく、だろうか。ここまできて名前はやっと彼が何を言いたいのか理解しつつあった。
 名前は若い男とあまり関係を持たない。金銭を得るために人間関係を形成していけば金のなる木は自然と人生の半分にさしかかろう男たちの周りに生えていた。無論、若くして社会的地位を確立した成功者を見てこなかった訳ではない。けれどそういう男たちは大抵が女を下に見ていて、性行為においても自分中心な連中ばかりだ。
動物学の視点から見た理論もなければ、実験と検証を重ねたデータがあるわけでもない。全て名前のなんとなくの判断。もちろん、人の趣味嗜好はそれぞれで若い男にも受け身な奴はいるし、年老いにも我儘な奴はいる。だから彼女はパートナーを探す上で、一つの方針を基軸にしていた。

「認めるべきだ。君は人を操っているつもりになっている。その行為に悦を見出している」

思い返してみればそうだ、彼女の周りにいたのは初めから自分の言うこと為すこと全てに従う男たちだった。理不尽な命令や大胆なおねだりに狼狽えつつも最終的には許してくれる、とびっきり優しくて最高に幸せな名前だけの園。愛されているのは当然、都合の良い存在は見つけるだけであとが楽になる。この顔と体を差し出していればばみんな喜んだ、嬉しそうに名前に支配されていた。
 そんな楽園を飛び越えてまで手に入れたいと思ったのが、あの夜のアーサーだったのか。

「その体と顔で、男を支配しているつもりか。僕にはいいように使われているようにしか思えないが」
「…うるさい」

用意していた反論があった。アーサーの言いたいことが分かってきて、それでも認めるわけにはいかなくて、名前がしている事には正当性があるのだと、立派な主張をかざすつもりだった。
 しかし、彼が言い切ったあとに口から出てきたのはただの感情でそれでこの男が納得するはずはないと分かっているのに、抑えることが出来なかった。こんなことではアーサーの言い分に同意しているようなものだ。

「名前」
「...好き放題言ってくれちゃって。スッキリした?」

絞り出た精一杯の皮肉も、アーサーは険しい顔のまま避けて相手にしない。改心の言葉が出るまで何時間もここにいそうだ。

「言い分はわかった。悔しいけどその通りかもね」
「なら、」
「それで、私にどう答えてほしいの?」

わずかな時間であったがアーサーは初めて押し黙った。瞳を彷徨わせながら、困惑している。

「体を売らないと誓います。これで満足?言っとくけど約束を破ったこと後悔なんてしてないから」

今の誓いだって簡単に破る。そう公言しているようなものだ。己の本質を見抜かれた名前であったが、だからといってしょげてごめんなさいと泣きだすほど可愛い性格はしていない。アーサーの言葉は響くものがあったが、それだけだ。名前の生き方はこれから先、美と若さ、二つの力が消滅するまで変わらない。

「体を安売りするなと言うのなら、今度は高く売ってやりましょう。探せば買い手の一人はいるだろうし」
「そういうことじゃない」
「でも、まさか体を売るのをやめろ、なんてあんたが言わないわよね」

アーサーが彼女にしたことはこの日本において許されない行為だ。けしかけたのは名前でも結果論では大人の彼に罪が下る。もちろん、公に晒せば彼女が体を売っている事実も明るみになってしまうのでそんなことはしないが。

「どうしてそうなるんだ」
「何が?言ってくれなきゃわかんない」
「…君の、心と体はちぐはぐだ。痛いと分かっている行為を何故許せる」

アーサーの、その台詞は自分との行為が気持ちよかったことを前提とした言い分だ。本人は自覚していないのだろうか、だとしたら名前は初めて彼の人間臭い自尊心の片隅を見つけられたような気がした。この男、涼しい顔して結構な自信に満ちている。

「自惚れないでよね」

驚くほどすんなり言葉が出てきた。アーサーは気づいていないだろうが名前は内心安堵しているくらいだ。間違ったことと分かっていても自分の軸は曲がらないのだと。

「ぜんっぜん、これっぽっちも!気持ちよくなかったし、ド下手くそ!」
「中々の声を上げていたと記憶しているが」
「それはあんたの妄想よ」

そうだ、思い込んでしまえばいいのだ。アーサーがなんと言おうと認めなければいい。そう易々と生き方なんて変えられない。すっかり調子を取り戻して名前は自分の頬に意地悪い笑みが乗せた。

「君という子は、まった、く…?」

やれ相手をしきれなくなったか額に手を当てたアーサーが小さなため息をもらす。その語尾に疑問符がついてるのだけが不思議であったが、名前もまたすぐに理由を理解する。

「げ、嘘でしょ」
「やっぱり、降ってきたね」

ポタリ、脳天を突き抜ける冷気と液体の感触に背筋が震える。なかなかの大粒と認識したら最後、続く第二撃、三撃が次々と名前とアーサーの体を濡らしていく。降り始めから本降りになるまで数分の間もなかった。路地には雨避けになるような都合のいい軒下は存在せず、予報通りの豪雨に名前は悲鳴をあげる。

「ぎゃあ!?ちょっと、最悪なんだけど...!」
「ッ、風も強くなってきたな…。名前、傘は?」

首を振る。それも本来であれば昼間に買っておく予定だった。

「生憎と僕も持っていないんだ。名前、」
「何回も呼ばなくったって聞こえてる!」

路地の隅に身を寄せ合って、強くなっていくばかりの雨と風に名前はここまでの酷さを予期していなかったのか、目を閉じたまま眉間に険しい皺を寄せていた。アーサーはラブホテルの看板へ一度視線を向けてから、次に雨に耐える彼女の肩を抱く。

「君の家はここから近いのかい?」

水も滴る良い男と称するにはやや雨風の勢いが強すぎる環境に立たされて、アーサーはすぐさま自身のジャケットを脱ぐと鞄を抱えて丸くなっている名前の頭ごと覆うようにしてかけた。一方の当人はすでにぐっしょり全身を濡らしている最中、ふいに鼻をつく嗅ぎなれない、けれど決して嫌ではない香りにハッと思考を振り払う。

「(まさか、いい香りなんて思ってないから!)」
「名前?」
「あ、あぁ…家ね。すぐそこ、あの角を曲がって、信号を渡ればッ」
「分かった、行こう。僕の手に掴まって」

自身の手に細い指先をしっかり絡ませて、とうに冷えきっている体を抱き寄せながらアーサーに頼りきりになってしまっている名前の案内に従う。周囲の景色が曇るほどの豪雨の中、二人の後ろ姿が路地の角を曲がって街灯の向こうへと消えていった。




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