一年程前のある日、私は買い物のため江戸の町を歩いていた。
「誰か!ひったくりー!」
叫び声の方を見ると、サングラスと帽子にマスクと明らかに怪しい男がこちらに走ってくるのが見えた。
その後ろには座り込んでいるお婆さん。
「ひ、ひったくり!?」
危ないとか恐いって気持ちより、何とかしなくてはという感情だけで体が動いていた。
私を追い抜く瞬間、足を男の方に向けて出す。
見事に転ぶ男。
その隙に男が握り締めている鞄を取り返そうと手を伸ばし、上品な花柄の鞄を引っ張るが、相手も手を緩めない。
しばらく男と鞄を引っ張りあったが、所詮女の力。
男が鞄を振り回す力に引っ張られ、その勢いで地面に尻餅をついて手を離してしまった。
慌てて男の方を見ると、自由になった鞄を抱えて走り去ろうとしていた。
「待って!」
慌てて立ち上がって追いかけようとした時、男の前に立ちはだかる人物が現れた。
「真選…組…?」
その姿には見覚えがあった。
武装警察真選組。
その真選組の男は、ひったくり犯に向けて刀を構まえていた。
「あ…うぅ…」
「観念するんだな。」
刀の切っ先を目の前で見たひったくり犯は、がっくりと膝を付いた。
先程まで決して離さなかった鞄をポトリと足元に落として。
「トシ!悪いがコイツを頼む。」
真選組の男はトシと呼んだ男にひったくり犯を任せて私の方に近づいて来た。
「大丈夫ですか?」
ぽかんと事の成り行きを見ていた私に、真選組の男は手を伸ばしてきた。
私は、遠慮なくその手を掴み立ち上がった。
「はい、ありがとうございます。」
「よかった。」
そう言って男はニカッと笑ったかと思うと、その後、真剣な顔をして話を続けた。
「犯人の確保にご協力ありがとうございます。でも、女の子が男と争うなんて危ないですよ。もし、犯人が武器を持っていたら…」
別に誉めてもらおうと思っての行動ではないが、急にゴリラ男に説教されるのは腑に落ちなかった。
苛立ちをそのまま顔に浮かべて、まだ説教を続けようとするゴリラ男を無視して歩き出そうと踵を返した時。
「あ。」
パキンと小さな音に振り向いて、音がした地面を見ると、先程まで髪に刺していた簪が落ちてぱっきりと二つに割れてしまっていたのだ。
赤と白が混じりあった綺麗なトンボ玉が気に入り、最近購入したばかりのものだ。
別段思い入れがあるものではなかったが、せっかく買った簪が割れてしまった事、理不尽に説教された事、実はひったくり犯ともみ合っていたのが恐かった事、ぐるぐると感情が混ざりポロポロと涙がこぼれた。
「え、あ、ちょっええェェェ!?」
それを見たゴリラ男は急におろおろとしだした。
恥ずかしい。
簪が折れたくらいの事で泣いているなんてバカじゃないのかと思われただろう。
折れた簪を拾おうとした時、私より先にゴリラ男が素早く簪を拾い上げた。
驚いてそちらを見上げると、慌てた様子の彼が、私の簪を大事そうに握っていた。
「ちょっと待ってて!」
そうゴリラ男は叫んで、私の折れた簪を持って走って行ってしまった。
一体何が起きたかわからず、ぽかんとしながら男が走って消えた道を見ていた。
待っててと言われて律儀に待つ自分を滑稽だと思いながらも、ゴリラ男が走り去った道を見据えていた。
あれから数分程経ったくらいだろうか。男が再び走って戻ってくるのが見えた。
「はぁ…はぁ…すみません、お待たせしました。…これ。」
息を切らしながら、私に渡してきたもの。
それは手のひらより少し大きめの包みだった。
男の顔を見上げると、私と手元の包みを交互に見ていた。
促されるように包みを開くと、赤地に白い花柄が描かれたトンボ玉に小さな蝶のモチーフが揺れる簪だった。
「え、これ……」
「すいません、割れたのと同じの探したんですけど無くて…似た感じで良さそうなの買ってきたんですけど。」
簪が割れたのはゴリラ男のせいでもないのに、わざわざ走って買いに行ってくれたのか。
「そんな、受け取れません!」
「え、やっぱり気に入りませんでしたか!?」
「そんなことないです!…素敵です…。」
「よかった。」
ほっとしたような笑顔を浮かべるゴリラ男を見ると、簪を返すのは悪いような気がした。
それと同時に胸の奥がむずむずする。
「あ、ちょっと待って。」
「え?」
ゴリラ男は自分のズボンのポケットをごそごそと漁り、くしゃくしゃのハンカチを取り出した。
「左手、怪我してます。」
言われて初めて気づいたが、左手の甲を軽く擦りむいていて、薄く血が滲んでいた。
ゴリラ男は私の左手をとり、くしゃくしゃだったハンカチを懸命に伸ばしながら、傷口にハンカチを巻いてくれた。
「こんな…汚れちゃいます!」
「あ、いや、大丈夫!ちょっとくしゃくしゃだけどちゃんと洗濯してるから!そんなに汚なくないからね!」
「そういう意味じゃ…」
「近藤さーん!何してんだ?行くぞ。」
「ああ、すまん、トシ!今行く!」
慌てる私の言葉を遮り、男を呼ぶ声へと返事をした。
じゃあ。と隊士達の元へ去って行こうとするゴリラ男に向け、簪を握り締めながら慌てて大声をかけた。
「ありがとうございます!大切にします!」
ゴリラ男は振り返って笑った。
それが、むずむずがときめきに変わった瞬間だった。
あのゴリラ男は女に簪を送る意味など何も考えていないだろうなぁと去って行く背中を見送りながら簪を握り締めた。
← →
お見合いトップ
小説トップ
トップページ