君がみる世界

「ぬらりひょんさんって、大きいですねえ」


エンマ大王の執務室へ向かう途中のことだ。私の半歩先を歩くぬらりひょんを見て、ふと思ったことを口にした。それほど大きな声ではないのに、廊下だから響くのか、すぐにぬらりひょんが反応する。その顔には「唐突に何なんだ」と書いてあった。


「何だ、藪から棒に」


──本当に言われてしまった。思わず笑う私に、ぬらりひょんはますます呆れた顔になる。


「七海殿、人の顔を見て笑うのは失礼だと思うが」
「あはは、ごめんなさい」
「それで、急に何なんだ」


それでも、きちんと最初の話に戻ってくれるところは、優しいと思う。緩む口元を引き締めて、もう一度「ぬらりひょんさんは大きいですね」と言った。


「大きい?背丈のことか」
「はい。私よりずっと高くて羨ましいです」
「羨ましい?」


どうもぬらりひょんにとっては解せないことらしい。「別に何の得にもならないが」なんて、高身長の人ならではのことを言う。わかってないなあ。低いより高い方が、得すること一杯あると思うんだけど。


「高いところに簡単に手が届くし、人混みに紛れても目立ちますよ」
「高いところに手が届きやすいのは確かだが、人混みには行かない」
「いやいや、一般論ですよ、一般論!」
「一般論」
「はい。人混みに紛れたとしても頭ひとつ分飛び出てるから視界も良好!例えば水族館に行ったときでも、背伸びしなくても魚が見えます」
「だから水族館には、」
「一般論ですって」


言いかけるぬらりひょんの言葉を遮って、ぴしっと指をさす。
「つまり何を言いたいかというと、身長が高いと世界が変わりそうってことです!」まさか指差しをされてまで熱弁されるとは思っても見なかったのか、ぬらりひょんは僅かに目を丸くした。


「やっぱり身長高い方が、見える世界も違うと思うんですよね」


実に羨ましいと思う。ぬらりひょんの身長なら、私の見える世界よりも、もっと遠く、広い世界が見えるだろう。それは私がどんなに望んでも手に入れることのできない世界だ。


「…そこまで身長が低いと不便か」
「私、特別小さいわけではないんですけど、高い方がいいなあと思うことはよくあります」
「…何が見える」
「え?」
「今、七海殿の高さでは何が見える」


それは何を意図するのか。自分から振った話題の癖に、そう聞かれると口ごもってしまう。「えっと、今はぬらりひょんさんの胸もとあたり?」言っていて何だか恥ずかしい。

ぬらりひょんはふむ、と手を口にやると、すっと身を屈めてきた。ふいに近付いた距離に思わずどきりとしてしまう。だって、こんなに近くに寄ったことない。ふわりと舞った白銀の髪が、私の頬に触れるほどの距離なのだ。


「なるほど。これが七海殿の見える世界なのだな」


ようやく共有できた世界に、ぬらりひょんは小さく笑った。普段笑顔など見せない人なのに、本当に、一瞬だけだけど。

──こんな顔もするんだ。

ドキドキしている心臓の音が、聞こえてしまわないだろうか。

黙りこんでしまった私に気付いたぬらりひょんが、こちらを向いた。同じ高さで、同じ視線で初めて目が合う。思った以上に近かったからか、はっとしたようにぬらりひょんは背を伸ばした。わざとらしい咳払いを一つして、再び歩き出す。「行くぞ。大王様がお待ちだ」「は、はい…」この気持ちの置き場は、どこにしたらいいのだろう。

半歩どころか、今度は三歩ほど先を歩き出したぬらりひょんを、慌てて追いかける。けれどもそれでちょうど良かったのかもしれないと思った。

今、お互いが顔を赤く染めていて、とても顔を合わせられないのだから。