喧嘩、だったのだろうか。あれは。
今にも泣き出しそうな顔をして、話も聞かず約束をすっぽかした婚約者。
背を向けて帰る背中が、ひどく小さく見えたことばかり気になる。
しかし、彼女の背中を小さく見せてしまったのは自分だ。
彼女の父親から苦情が入らなかったのは不幸中の幸いだった。きっと、ななしはタシャに何も言わず、破談にするということはないだろう。
しかし、それと同時にこの喧嘩が長期戦になることも示唆していた。
自分のせいであんな顔をさせた。ななしが自分のことを「好き」だと知らなかったから。
ななしの泣きそうな顔を思い出すたび、自責の念に駆られる。
「知らなかった」ことがきっかけで怒り、一人で帰ったというところまでは分かった。だが、どうしてそれで怒るのか分からない。
ゆえに、謝ることもできずにいた。
(根本的なことが分かっていなければ、どう謝ればいいか分からん)
タシャはどうすることもできず、自室を右往左往していた。このままだと破談してしまうし、何よりななしを傷つけたままではいけない。
ふと、今までの逢引を思い出した。逢引と言うにも幼稚な、本当にただの顔合わせのことが多かったが。
最初の逢引は高めのレストランだった。自分から誘ったのだ。女性に慣れているわけではないが、扱い方は心得ているつもりだった。
しかし、ななしの方は終始口を一文字にしているし、タシャも気の利いたことを言えずほとんどだんまりであった。
食事をしながら盗み見したななしは、あまり食が進んでいるようには見えなかった。
「気に入らなかったのだろうか」と思ったが、それを口に出すことはなかった。
帰り道、ななしの発した「あまり、あそこは好きではないかも」という言葉に、納得しつつ「覚えておこう」と返した記憶しかない。
2回目の逢引はななしからだった。レストランのこともあったし、と、気乗りしないまま家を出たのを覚えている。
待ち合わせ場所にいたななしに声をかけると、開口一番「この間はごめんなさい」と謝らた。
なんのことかさっぱりだったが、どうやら「好きではない」と言ったことを後悔していたらしい。
「せっかく連れてってもらったのに、不躾な言い分でした」
「いや、私も確認せず連れて行ってしまったからな。気にするな」
ホッとした表情を見せたあと、ななしはにこりと笑ったのを覚えている。
その表情が、かわいらしかった。
他愛ないことをぽつりぽつりと話しただけだったが、ななしが徐々に笑顔を見せてくれたことが嬉しかった。
橋の上での出来事を思い出すと、無性にななしに会いたくなった。同時に、このままじゃいけないという思いも膨らむ。
しかし謝り方を思いつかないタシャは、いきなりななしの家を訪ねる勇気まではなかった。
そこで、あの日の橋に行って落ち着こうという考えに至り、部屋を出た。
***
橋の上には、ななしがいた。ずっと川を、遠くまで続く川を見つめている。
声をかけるか逡巡したが、ぐっと拳を作り、緊張を悟られないよう声をかけた。
「ななし」
名前を呼ぶと、ななしははっとしてたじろぐ。
逃げる、と瞬時に思ったが、ななしの表情はすぐに落ち着き、また遠くへ視線を戻した。
この間のように逃げないと分かったタシャは、謝り方も思いつかないまま、隣へ立った。
お互い、何も言わないままいたずらに時間が過ぎていく。
タシャはもどかしかった。隣にななしがいるのに、上手く謝れる自信がないのだ。
「私がタシャを好きだってこと、」
ななしは視線を遠くに投げ出したまま、唐突に小さな声で話し出す。
ななしの静かな声に驚き、ぴくりと指先が動いた。顔を見るのが怖くて、タシャも遠くを見つめたまま声を聞いた。
「知らなかったの、仕方がないと思う」
「……いや、」
「タシャが私のことをなんとも思ってないのは、知ってたけど」
タシャは、頭を殴られたような衝撃を受けた。確かに妻として迎え入れる覚悟も、認識も足りなかった。そのことをななしに気付かれていたのだ。
自分のことを真剣に考えてくれていたななしに、とても失礼なことをしていたのだ。
タシャはうなだれ、目をつむった。自分はななしを傷つけることしかしてこなかったのだ。
そして、あの日。ななしを怒らせてしまった。仕方のないことだ、と思う。むしろ、ななしは今までよく自分と付き合ってくれていた。
あからさまに思いつめた様子のタシャを見ても、ななしは淡々と続けた。
「……タシャに好かれようと、いっぱい努力したのよ。それに気付いてもらえてなかったことが、悔しくて」
「……すまない」
その一言しか出てこなかった。怒っていた理由はこれだったのだ。そんなことにも気付けなかった自分が不甲斐ない。
「でもそれが押し付けだったんだな、って気付いた。だから、この間は勝手に帰ってごめんなさい」
「謝るべきなのは私の方だ」
ななしは遠くの川から視線を外し、タシャを見た。タシャは顔を下に向けていて、表情が読めない。
タシャ自身もななしの顔は見えなく、お互い顔も合わせず話し続ける。
ななしは目を細めて、タシャをまぶしそうに見た。
「最初のデートで」
ここに来る前、タシャも考えていたことだった。なんとなくくすぐったく、少しだけ聞くのが嫌だった。気の利かない自分を思い出すからだ。
「帰ってから鏡見てびっくりした。私すごく無表情で。失礼だったな、って思って」
「……」
「そのあと謝ってくれたでしょ。私少しタシャのことが怖かったんだけど、2回目のデートで話したとき、素敵な人かもって思って」
何回かデートしてたら、いつの間にか好きになってた。
タシャは胸がいっぱいになった。素直に嬉しく、同時に驚きもした。そんなに前から、ななしは自分のことを……。
顔を上げななしを見ると、少しだけ笑っていた。
かわいい、と素直に思えた。あのときと同じだ。
「タシャって嘘つけないでしょ。私に対して誠実なのに、好意が全然感じられなかった。でも、そんなところが好きで……」
「ななし、私は」
「父さんに頼んで、破談にしてもらおうかなって思ってる」
今度は驚きを隠せなかった。指先が動く、なんてものではない。勢いよくななしの方に顔を向けた。
ななしの泣きそうな顔は、どんな泣き顔よりも胸がつまる。こっちまで辛くなるのだ。
私は、ななしの笑顔が一番かわいいと、思っているのに。
その一言を言ってしまいたい。
「悪い話じゃ、ないと思うんだけど……私から上手く話すから、タシャは大丈夫だよ。でも……」
「ななし!」
タシャはたまらず、ななしを抱きしめた。言葉を続けようとしたななしの瞳が、揺らいだからだ。
ななしはタシャの背中に腕をまわし、小さく震えた。嗚咽も聞こえる。
抱きしめた身体は小さい。自分の婚約者は、こんなにも小さかった。こんなに小さいのに、必死に私のことを考えてくれていたのだ。
タシャも目頭が熱くなった。自分勝手なことばかりしていたのは、自分だ。ななしのことも考えず苦手意識を持って、作業のようにこなしていたのは……。
「め、迷惑じゃなかったら……タシャのことずっと好きでいたい」
「ななし、泣くな。頼むから……」
「タシャ、私もっとタシャのこと知りたい」
返事はできなかった。力なく自分を抱きしめる腕から、どれだけ自分が愛されているか知った。遅すぎるとも思った。何度も逢引をしていたのに、目を逸らし続けていた。
自分も愛を返したくなって、強く抱きしめる。
するとななしは、腕の中で少しだけ笑った。「あは」と小さく声を上げた。
それは、産声だったのかもしれない。タシャに生まれた、ななしへの。
「私も知りたいんだ、ななしのこと」
「……分かるよ。タシャって、本当に嘘つけないんだね」
身じろぎしながら、苦しいよ、とななしは泣いて笑った。
どうやら、生まれた愛情は腕から伝わってくれたらしい。
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