ビート


ルミナスメイズに生えるキノコの魔力。その力を目の当たりにすることになるなんて、思ってもみなかったはずなのに。まるでおとぎ話の世界に迷い込んだような、不思議な体験の始まりだった。


〔ビートくん、助けて!〕
たった一行のメッセージを見た瞬間、心臓が早鐘を打ち始めた。スマホロトムの現在地捜索機能から彼女がいる場所を急いで検索すると、地図上に表示された発信源はルミナスメイズ。気付いた時にはもう、僕の体はジムを飛び出して森の入り口へと走っていた。
幸いと言うべきか、この森はそこまで広くはない。野生のベロバー達を刺激しないように気を付けてキノコの明かりを頼りに周囲を散策すれば、すぐに彼女を見付けられるはずだ。手持ちのポケモン達をボールから出して手分けして捜索を続けていると、少し離れた場所からブリムオンの鳴き声が聞こえた。
「どうしました、ブリム……———」
鳴き声を頼りにそちらへ駆け出すと、僕に気付いたブリムオンが酷く焦った様子で地面を指差している。言葉で確認するまでもなく、視界に映ったその光景に、背筋が一気に凍り付いた。
地面の上に転がっているのは、見覚えのあるワンピースとニット、そしてお気に入りだと言っていたベレー帽。そのすぐ傍には散乱した荷物と、彼女のポケモン達が入っているボールが散らばっている。
「……何だよ、これ……」
残っているのは、彼女がここにいたという痕跡だけ。一体何があったというのか。聞いてみようにも、肝心の本人が存在しないのだから話にもならない。
無意識に震える手を伸ばして、無造作に転がったままのワンピースに触れると、それはまだ僅かに温もりを保ったままだった。
もしかしたら、彼女はまだそう遠くには行っていないのかも知れない。今なら、まだ間に合う。そう思って咄嗟に立ち上がった瞬間。
「ビートくん、来てくれたんだ…!」
彼女の声が、確かにすぐ傍からはっきりと聞こえた。
これは幻聴なんかじゃない。その証拠に、ブリムオンもしきりに辺りを見回して彼女の姿を探している。最悪の予感が外れたことに安堵するよりも先に、まずは彼女を見付けなくては。
しかし、何かがおかしい。僕を呼ぶ声はすぐ近くから聞こえているのに、いくら周囲を確認しても人の姿どころか野生のポケモンすら見当たらない。ここにいるのは僕とブリムオンだけだ。一体どういうことなんだ、ともう一度脱ぎ捨てられた服の残骸に視線を落とした瞬間、そこで何かが小さく動いたのが分かった。
「…………ユウリ、さん…………?」
「…うん、あの、えっと…私、だよ?…一応…」
お互いに確認し合ってしまうのも無理はないだろう。だって、僕の目に映る彼女の姿は、手の平に収まる程の大きさに縮んでしまっていたのだから。
あまりの事態に呆然と立ち尽くす僕よりも、冷静な対応をしたのはブリムオンの方だった。帽子の先から伸びる触手を器用に使って小さな彼女の体を掬い上げ、僕の肩の上へと乗せる。
「あのね、その……これには訳が……」
小さな両手が襟足を掴んで転がり落ちないようにバランスを取る間、彼女の口から語られるその説明を聞けば聞くほどに訳が分からなくなってくる。
彼女がルミナスメイズに足を踏み入れたきっかけは、野生のイエッサンを求めてのことだったらしい。生息数自体が少ないこともあってなかなか見付からず、手持ちのポケモン達の疲弊具合も考慮して一旦アラベスクのポケモンセンターに向かおうとしたところで、ようやくイエッサンらしき姿を見付けたものの、足元が暗く覚束ない。そこで慌ててすぐ傍のキノコに触れたのが、今回の事の発端だそうだ。彼女が運悪く触れてしまったのは、新種の胞子を出す希少なキノコ。
他のエリアと比べてルミナスメイズのポケモン達のサイズが小さい原因として、最近ようやく研究が進み始めた胞子を全身に浴びてしまったらしい。
ポケモン達はボールに入っていたおかげで無事だったものの、彼女はみるみる内に体が縮んで自分の服の中に埋もれてしまったそうだ。何とかスマホロトムに声を掛けて、咄嗟に助けを求めた相手が僕だった、と。彼女が一通りの説明を終える頃には、動けない僕に変わってブリムオンが地面の上の荷物を拾い集めてくれていた。
「…俄かには信じられない話ですが、ここでグダグダと話していても始まりません。これからどうするか話し合うためにも、一旦アラベスクまで戻りますよ」
盛大な溜息を一つ吐いて、僕達は撤収の準備を始めた。




少女向けの玩具コーナーなんて、自分の生涯の中で足を踏み入れるような機会は一度もないと思っていた。そこかしこにフリルとパステルカラーが溢れて、着せ替え人形達が早く私を手に取って!と今にも語り掛けてきそうな笑顔で棚いっぱいに陳列されている。明らかに場違いなのは分かっているから、肩身が狭くて仕方ない。目当てのものを物色している僕の傍を、きらきらと輝く魔法の杖を手にした幼い子供たちが走り去っていく。そしてその後をゆっくりと歩く母親らしき集団が、僕を見て一瞬驚いたような表情を浮かべたかと思うと、次の瞬間にはあからさまな愛想笑いを浮かべて子供達の後を追って行った。
ああ、最悪だ。どうせ彼女達は、あの棚の角を曲がった途端に僕の噂話に花を咲かせるのだろう。アラベスクの新ジムリーダーとしてメディア露出が増えたせいで、僕の知名度は良くも悪くも高まっているのだ。
「フェアリー使いらしく、趣味もフェアリーなのねえ」
そんな皮肉めいた冗談を言って笑い合う声が、今にも聞こえてきそうだった。
これ以上被害妄想に囚われる前に、さっさと買い物を済ませてこの店を出てしまおう。僕は目の前の一番大きなドールハウスと、その周辺に飾られた小さな食器や家具と着せ替え用の服を抱えられるだけ手に取って、足早にレジへと向かった。
「ありがとうございまーす。ラッピング包装はいかがされますかー?」
やたらと間延びした口調で話す店員は、当然のように包装用紙のサンプルを見せてどれが無料か、どれは有料かとマニュアルの丸暗記らしい説明を始める。
「あ、いえ…いいです、すぐに使うので」
その説明を遮って断りを入れると、店員は僕の顔をまじまじと見た後に、明らかに怪訝な表情を浮かべた。何故だろう、おかしなことを言ってしまっただろうか。
思い当たる節は———……ああ、まずい。
「あのっ、違います、えーっと…し、親戚の子が遊びに来てて、それで……」
僕の苦しい言い訳は、きっと見透かされているだろう。けれど有難いことに、店員はすぐに営業用の笑顔を取り繕って、僕が買い求めた商品をテキパキと袋に詰めていく。大方、この店員も僕のことをお人形遊びが趣味の男とでも思っているんだろうな…ああ、最悪だ。
思わず零れた溜息は、合計金額を表示する電子機器の数字を見た瞬間に更に大きな吐息に変わった。たかが女児向けの玩具でこの値段とは、ぼったくりもいいところじゃないか。念のため多めに持って来ていた財布の中身は、一番小さな紙幣が数枚と、微々たる枚数の小銭だけとなってしまった。余裕があれば新しい本を数冊と、お気に入りの茶葉も買って帰りたかったのに。この残高では、帰りの空飛ぶタクシー代もギリギリ間に合うかどうかというところだ。
「……ハァ。本当に手がかかる……」
何度目かの溜息を吐いて思わず独り言ちると、大切なものを入れた胸ポケットがもぞもぞと動き回った。
それを軽く叩いて落ち着かせてから、大きな袋を両手に一つずつ受け取って、僕は足早に店の出口へと足を進める。途中、背中にひしひしと刺さるあの店員の視線には気付かないフリを決め込んで。


空飛ぶタクシーの支払いは、結局ギリギリ間に合った。というか、大きな荷物を抱えて疲れ切った顔をしていた僕が"これで足りますか"と全財産を見せたせいか、運転手がかなり気を使ってくれたのだと思う。有難く厚意を受け取って、ようやく自室に帰ったところで、僕は胸ポケットの中の"彼女"に声を掛けた。
「もう出てきても大丈夫ですよ」
すると、もぞもぞと動いたポケットから顔を出す彼女。
「えへへ。ありがとう、ビートくん」
小さな胸ポケットから必死に這い出そうと藻掻く彼女を掬い出すと、そのまま手の平の上にちょこんと座って僕を見上げながらにっこりと笑う。
「おかいもの、楽しかったねえ」
僕の苦労なんて知らずによく言えたものだ。思わずやれやれと何度目かの溜息を吐いてから、右肩に導くと彼女は手の平の上を駆け出して上手に肩の上へと移動した。小さな足が自分の体の上を走っていく感覚は、最初こそくすぐったくて耐えるだけで精一杯だったけれど、今では寧ろ彼女が傍にいる証として心地よく感じるようになっている。襟元の服が微かに引っ張られる感覚は、彼女が振り落とされないようにしっかりと掴まっている証拠だ。
買ったばかりの荷物をリビングに運んで、早速開封を始めると、彼女は待ちきれないと言わんばかりに僕の襟足を軽く引っ張って早く早くと催促をする。今日、新しく買い求めたのは彼女が希望していた二階建てのドールハウスだ。中はかなり精巧になっていて、リビングや寝室はもちろんのこと、なんと実際に使えるキッチンまであるらしい。人形遊びも随分と進化したものだ、と思う。まあ、実際にそのキッチンを活用するための器具や細かい食器などはちゃっかり別売りになっていて、揃えるとなるとなかなかいい値段になるのだが。
「わあ!すごいすごーい!ねえ、早速入ってもいい?」
僕の財布を軽くした要因を目の前にして、子供のようにはしゃぐ彼女を見れば、痛い出費なんてどうでも良くなってしまうのだから困ったものだ。
「いいですけど、遊ぶ前に着替えが先ですよ」
待ちきれないのか、肩の上でぴょんぴょんと跳ねる体を傷付けないように注意しながら掴み上げて、新品のドールハウスの前に置いてやると早速扉を開けて中へ入っていく。
彼女が新しい家の探索に夢中になっている間に、新しい服の用意をしておかなければ。
彼女がいま身に纏っているのは僕が即席で縫い上げた布切れの寄せ集めだ。生憎、僕には裁縫のセンスはないらしい。かろうじて両手両足と頭が出る形には出来たけれど、それはお世辞にもワンピースとは呼べない代物だった。
これでようやく彼女にまともな洋服を着せてあげられる。着替え用にと数着余分に買っておいたけれど、気に入ってもらえるだろうか。貰ったばかりの今月分の給金とあらぬ疑いを引き換えに手に入れたものなので、活用してもらえないのは正直困る。彼女が気に入らないからといって、あの店にまた返品しに行く勇気は…———そんなことをぼんやりと考えながら着せ替え人形サイズの衣服の開封を続けていると、不意にドールハウスの二階の窓が開いた。
「じゃじゃーん!見て見てビートくん、私のおうちでーす!」
得意げに胸を張って出窓から顔を覗かせる彼女は、どうしようもなく可愛くて。知っていますよ、なんてつまらない答えを返しながらも、思わず口元が緩むのを抑えきれなかった。一通り家の中を探索し終えたらしく、部屋の造りや設備の精巧さを興奮しきって語る彼女の話を聞きながら、小さなクローゼットに新調したばかりの服をしまいこんでいく。シンプルな色合いのワンピースから華やかなドレスまで、丁寧に小さなハンガーにかけて一枚一枚ポールにかけていくと、あっという間にクローゼットの中は一杯になってしまった。困ったな、後で新しい衣装も通販で探そうと思っていたのに。クローゼットももう一つ新調しようか。
…決して着せ替え遊びに夢中になっている訳ではない。あくまで彼女のためだ、今日買った服が気に入らなかった場合のためにも、着替えは多いに越したことはないのだから。一人で悶々と続けていた葛藤から僕の意識を逸らしたのは、彼女の小さな呟きだった。
「ビートくん、あのね、お願いがあるんだけど…」
さっきまでの軽快な笑顔はいつの間にか潜んで、代わりにほんのり頬を赤く染めながら視線を泳がせる彼女。もじもじと指先を触れ合わせて、何を言うかと思えば。
「あのね、お着替えする前に……お風呂……」
しまった。すっかり失念していたけれど、いくら精巧なドールハウスとは言っても流石に水回りの設備はないのだ。かと言って、小さな彼女一人で我が家のシャワーを使わせることもできない。どうしたものか、と悩んだ末に、彼女を一旦ドールハウスに残して僕は、"あるもの"を取りにキッチンへと向かった。

「えへへ、きもちいいー」
僕が用意したのは、浅めのマグカップ。人肌よりも少し熱めのお湯とほんの少しの入浴剤を入れて、簡易浴槽の完成だ。乳白色のお湯に浸かって、彼女は心地よさそうに笑っている。
思った通り、今の彼女の大きさには丁度良い。お湯をパシャパシャと跳ねさせながら入浴を楽しんでいる間、ハンドタオルを小さく切って彼女専用のバスタオルも用意した。
「ほら、のぼせる前に髪を洗いますよ」
ほんの少しのシャンプーを垂らして人差し指で髪を擦ると、途端に柔らかい茶髪が泡まみれになっていく。まるで、本当に人形遊びを楽しむ少女になった気分だ。
「んー、極楽極楽。もうずーっとこのままでもいいくらいだよー」
「何をばかなことを。あなたを元に戻すために、博士達も奮闘しているんですよ」
僕の報告を受けてからすぐに、彼女の体を縮めた胞子の研究は急ピッチで進められている。今まで人体に作用したという事例がないので、有効な対処法や特効薬なども当然見付かっていないのだ。だからこそ、ブラッシータウンの研究所では今も博士達が研究に躍起になっているのだから、建前上は彼女を叱ってはみたものの。正直、この時間は僕にとってもなかなかに有意義なものだった。
「はい、流しますから目を閉じて」
スプーンですくったお湯で泡を洗い流す間も、僕の心は心地よい穏やかさで満ちていく。人の世話を焼くなんて御免だと思っていたけれど、これはこれで良いものなのかも知れない、と。そんなことを密かに思いながら、結局彼女の肌が火照りあがるまでバスタイムはしばらく続いたのだった。


すっかりと上気した体を包むのは、淡いピンクを基調とした丈の長いワンピースだ。
「可愛いお洋服がいっぱいで迷っちゃったんだけど…」
そう語る彼女の頬の色と相まって、とてもよく似合っていると思う。
サイズも合っているようで、どうやら気に入ってくれたらしい。内心ホッとしていた僕の手に擦り寄って、中指にぎゅっと抱き着く彼女。
「ありがとう、ビートくん」
小さな体なりの精一杯の力で抱き締められる指だけが、擽ったい温もりに包まれて、不思議な熱を孕んでいる。これが、愛おしい、という感情なのだろうか。
「……どういたしまして」
思ったよりも素っ気なくなってしまったけれど。その声音の奥に潜んだ感情は、彼女にはお見通しのようで。もう一度、ありがとうと告げて笑う彼女の頭を指先で優しく撫でると、触れ合ったそこから伝染したように、僕の口元にも緩やかな笑みが広がっていた。
もう少し。あともう少しだけなら。
この小さな姫君を、独占することも許されるだろうか。
ルミナスメイズの魔法の力。どうかまだ、この夢のひと時を覚まさないでくれ