考察するには。

今日も今日とて、ぬらりひょんは忙しい。エンマ大王の執務室と己の執務室を行ったり来たりして、ゆっくりする暇もなかった。

いつか過労で倒れたりしないだろうか。目の前を早足で進むぬらりひょんの背中は、いつもどおりまっすぐ伸びている。だが、それが逆に犬まろにとっては心配だった。知らないうちに、限界まで無理をしてしまうきらいがあるからだ。

特に、ここ最近は様子がおかしく、ますます「具合が悪いのでは」と思ってしまう。ぼんやりすることも増えた。とはいってもそれは例えるなら一日一回から二回に増えた程度の微々たる変化だから、猫きよは気づいていない。今のところ気づいているのは犬まろだけである。

しかも、決まってぬらりひょんの様子が「おかしくなる瞬間」というのもあった。普段冷静沈着なのに、ある場所に来るとソワソワし出すのだ。それだけでなく、わざと「そこ」へ訪れようともしている。

もちろん、顔に出すわけでもないから、僅な彼の動きから判断しているのだけれども。

──今日もぬらりひょん様は、あの場所を通るだろうか。

一生懸命後ろを追いかけながら、犬まろは思う。
そんな彼の心のうちなど知らぬように、ぬらりひょんは靴音の響く廊下を進んでいく。そしてふと立ち止まった。


──やはり。


チラリと視線を動かしたのは、廊下の隅にいるうんがい鏡だった。それは人間界と結ぶ通路であり、エンマ大王の休憩…もといサボり専用のうんがい鏡とも言う。


「ぬらりひょん様?どうしましたですニャ?」


チラチラと視線を動かしていたからか、さすがに猫きよも不思議に思ったらしい。立ち止まったその背中に声をかけたが、返ってきたのは「いや、なんでもない」という素っ気ない答えだけだった。


──何でもないようには見えないのだが。

猫きよが首を傾げたので、犬まろも肩を竦めて返した。しかしぬらりひょんが何でもないという以上、掘り下げることはできないのもまた事実で。

──もしかしたら、またエンマ大王様がサボっているのではと気にされているのかもしれない。

思い当たる節がないわけではない。特にここ数日は急ぎの書類が山ほどあった。それでもエンマ大王はサボるので、気に揉んでしまうのも仕方がないことなのかもしれない。

これ以上聞いてもきっと無駄だろう。

ぬらりひょんが再度眠っているうんがい鏡を見たあと、再び足を進めたので、それに追従しようとしたときだ。ぱっとうんがい鏡が目を覚ました。「ぺろーん!」そして誰かをその鏡面に通す。まばゆい光のなかにいたのは。


「ニャ?七海殿?」
「こんにちは!」


天野七海だった。
鏡から体半分を出して、ひらひら手を振っている。「またエンマ大王さまに呼ばれたんだけど…相変わらず忙しいの?」そう言いながらうんがい鏡に手をかけたところで、ぬらりひょんが七海のすぐそばに移動していたことに気付いた。──いつの間に。


「…また来たのか」
「あ、ぬらりひょんさん」


眉間に皺を寄せ、ぬらりひょんは言う。「また来たのかって言うかエンマ大王さまが私を呼んだんですよ」苦笑いのままうんがい鏡から出ようとしたところで、よろけた七海をぬらりひょんが支えた。「あ、ありがとうございます」「…気を付けろ。ただでさえ危なかしいのだから」「えっそうですかね…そんなことないと思うんですが」犬まろと猫きよを無視する形で、会話が進んでいく。あれ、これはもしかして。


「それにしてもぬらりひょんさん、相変わらずお疲れですねー。大丈夫ですか?」
「七海殿に心配されるほど落ちぶれたつもりはないが、これが大丈夫そうにみえるか?」
「あはは、どうでしょう。ぬらりひょんさんならどんな量の仕事もそつなくこなしてしまいそうですけどね!とりあえず私も手伝いますよ!」
「人間に手伝ってもらうものなど、本来はないのだがな」
「まあまあ、書類の整理ぐらいはできますから!」
「書類の整理ぐらいしかの間違いでは?」
「あ、ひどいなあ」


クスクス楽しそうに七海が笑いながら、エンマ大王の執務室へと歩き出す。その歩調に合わせるかのように、ぬらりひょんも歩き出して、二人の従者は置いてきぼり。


「犬まろ、早くしないと置いていかれるニャ!」
「猫きよ、ちょっと待て」


猫きよと目を合わせて、犬まろは首を振る。

邪魔してはいけない。

眉間のシワこそ一生懸命作っているものの、とても柔らかい顔をしているのだから。
眩しそうに目を細めて、七海を見下ろす彼を、今まで見てきたことがあっただろうか。


「ワシも七海殿と話したいニャ!」
「いいから後にしろ。静かに、距離を取って、あとを追うんだ。いいな?」
「えー」
「いいから黙ってそうしろ」
「…わかったニャ」


不満げに口を尖らせる猫きよを無理矢理黙らせて、そっと二人の後を追う。少し距離を取っているから詳細な会話内容は聞こえないが、楽しそうだった。にこにことぬらりひょんを見上げる七海と、それを仏頂面(をしてるつもり)で見下ろすぬらりひょん。

最近様子がおかしかったのは、きっと「これ」のせいなのだ。
ようやく納得のいく答えを見つけて、一人頷いた。それは決して悪い方向ではなく、良い方向への変化で。


「あーあ。ぬらりひょん様が羨ましいニャ…」
「バカ。静かにしろ」
「へーい」


猫きよが気付くのは、きっともう少し先だろう。もしかしたら、本人さえも、気づいていないかもしれない。そんな小さな芽吹きを、どうかゆっくりでいいから、大切に、大きく育ててほしい。柔らかい雰囲気に包まれる二人の背中を見ながら、犬まろは思ったのだった。