13
『それなら今夜付き合え。壁外に出る前にした“終止符を打つ”って話をするぞ。至って冷静にな』
さっきのリヴァイさんの言葉を頭の中でぐるぐると反芻させると、心が落ち着かずますます作業が捗らなくなった。
すっかり日は落ちているのに、今日の目標が達成されてなくて、余計に焦りを感じていた。
今思えばあの状況で冷静になることの方が私にとっては難しく、思考が正常には働いていなかったと思う。
その証拠に、壁外調査に出発する前の日に預かった書類をきちんと目を通してあったのにも関わらず、さっき渡すのを忘れてしまっていた。
それに今夜のことだってそう。
何時にどこでお会いするのか全然わかっていない。
自分らしくないとも思うし、でもそんな浮ついた自分も認めてあげたかったし、でもでも落ち着かないし、とにかく気分は複雑だった。
よし、と独りごちてカウンターに広げた書類を掻き集め、トントンと1つにまとめる。
だんだん八方塞がりになってきたのがわかったから、私は作業を諦めることにした。
こういう日があっても仕方がないと心に言い聞かせながら。
資料室の戸締りを確認し、さっき渡しそびれたリヴァイさんの書類を手にして、部屋を後にした。
道すがら、どんな顔をして会いに行けばいいのか、とか、あんなことがあったのに再び自分からリヴァイさんの元へ行くことを揶揄われるんじゃないか、とか、淡い期待だったりとか、いろいろなことを頭の中で巡らせる。
ここまで来たら引き返せないのはわかっていたけれど、とにかくリヴァイさんの反応がどんなものになるのか少し不安になり、自然と足取りが重くなっていった。
冷静に。
冷静に。
呪文のように心の中でその言葉を繰り返していたら、あっという間にリヴァイさんの執務室に着いてしまった。
「…リヴァイ兵長、答えてください」
ノックをしようと扉の前に立つと中から、聞き慣れない女の人の声が響いた。
執務が立て込んでると思った私は、出直そうかと決めた時に思いもよらない言葉が中から聞こえたから、身体が固まり動けなくなってしまった。
「あの資料室の女のせいですか?兵長」
「ダリアはそんなんじゃねぇ。…そんなにヤりてぇならこれ以上喚くな」
嘘…。
「黙って足広げろ」
嫌…。
やめて…。
ガタンと部屋の中から音が静かに響く。
この場から立ち去りたいのに身体が動かず立ち竦んでしまった私。
それでも辛うじて、持っていた書類は落とさずにいた。
「ダリアー!」
何というタイミングなんだろう。
ちょっと離れた廊下から私の名前を呼ぶ大きな声。
…ハンジだった。
「こんなところで何やってるんだい?リヴァイは?」
何も答えられずにいる私を不審に思うことなく、開けるよーと呑気な声で扉を押したハンジ。
そこに広がる光景なんて見たくなかった私は、目を伏せるだけでは事足らず、下を向いた。
「リヴァイいるんだろ?…ってもしかしてお邪魔だった?」
扉が開かれた後少し間を開けて先に出て来たのは、若い女性兵士。
少し乱れている彼女の上着が、その密室で起こっていた何かを物語っていた。
彼女と目が合うと明らかに敵意が浮き出た視線を送られる。
「見られちゃいました?リヴァイ兵長とはこういう関係なので」
あなただけのものじゃないの、と最後に捨て台詞を私に投げてその場を去って行った。
何あれ、と面食らった顔をしているハンジは、私を心配そうに上から見下ろしている。
私は何も言えなかった。
確かに彼女のいうとおりだから。
これまでのリヴァイさんと築いた関係ががらがらと音を立てて崩れていく。
それでも私は冷静に、冷静に、と心の中で唱え続けた。
「…ノックくらいできねぇのか、ハンジ」
「悪かったよ。そんなことよりリヴァイ…」
ちらりとハンジが私に視線を向けたことがわかった。
「ダリア……言い訳するつもりはねぇ。だが嘘吐くつもりもねぇ。話はさせろ」
目の前のリヴァイさんは何事もなかったかのように、私に語り掛ける。
きっとリヴァイさんの言い分があるのだろう。
頭ではわかっている。
それでも私の心は…
「書類をお持ちしただけですので、兵士長殿」
何も聞きたくなかった。
これまでふわふわとしていたものは、まやかしだったのだ。
兵士長の気まぐれに付き合っていただけ。
私はただの資料室の女。
ただそれだけ。
書類を差し出すと、それが思い切り兵士長の手によって振り払われた。
ばさりと床に散らばる書類たち。
まるで自分の心がばらばらになっていく様を見ているようだった。
「ふざけるな。何が“兵士長殿”だ。こっち見ろ、ダリア」
「ちょ、リヴァイ!」
慌てるハンジとは対照的に、私はしっかり兵士長の目を見据えてる。
冷静に。
冷静に。
私の表情、態度が気に食わなかったのだろう。
兵士長は私の手首を掴んで、部屋に入るよう力を働かせた。
冷静に。
冷静に…。
「…離してください、兵士長殿」
あの時捕まった手首の熱が嫌でも蘇るけれど、心に熱情は戻らなかった。
そのことが悲しくて悲しくて、我慢していた涙が一筋流れた。
「…触らないで…ください…」
「行こう、ダリア」
私と兵士長のただならぬ様子でほとんどのことを察し、泣いている私を見兼ねたハンジが空いている片方の手首を掴み、兵士長の力よりも強く引っ張ることで、ひとつ歩み出た。
涙で前が見えないけれど、ハンジの誘導のおかげで私も足を踏み出すことができた。
「ふざけんな、ハンジ。てめぇは引っ込んでろ」
あとはリヴァイ兵士長に掴まれている手首を振り解くだけ。
「だってよ、ダリア。どうする?」
ありがとう、ハンジ。
「連れて行って…お願い、ハンジ…」
私の一言でハンジは手首を離す代わりに肩に腕を回し、思い切り力を込めて大きな一歩を踏み出し、そのまま肩を抱いたまま通路を進んだ。
兵士長の手は力なく私から離れた。
振り返ることはしなかったけれど、後ろの方で壁に拳を打ちつける音がひとつ虚しく響いた。
あなたの顔はもう見たくありません、兵士長殿。
ハンジは何も言わず、私はただ涙して、通路を並んで歩いたのだった。
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