別に喧嘩というわけではないが、ゾラはななしと朝から口をきいていなかった。
起きぬけに見た顔が、不機嫌だったからだ。
特に何をやったわけでもない。心当たりが全くないため、てっきりななしの虫の居所が悪いだけだと思っていた。
しかし、そう思っていたのはゾラだけだったらしい。
ななしがゾラに苛立っているのは、昼食時運んできた食事が、昨日の残飯だったことから明白だ。
一人で腹を立てている分には構わなかったが、こちらに実害があるとすれば話は別だ。
「朝から何腹立ててるんだ」
「なにも」
「じゃあこれはなんだ。まるで犬の餌じゃないか」
ちら、とゾラの皿を一瞥しただけで、ななしはもくもくと食事を続ける。
ななしの食べているものは普段と変わらないものの、目の前にある残飯と比べると、とても豪勢に見えた。
これはいよいよもって食べなければいけないのか、と覚悟を決めたとき、ななしが信じられないことを口走った。
「……浮気したでしょ」
何を言ったか最初はわからなかったが、理解したとき背筋に嫌なものが走った。一気に汗が吹き出し、目が泳ぐ。
ななしはその様子を見て疑惑から確信へと変わったのか、目をぎらりと光らせる。まるで獲物を見つけたヘビ。
ゾラは今、カエルの気持ちだ。
「だ、誰から聞いた」
実は、ゾラに思い当たる節は何もなかった。だがこの流れる冷や汗は、泳ぐ目は、嫌な予感は。
手に持ったフォークは握りしめたままだ。
何か思い出せそうだ。それは昨日の夜、ななしがどこに出かけていたかが関わっている気がする。
「エルザよ」
ゾラは途端に思い出した。あいつは知っている。と。
そう。ななしは昨日の夜、ルリ城に行っていた。
昔のよしみでエルザとも仲が良く、エルザからの繋がりでカナンとも仲良くやっていた。最近の話だ。
エルザからは例の貴婦人から航海日誌を返されたことがある。貴婦人と少し話したのか、ことの顛末まで知っていた様子だった。
それを話したに違いない、と絶望する。
「う、う、浮気って、随分前のことじゃないか」
「認めるのね?」
「……やめてくれ、墓穴を掘りそうだ」
「掘ればいいじゃない。埋めてあげるわ」
ななしの発言にびくり、と肩が震える。恐怖か、驚きか。おそらくどちらもだろう。
人間不思議なもので、ピンチに陥ると変な笑いが起こる。
ななしはそんなゾラの引きつった笑顔が気になるらしく、青筋を立てる。
「私はね、浮気にも怒ってるけど、それよりも腹の立つことがあるのよ」
「な、なんだい?」
神経を逆なでしないようにゾラはおだやかに聞く。
しかし、それとは裏腹にななしは持っていたフォークとナイフを握りした。そして、目一杯振りかぶり……。
「ゾラの航海日誌を人にあげちゃうような女を口説いていた、あんたの見る目のなさよ!」
どん、とテーブルに拳ごと叩きつける。
ゾラは、刺される、と思ったので身構えていたが、ひとまず一命をとりとめたことに安堵し、胸を撫で下ろす。
ななしは興奮しており、肩で息をしている。手は握りしめすぎて白くなっているが、顔は熱い。きっと真っ赤だろう。
ふと、自分の姿を客観視してしまい、怒っていることが馬鹿らしくなった。というより、みじめになったのだ。
こんなに怒っても、きっとゾラに言いたいことの半分も伝わっていないだろう。
そう思うと全身の力が抜け、こうやって向かい合い一方的な怒りをぶつけることに、意味を見出せなくなった。
ななしはそのまま座ってる椅子に反対向きに座り直し、背もたれに腕と顎を乗せた。
ふう、とため息をついたななしに、ゾラは首を傾げる。
「……私なら、人にあげたりしないわ」
今はいらないけど、と続けたななしに、ゾラは目を見開いた。
かなり分かりづらかったが、ななしなりのフォローだったのだろうか。
戦意喪失したななしを見てどうしようか迷っていると、ななしは少し怒りが残っているのか、やや強めの口調で言った。
「ゾラが私から離れるときにちょうだいよ。貴婦人にはそうしたんでしょ」
やきもちか、と思った。貴婦人にしたことを、自分にはしてくれないということも不満の一つらしい。
「……それじゃあ一生渡せないだろう」
さらりと言うと、ななしはかすかに口の端をあげた。
嬉しいのが悔しいのか、口は笑っているが眉は寄ったままだ。
ななしはすくりと立ち上がり、ゾラの目の前にある残飯を持って台所へ向かった。きっと作り直してくれるのだろう。
表情は見えなかったが、台所から聞こえる鼻歌は、ご機嫌なそれだった。
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