送り狼
ワイルドエリアの夜は暗い。街灯なんてものは殆どなく、でんきタイプのポケモンが発している仄かな光か、ところどころでキャンプ中のトレーナー達が建てているテントから漏れる明かりだけが朧げに周囲を照らしていた。
そんな中を歩いて街へのゲートまで進むのは、正直言って得策ではない。普段なら私もテントを組み立てて、陽の光が差し込むまでその場で大人しくしていただろう。けれど、今日は状況が悪かったのだ。
手持ちのポケモンを鍛えるため、橋を渡って手強い野生ポケモン達が闊歩するエリアに足を踏み入れたのが間違いだった。丁度目の前にいたカビゴンとバトルになり、予想外の強さに相棒達は次々と倒されていく。どこかで過信していたのかも知れない、私達ならきっと大丈夫だと。だからピッピ人形を投げるタイミングが遅れて、ポケモン達に無用な傷を負わせてしまった。
命からがら何とか逃げ切ったところで、何とか戦える手持ちはあと一匹。カレーを作ってみんなの体力を回復しようにも、先ほどの逃走劇の際にピッピ人形を慌てて取り出したせいで、きのみや食材をその場に落としてきてしまったのだ。ワイルドエリアに落し物が多いのはきっとこういう理由もあるのかなあ、なんて現実逃避の物思いに耽っていても何も始まらない。
このまま全速力でゲートまで走るか、それとも近場の木を揺らしてきのみを回収してから即席でカレーを作るか。でも、揺らした木からポケモンが出てきたらどうしよう?普段ならなんてことはないポケモンが相手でも、今の状況は非常にまずい。最悪、ワイルドエリアで全滅だ───どうしよう、どうしたら良い?
その場にしゃがみ込んだまま、頭の中でぐるぐると策を練っては振り払う。だめ、こんなのじゃだめ、絶対に逃げられない。私の知識で思い付く程度の機転で解決するなら、そもそもワイルドエリアで行方不明者なんて出ないはず。…もしかしたら、私もその内の一人になっちゃうの?いやだ、助けて、誰か、誰か───!!
「よお、こんなところでどうしたんだ?」
突然背後から聞こえた声に、思わずヒッと小さな悲鳴が漏れた。助けを求めていたはずなのに、いざ誰かの声が聞こえると、それはそれで酷く恐怖を煽るものだった。そんな私の気を知ってか知らずか、後ろに佇む人の声はどこか楽しげに「おーい、どうした?」と続けて降ってくる。
───あれ?この声、どこかで…つい最近…?声の主の顔がぼんやりと浮かんでは朧げに消えていく。思わず振り返って確かめようとした瞬間、やけにはっきりとした声で「振り向くな」と告げられた。
「……えっと、あの……」
「ああ、悪い悪い。オレさまだよ。昨日、宝物庫で会っただろ?」
「あ……、キバナさん?」
ようやく思い出した。この声は、ナックルシティのジムリーダー、キバナさんだ。ダンデさんに言われた通りに宝物庫に向かった時に、対応してくれたあの大きな男の人。
すぐに人当たりのいい彼の笑顔が頭に浮かんで、思わずホッと息を吐いた。知っている人で良かった…でも、どうして振り返ってはいけないのだろう。疑問は残っていても、何となく指示に従った方が良い気がして、私は前を見据えたまま立ち上がった。
「で、改めて聞くけどこんなところで何してるんだ?」
「…あ、あの、お恥ずかしい話なんですが…───」
聞かれるまま自分の失態を話すと、キバナさんは時折ふんふんと相槌を打ってから最後に納得したようになるほど、と言って。それからもう無茶はしないようにと優しく諭されてから、ゲートまで送ってやるよ、と提案してくれた。
キバナさんのように強い味方がいてくれるのは何よりも心強いけれど、素直に甘えて良いのだろうか?少し迷いはしたものの、一刻も早くポケモンセンターに行きたいのも事実なので、一言感謝の言葉を告げてから私はゲートまでの道を歩み始めた。
足元に気を付けながら進む間、キバナさんは付かず離れずの距離を保ってずっと後ろを歩いている。たまに「そこの草むらにはまだ入るなよ」とか、「その湖は避けて通れ」と私の進む道を指示してくれて、その通りに歩いていくと不思議なことに野生のポケモン達が襲ってくる気配がない。そのまま二人で歩きながら美味しかったカレーのこと、今育成中のポケモン達のことなど他愛もない話を話していると、いつの間にかゲートのすぐ近くまで辿り着いたことに気付いた。
「わあ…!良かった、ここまで来れたらもう一安心です!」
「ああ、でも最後まで気を抜くなよ?転んじまったら一貫の終わりだぜ」
やけに大げさな物言いをするなあ、と思いながらも自然と急く足を止められない。あのゲートを通ればすぐポケモンセンターだ、早くみんなの手当てを頼まないと───そう思うあまり最後の最後で気が緩んだせいか、爪先に何か固いものが当たった瞬間、私はその場でバランスを崩して前のめりに倒れこんでしまった。
咄嗟に地面に手を付いて躓いた原因の正体を見ると、そこには誰かの落し物らしきすごいきずぐすりの箱が転がっている。ワイルドエリアの落し物は見付けた者勝ちだ。こんなところでラッキー、なんて思ってそのままリュックにしまっていると、すぐ耳元で「……何だ、落し物を拾っただけか」とキバナさんの声がした。
足音なんて聞こえていない。いや、その前に彼はこの一瞬でどうやってこれほどまでに距離を詰められたのか。頭で理解するよりも先に、本能的な恐怖から背筋に冷や汗が走る。
「だから言っただろ?最後まで気を抜くなって」
次の瞬間、聞こえた彼の声は先ほどまでと同じ、背後から一歩離れた距離で。いくら察しの悪い私でも、さすがに振り返ってはいけない理由が分かった気がした。正体は分からない、けれど、これは───気付かない方が良い。きっと"そういう類"のものなんだ。
リュックを背負い直してから、深呼吸をして立ち上がる。また一歩進み始めた足取りは、もう軽快さとは程遠い。右足、左足、また右足、と踏み出す足に神経を集中させて、ようやくゲートの階段を一段上がると、先ほどまでの背後の気配がフッと消えた気がした。
「こんなところまで本当にありがとうございました。……キバナさん」
振り返らないまま一言お礼を言って、一段飛ばしで階段を駆け上がっていく。ポケモンセンターに手持ちを預けたら、次に向かう場所はもう決めていた。あの人なら、何か知っていると思うから。
─────────
2番道路を進んでいくと、そこにはマグノリア博士の住まう家がある。事前の連絡もなしに扉を叩いた私を見て、博士は一瞬驚いた顔をしたけれど、ありがたいことに暖かく迎え入れてくれた。
まずは博士が用意してくれたお茶を飲みながら、ポケモン図鑑を埋めるコツや苦労話に花を咲かせて。ひとしきり話を終えた後に、ふと彼女の目が私の心の内を探るように覗き込んできているのがわかる。こんな話をするためにわざわざここまで尋ねてきたわけではないのだと、博士も気付いているのだろう。もう誤魔化す時間は終わりのようだ。私は意を決して、ワイルドエリアで体験した不思議な話をぽつぽつと語り始めた。
声そのものは本当にキバナさんだったこと。けれど、その姿は一度も見ていなかったこと。彼と歩いている間はポケモン達に襲われなかったこと。躓いた瞬間、すぐ傍に彼の気配を感じたこと。……そこで、彼が"気付いてはいけないもの"だと悟ったこと。私の拙い説明では、きっと分かりにくい部分もあっただろう。それでも博士は最後まで黙って聞いてくれて。私が語り終わると静かに息を吐いてから、穏やかな声でこんな話を聞かせてくれた。
遥か昔、この世界にはポケモンという種族の他に、妖怪や物の怪といった類の存在が蔓延っていたそうだ。人に危害を加えるものから、人の生活に役立つ知恵を与えてくれるもの、中には神様のように崇められていたものまでいたらしい。人の文明が発達するにつれてその存在は段々と消えてゆき、今では限られた文献の極一部でしか知ることができない。
そして、私がワイルドエリアで出会ったのは、その妖怪に類する"送り狼"というものかもしれないと。博士はどこか真剣味を帯びた口調で語り続けた。
送り狼というのは、夜中に森や峠を歩く旅人の後ろを付きまとって、振り返ってその正体を見た者や、つまずいて転んだ拍子に背後から襲いかかる恐ろしい妖怪なのだという。ただし、あくまで転んだのだと悟られないように休憩のふりをしたり、足元の石を拾っただけだと誤魔化せば、その場で襲われることはない。それに、落ち着いて声を掛けたり、送ってくれることに感謝の意を表せば、目的地まで安全に送り届けてくれるというありがたい一面もあるのだとか。
「無意識とはいえ、あなたは送り狼の良い一面を上手く引き出したから無事に帰ってこれたのね」
そう締めくくる博士の眼差しを受けても、まだ分からない部分が引っ掛かっていた。
なぜ送り狼はキバナさんの声を真似て私に着いてきたのか。そもそも、そんな存在がいるのだとしたら、なぜ誰も話題にしないのか。そんな疑問を口にすると、マグノリア博士は少し悩んでから小さな声でこう答えた。
「そうねえ…私にも本当のところは分からないけれど、あなたの親しい人達の声を借りたら、咄嗟に振り返ってしまうと思ったから、あえてまだ知り合って間もない人物の声にしたのかもしれませんね。ほら、そんな心細い状況でホップやソニアの声を聞いたら、安心して思わず振り返ってその正体を見てしまうかもしれないでしょう?送り狼はもともと悪いだけの存在ではないようだし、あなたを怖がらせずに無事に送ってあげたかったのかも。…話題にならない理由は…そうですね、暗い夜道。足元には小石や落し物が沢山。あなたも転んでしまったでしょう?……転んでしまった人達が、どうやって話題にできると思う?」
そこまで聞けば、もう十分だった。夜のワイルドエリアを歩く人達がいない理由も、分かった気がした。歩いている人がいないのではないのだ。そうではなく、夜道を歩いていた人達は、きっと───
そこまで考えていたせいか、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。もちろん私の目の前にいる博士が気付かない訳もなく、気を使って「もう一杯いかが?」とお茶を用意してくれる彼女に、黙って頷くことしかできない。お湯を沸かしに行った博士は、きっと私のもう一つの考えには気付いていないのだろう。
送り狼が、敢えて記憶も曖昧な知り合いの声を借りる理由。
それは、薄暗い夜道を共に歩く人物が、本当にその人なのかと───信頼するに値する人物なのか、確認したがる人の心理を利用しているのではないか、という可能性は、本当にないのだろうか。