人魚姫


巨大な|見世物小屋《フリークショー》がガラル地方にやってくる。
街中で囁かれる噂は、その話題でもちきりだった。調教されたポケモン達や、曲芸師達がパフォーマンスを魅せるサーカスとは訳が違う。見世物小屋とはまさに|化け物《フリーク》達の展示会だ。
そんな物騒な連中をガラルに迎え入れるなんて、冗談じゃない。ましてやガラル地方の中心地であるからという建前上の理由のために、その団体が滞在する間はナックルシティで面倒を見る、ときた。
見世物小屋の団員達は、もちろんフリークだ。見た目の歪さに差はあれど、所詮は化け物。そんな彼らを、ホテルに泊められる訳もない。だから、限られた人間しか入ることの許されない宝物庫に閉じ込めるのだ。

俺の反対意見なんて、あってないようなものだった。
そんな連中をどうして呼ぶのか?問いただす俺に、ローズ委員長はまるで子供をあやすように笑いながら
「人というのは残酷な生き物でね。フリークのように歪な生き物を見て初めて、自分は神に愛されていると実感するんだよ。あんな化け物に生まれなくて良かった、神に見放されることがなくて良かった、とね。そうして彼らの信仰心は更に強く、揺るぎないものへと変わっていく。わたくしはガラルに生きる人々を、より深く結束させたいのだよ」
そう語りながら、決して絶やさないその笑顔はどこか薄気味悪いものだった。
この話を聞いた時、ダンデはどんな反応を見せたのだろうか。ガラルの人々に強くなってほしい、という、その願いのために受け入れたのか。
分からない。分からないまま、今日を迎えてしまった。

フリークショーがやってくる。ガラルに安寧をもたらすために。それが、偽りの安寧でないことを願うばかりだった。
「さあ、皆様お立ち会いお立ち会い!フリークショーの時間だよー!」
奇怪なパレードの演奏と共に、巨大なゴンドラの群れがナックルシティの中心へと進行していく。
先頭に立って観客を呼び込む男は、黒い燕尾服に身を包んでシルクハットを被っていた。一見すれば、何の変哲もないただの男。だが、奴のフリークたる|所以《ゆえん》は、恐らくその身長だろうと分かった。
遠目から見ても、俺よりも明らかに頭2つ分以上はある背の高さ。俺ですらこの身の丈で大抵の人間よりは遥かに高い。骨格の異常なのだろうか。なるほど、確かにそれは明らかに人とは違う部分だった。
その大男を筆頭に、ゴンドラの上でパフォーマンスを見せる為に次々とフリーク達が顔を出す。全身を鱗に覆われた女、顔の中心に大きな目が1つしかない子供、腕が4本も生えている男───観客はその一人一人の容姿に息を呑み、思わず目を逸らす人もいた。
そんな人々の中、不意に奥でわあっと歓声が上がる。
ゴンドラの列の一番奥だろうか。一際大きな箱は、全面ガラス張りで、澄んだ藍色の水で満たされている。そしてその中にいるのは───少女、だった。
いや、少女であるのは上半身だけだ。下半身はどこか見覚えのある…ああ、そうだ、ミロカロスだ。
水よりも深い藍色の鱗に覆われた下半身はまさにミロカロスのそれで、ガラスの中を悠々と泳ぎながら時折観客達に微笑みながら手を振っている。
怪異的なフリークたちとは違う、一種の神々しさすら感じさせるその見た目に、観客は魅了されていた。
彼女が身を翻すたびに水に揺蕩う茶色の髪。透き通るような白い肌。
ただただ、美しかった。思わず呼吸も忘れて見入っていたのは、俺も同じだ。彼女が笑うたびに人々は歓声を上げて、絶えずシャッター音が響き渡る。
そんな中で、大男が機嫌良さげに説明を始めた。
「皆様、ご注目あれ!それは古来から海の底に生きる人魚という生き物の末裔だよー!上半分は人でも下半身はミロカロス!どうだい、美しいだろう!」
恐らく、彼女はこのフリークショーの目玉なのだろう。現に、観客の注目のほとんどが彼女の水槽に集中している。団員達もそれを分かっているようで、彼女を引き立てるように個々のパフォーマンスは控えていた。
「ああ、お客さん方、それ以上は近付かないでおくれよ。それは見た目こそ美しいが、水槽に入っているのは腐海の水だ!あまり近付きすぎるとあら大変、水の毒気にやられて体が腐っちまう!」
上機嫌に語る大男の言葉を聞いた途端、水槽に歩み寄っていた観客達は怯えてサッと身を引いていく。そんな人々の気も知らず、彼女は寂しそうに眉を垂らしておいでおいでと手招きを繰り返していた。
あれほど澄んだ水が、そんな恐ろしい毒気を孕んでいるというのか。
その水の中で心地好さそうに泳ぐ彼女の姿が、まさにフリークであるという事実を突き付けていた。

俺の当初の予想に反して、ショーは大盛況のまま終演。散り散りに去っていく観客を見送ってから、ようやく団員達と挨拶も兼ねてナックルシティに滞在する間の宿泊場所の説明に移った。
ホテルを用意できない言い訳用にと、事前にローズ委員長が用意していた説得原稿を使うまでもなく、大男は二つ返事で宝物庫に泊まることを了承。こういう扱いには慣れているから、と笑う男に、返す言葉も見付からなかった。だからこそ、ただ一つ頼みたいことがあると言われた時には俺も迷うことなく受け入れた。
「人魚は水槽ごと別の場所に"保管"しておいてくれ」
人間扱いなどしていないのだ。その言葉一つで悟ってしまった。彼女はこの団体にとって、仲間ですらない、ただの"物"なのだ、と。
彼女の水槽を運ぶ前に、注意されたことは三つ。
食事は生の肉を用意すること。水槽に近付くときは防護服とマスクを着用すること。そして、決して彼女の声を聞こうとしないことだ。
人魚という種族は、大昔本当に存在していたらしい。その魅力的な容姿と歌声を使って、船乗りを水面まで誘い込み、魅惑に酔った男を海に引きずり込んでその血肉を餌にするのだという。
ただ、その人魚を求める船乗りも絶えなかった。人魚に見染められて口付けを捧げられた男は溺れなくなる、人魚の涙を一口飲めば不治の病ですら完治する、人魚の肉を食べれば不老不死になれる───そんな伝説や逸話を信じた者達に狩りつくされ、最早その存在自体が夢幻となっていたらしい。
そんな中、腐海で見付かったのが彼女だった。ショーの目玉となる見世物を求めて闇市に行った大男は彼女を大枚叩いて買い求め、現状に至ったという。
恐らく、彼女が最後の人魚であることは間違いない。繁殖させようにも方法が分からない上に、防護服なしでは近付くことすら出来ないのだ。上半身は人間の形をしているものの、腐海の水の中で生きている事からして、明らかに人とは違う生き物なのだろう。
彼女が息絶えた時、人魚は本当に伝説上の架空の存在となる。生きてその姿を見れたなんて兄さんは幸運だよ、と笑う大男の顔が、頭に焼き付いて離れなかった。

彼女はナックルスタジアムで管理することになった。
来年のリーグ戦まではまだまだ時間がある。開催中のスタジアムに轟く歓声が嘘のように、静まり返った空間にいるのは俺と彼女だけだった。
水槽を運んでいる最中も、周囲の景色が興味深いのかガラスに手を張り付けて食い入るように見ていた彼女は、一旦満足したのか水の中でくるりと翻って、俺をまじまじと見つめ始めた。
おいでおいでと手招きされるまま水槽に一歩近づくと、彼女は嬉しそうに笑って更に手招きを続ける。一歩、また一歩と踏み出して、もう手を伸ばせば届く距離にまで来た時、彼女も俺の傍まで泳いできた。
至近距離で見つめてみると、彼女の美しさがより一層際立って見える。瞬きする度に小さな水泡を生む長い睫毛、その奥で興味深そうに俺を映すセピア色の瞳。肌は陶器のように滑らかで白い。まるで、人が理想のままに作り上げた人形のようだった。
どのくらい見つめ合っていたのだろうか。
不意に彼女は自分の唇を指差して、次に俺の口元に照準を当てる。一体どうしたのかと考えていると、今度は同じ動きをしながら形の良い唇をぱくぱく、と開閉させてじっと俺の様子を眺めていた。
ああ、なるほど、マスクのせいで俺の口元が見えないのか。口を開閉させてみたのは、恐らく何か話せ、とでも言いたいのだろう。
この距離でマスクを取るのは危険な行為だ。顔の肌だけでなく、息を吸った途端に肺が腐ってしまう。
彼女の指示に首を振って拒絶の意思を示すと、先ほどまでの微笑みの代わりに拗ねたような表情を浮かべて水槽の奥まで泳いで行ってしまった。思わず口に出たのは「待ってくれ」という言葉。
それが耳に届いたのか、彼女は振り返るとまた俺の前まで泳いできて。マスクを外せない代わりに、大きめの声ではっきりと「初めまして」「俺の名はキバナ」と声を掛けてみた。
どうやら、俺の声は無事に届いていたらしい。再び口をぱくぱくと開けて、その形だけで"キ、バ、ナ"と俺の名前を繰り返してくれたのだ。
意思の疎通ができるのは、単純に嬉しかった。だが、続けて「お前の名前は?」「腹減ってるか?」と問い掛けると、彼女は小首を傾げただけでそのまま口を開かない。
もしかすると、理解できる言葉が少ないのだろうか。防護服の内側に手を入れて、ユニフームのポケットを探ってみると───ああ、あった。
パレードの際に配られていた飴とクッキーの包みを取り出して、マスク越しに口元に持って行って食べる仕草を見せてから水槽の奥の彼女に差し出すと、ようやく食事の仕草だと分かったようで、目を輝かせながらうんうんと何度も頷いている。
腹が減っているのなら、食事を用意してやらなければ。
水槽を運ぶときに、大男に渡されたクーラーボックスの中には彼女の"餌"が入っているという。
早速用意するか、とボックスの蓋を開けた瞬間、俺は心底後悔することになった。
「………何だよ、これ」
生肉を与えるとは聞いていた。でも、これは、まるで、

───バンッッッ!!
ガラスを力一杯叩く音に咄嗟に振り返ると、ボックスの中身の匂いを嗅ぎ付けたのか、興奮しきった様子で忙しなく泳ぎ回る彼女の姿がそこにあった。
衝撃のあまり動けずにいると、彼女は再びガラスを力強く叩いて早くよこせと急かしてくる。迷っている暇など、ないようだ。
両手一杯に持った肉を水槽の中に放り込むと、彼女は飛び掛かるような勢いでそれを掴み取り、一心不乱に齧り付き始める。その姿を見ても尚、まだ美しいと思ってしまう俺はもう、既に魅了されてしまっているのかも知れなかった。

彼女の身の回りの世話役を担ったその日、食事中の彼女を置いて俺が向かったのは宝物庫にいる大男の元だった。防護服を脱ぐのも忘れて扉を叩くと、俺の表情で何を言いたかったのか悟ったらしい大男は団員達にその場で待つように指示を出してから少し離れた場所で俺と話すことに決めたらしい。
大方、俺が取り乱すとでも思ったのだろう。…まあ、実際にその通りだった訳だが。
「何なんだよ、あれ!」
開口一番に怒鳴りつけた俺を宥めるように肩に置いてきた大男の手は、ずっしりと重くのしかかる。言外に"落ち着け"と言われているようで、深呼吸をして気を鎮めている俺を見下ろしながら、大男はぽつぽつと語り始めた。
「だから最初に伝えただろう、人魚がどういうものかってことをな。しっかりと俺の話を聞いていれば、あのボックスの中身を見てもそんなに取り乱すこともなかったはずだ」
そう言われれば確かにそうだ。だが、このご時世に誰があんな話を真に受けて信じるというのか。
「何か勘違いしているんじゃないかい?俺達はあんたらのような普通の人間じゃない、|化け物《フリーク》なんだよ」
俺の心中を悟ったのか、トドメを刺すように告げられた言葉に何も返せなくなってしまった。人の常識など、到底通用しないのだ。彼らを見世物として人らしく扱っていないのは、俺達"普通の人間"の方なのだから。
「それじゃ、そういうことで。ガラルに滞在している間はよろしく頼みますよ」
「…ま、待ってくれ…」
黙り込んだ俺の肩を叩いて、その言葉を合図にその場を去ろうと身を翻した大男を呼び止める。まだ、聞きたいがあるんだ。
───結局、解散して俺が彼女の元に戻ったのは、それから二時間後のことだった。

フリークショーは連日大盛況。
彼女の美しさは評判となり、その姿を一目見ようと集まる人々がまた人を呼び、ほかの地方からはるばるガラルまでやって来た観客も多いという。
微笑みながら愛想よく手を振る彼女に歓声を上げる人の群れを見ながら、無意識に欠伸を漏らした瞬間、隣にいたダンデの苦笑いの音が聞こえた。
「どうした、キバナ。寝不足か?」
答えはイエス、寝不足だ。
大男と話し込んだあの日から、俺が寝る間も惜しんで取り組んでいるのは、手話だった。彼女と意思の疎通がしたいから、と理由を告げてその方法を尋ねると、大男は最初こそ怪訝な顔をしたものの、ガラルに滞在している間にストレスや病気が原因で彼女の身に異変が起きた時の為にも意思疎通ができた方が良いだろう、とそれらしく話すと、しぶしぶ教えてくれたのだ。
「ただし、必要以上に"あれ"に関わろうとしない方がいい。あんたら人間とは住む世界が違うんだ」
そう警告ともとれる言葉を添えて、大男は彼女と話す際に手話を使っていると教えてくれた。人魚の声を聞かない方法として、一番便利なのが手話なのだと。
自らをフリークと称しているとはいえ、やはり本物の化け物に食い殺されるのは恐ろしいのだろう。頑なに彼女の声を聞こうとしないその理由は、恐らくそういうことなのだと思う。
「……キバナ?大丈夫か?」
寝不足気味の頭で物思いに耽っていたせいか、隣から聞こえた声でハッと我に返ると、そこにはどこか心配そうに俺の顔を覗き込むダンデの姿が在った。
いつの間にかパレードは終わりの時間を迎えている。観客達を解散させなければ。曖昧に笑う俺を見てまだ何か言いたげなダンデを手で制してから、俺達は人々の群れの中へと向かって行った。

防護服を着て水槽をスタジアムに運ぶ間、彼女は水の中ではしゃぎ回りながら楽しげに笑っている。今日は雨が降っているせいか、一段と機嫌が良い。人魚は雨が好きなようだ。
水槽のガラスを伝い落ちる雨粒を指先で追っては楽しそうにくるくると回るその姿は、新しい玩具を手に入れて遊ぶ少女そのものだった。
〔雨が好きなのか?〕
覚えたばかりの拙い手話で話し掛けると、不意に彼女の動きが止まって俺をじっと見つめてくる。あの大男は手話を仕込んだと言っていたが、日常会話は理解できないのだろうか。そう思った瞬間、パッと彼女の表情が輝いて。
〔あめ だいすき〕と、手を動かして返してくれた。
初めて言葉を交わせた。声に出す必要などない。これが、俺達の会話なんだ。

それから手話を使った意思の疎通が始まった。ところどころ朧げな表現はジェスチャーを使えば、彼女はそれを読み取って返してくれる。
会話がこんなにも楽しいと思ったのはいつ以来だろう。
彼女も楽しんでくれているのか、時折水面を尾で揺らがせて優雅に水の中を泳いでいた。
〔お前の名前は?〕
〔なまえ ない〕
〔年は?いくつだ?〕
〔わからない〕
〔いつからこの中に?〕
〔わからない〕
〔どこから来た?〕
〔ひろいうみ ここ せまい きらい〕
そう言って大きな水槽を一周泳いでみせる彼女。
俺にとっては十分に広い空間だと思っていたが、彼女が昔暮らしていた大きな海と比べれば、確かにこの水槽は狭過ぎるのだろう。
大空を羽ばたく鳥が鳥籠に閉じ込められ、地を闊歩する人間が牢獄に囚われるように。
彼女にとってもまた、この水槽は檻でしかないのだ。
この狭い檻の中で、朽ちゆくその日を待っている。
大男は言っていた。俺達にとってその水が毒であるように、彼女にとっては水槽の外こそが毒なのだと。澄んだ空気に触れると、彼女の肌は徐々に|爛《ただ》れてやがて腐り落ちてしまうのだという。
だから人魚はその声で男を水面へと誘うのだ。美しい微笑みを湛えて、おいでおいでと手招きながら。
それが、死への|誘《いざな》いだと分かっていながら。それでも船乗り達は人魚の虜になってしまう。俺も、船乗り達と同じだった。彼女の肌に触れてみたい。その声を、耳で感じてみたいと思った。それが、何を意味するのか分かっていても。

生まれて初めて、愛しいという感情を知った。
仲の良い友人、長年のライバル、気紛れに抱いてきた有象無象の女達。そのどれにも感じなかった胸の痛み。これが、恋というものなのか。
どうやら俺も、神に愛されていなかったようだ。
だってそうじゃないか。初めて恋い焦がれた相手と、決して結ばれることがないなんて。
彼女について調べていく内、一つの文献に載っていた人魚のおとぎ話を見つけた。
ある日、人間に恋をしてしまった人魚姫。住む世界が違う者同士の恋が叶うことはない。それでも恋を諦められなかった彼女は、美しい声と引き換えに人間の足を手に入れた。生まれ育った海、愛しい姉妹、そしてその声すらも捨てても尚、恋に生きようとした哀れな人魚が辿った末路───
ああ、神もなかなか皮肉なものだ。人魚に恋をした人間は、やはり泡となって消えていくのだろうか。
彼女の為に全てを捨てる覚悟が俺にはあるのか。地位、財産、夢、そして───この命さえも。
長く続いた自問自答も、ようやく答えを見付けられた。
───恋は、さながらこの身を焦がす業火なのだ。
〔一緒に逃げよう〕
そう伝えた時、彼女は不思議そうに目を丸めていた。
〔にげる? どこ?〕
その問い掛けには、何も返すことが出来なかった。
彼女を外に連れ出すのは、不可能に近い。この水槽は目立ち過ぎるし、フリークショーの大目玉が何者かによって拐われたとなれば大男は黙っていないだろう。死に物狂いで彼女を探し出し、見付かるまでにもそう時間は掛からないはずだ。俺達に安寧の地は、ない。
───そう、この世界には。

〔人魚が人間になれる方法が一つだけある〕
そう言って俺が取り出したのは、液体が入っているガラスの小瓶。水槽越しにその小瓶を見ながら、小首を傾げる彼女に例のおとぎ話を聞かせてやった。
人魚が声と引き換えに足を手に入れた方法。それは、海の底に住む魔女に手渡された薬を飲むことだった。この小瓶に入っているのはその薬。
そう説明してやると、彼女は途端に目を輝かせて早く早くと手を伸ばしてくる。
〔人間になりたいか?〕
〔にんげん なりたい〕
〔もうそんな風に泳げなくなるのに?〕
俺の問い掛けに彼女は食い気味に頷くと、歯列を覗かせて笑う。その笑顔は、酷く凄惨な笑みで。
〔そと いく おなかいっぱい たべたい〕
そこにいたのは、美しい|化け物《フリーク》だった。
並びの良い白い歯は鋭く尖り、血肉を求めて妖しく光る。彼女にとっては、至極当然の欲求なのだろう。毎日与えられる"餌"の量では満腹にはなれない。
飢えない程度に腹を満たしても、本能は抑えられないのだ。彼女の目には、外はまさに楽園として映っていた。それもそうだろう、獲物の方からみずから笑顔で近付いてくるのだから。
彼女の食事として用意されていたクーラーボックスの中には、"人であったもの"の残骸が入っていた。等間隔に刻まれた腕、足、胴体の肉片がぎっしりと詰まっていたのだ。
それを初めて目にした時、感情的に詰め寄った俺に、あの大男はこう言った。
「人は生きる為にポケモンを食べる。あれも生きる為に人間を食べる。それのどこに違いがあるんだい?」
そう言われてしまうと、何も返せなかった。大男の言う通り、違いなんてないじゃないか。
それでも、後ろめたく感じてしまうのは俺の人らしい心のせいなのだろうか。あの中に詰められた人間を、大男がどうやって調達したのかは分からない。
もう残りは少なかった。空になる前に、誰かが一人、また犠牲になるのだ。
彼女が生きている限り、人間が殺され続ける。
───まるで、家畜のように。
これは、ただの俺のエゴだ。頭では分かっていても、心は悲鳴を上げていた。
〔なぜ? ないてる〕
視線の先で、彼女の手がそう問い掛けてくる。
自分の頬に触れてみると、そこには確かに濡れた感触があった。そのまま乱暴に拭い取って、彼女によく見えるようにゆっくりと胸の前で手を動かす。
〔あいしてる〕
愛という概念が伝わる相手なのかは分からない。
彼女にとって、俺もあの大男も、クーラーボックスの中身と変わらないただの餌なのかも知れない。
それでも良い。彼女は見よう見真似で俺と同じ手話を繰り返すと、どこか媚びるように美しい笑顔を見せた。
そうする事で、俺の手の内にある薬を手に入れられると思ったのだろうか。ならば、それに応えてやろう。水槽にゆっくりと近付いて、期待に満ちた彼女の顔を目に焼き付けながら水面の上に小瓶を掲げた。
「先に地獄で待っていてくれ」
彼女の手が水面から出るよりも先に、小瓶の中の液体を水槽の中に注いでいく。きっと、俺の言葉は届いていないのだろう。晴れやかな笑顔を浮かべて、手を伸ばしたまま彼女の体は水槽の底へとゆっくりと沈んでいった。まるで、神に救いを求める人のように。
残念ながら、彼女が行き着く先はきっと地の底だ。
|化け物《フリーク》にお似合いなのは、地獄と決まってる。そして、彼女の命の灯火を断ち切った俺もまた同じ。
地獄の業火に身を焦がすことになっても、構わない。そこで二人でいられるなら。
防護服とマスクは、もう必要なかった。脱ぎ捨てた瞬間から肌が焼けるように痛む。水の毒気に当てられて、|爛《ただ》れ始めているのだと分かった。
これが地獄の入り口だ。俺は腐海の水の中に飛び込み、彼女の体を力一杯抱き寄せて。薄れゆく意識の中、俺達を愛してくれなかった神に最後の祈りを乞い願った。
大嫌いな神様へ。
どうかもう二度と、生まれ変わりませんように。

##報告書・消えた男と人魚の亡骸について

XX月XX日 未明
・ナックルジムトレーナーの通報を受け、同シティのスタジアムに向かった警官により、水槽の中で人魚の死体と寄り添い合うように沈んでいた人体白骨を発見。同時に水槽の傍で見付かった防護服とみられる衣服、マスクからはナックルシティジムリーダ・キバナの毛髪、唾液が検出されており、白骨の身元照合を急ぐと共に、付近にあったクーラーボックスの中の遺体の一部との事件の関連性を調査中。ガラル地方に滞在していた見世物小屋の集団は前日のパレードでの目撃証言を最後に、未だ見付かっていない───