聖者なんていない

今日は七海が妖魔界にやって来る日だ。

それはエンマ大王にとってずっと待ちわびていた日だったが、彼女は今彼の隣にはいない。代わりに、その姿はぬらりひょんと共にあった。二人で一つの書類を覗きこみ、何やら話している。

──何でこうなった。

そう思ってみたところで、その思いは通じることなく、ただ苛立ちだけが募っていく。
彼女たちから少し離れた大王席では、その会話が聞こえないから尚更だった。
…とはいっても、こうやって大王席に縛り付けられているのは、そもそも自身が日常的な仕事を溜め込んだのが原因なのだが。

わかってはいるが仕事が嫌いなものは嫌いなのである。だからもう少し配慮してもらいたいものだ。特にぬらりひょん。

むっつり肘をついて、二人の姿を改めて見る。時々にこりと笑う彼女に、ぬらりひょんが普段より柔らかい視線を落としていた。


「なるほど、さすが七海殿」
「いえ、そんなことは…」


なぜかその会話だけがエンマ大王の耳まで届いた。

──ズルイ。

彼が思ったのはまずそれだった。それから次は「こっちを見て欲しい」だとか、「もっと俺に構え」だとか、どれも嫉妬に溢れていて、どこかにぶつけようもないものばかり。

──だから、どうしてこうなった。

しかしその答えをくれるものは誰もいない。ただエンマ大王の心中で燻っている。拭っても消えないそれを、どう処理すればいいのか、彼はわからなかった。

──あ〜〜俺だって、この仕事の山さえなければ、今頃七海と…!

そう、本来であれば七海はエンマ大王の客人なのだ。それなのに、ぬらりひょんと一緒にいるとはなんたることか。

───七海も七海だ。仕事があるからって変な気なんか回すなっての…


がしがし頭を掻いて、はあああと大袈裟にため息をつく。すると彼女がそんなエンマ大王に気付いたらしい。「エンマ大王さま?どうしました?」と振り返ったのだ。ようやく気付いてもらえたことが嬉しかったエンマ大王だったが、今更素直になれるわけもなく。


「んあ?べっつにー!」


何とも可愛くない返事をしてしまう。子供っぽいことは自覚していた。
そしてそれにすぐさま反応したのは、やはりぬらりひょんで。


「別に何でもない、という感じではなさそうですが?」


さすがは妖魔界の議長、鋭い見解をお持ちである。隣で七海が苦笑いしていて、それがまた、エンマ大王には気にくわない。


「ぬらりに言われたくねぇ」
「意味がわかりません。私に八つ当りしないでくださいよ」
「八当りしてねぇし」
「しているでしょう」


八つ当たりをしている自覚はあったが、それこそ素直に言えるわけがなかった。カッコ悪い。それは十分わかっている。こちらを見る彼女の視線から免れるようにふいと顔を反らした。こんな姿を、彼女に見られたくなかったのだ。


「今度は何を拗ねているのです」
「拗ねてねぇし」
「拗ねていますよ」


今度ため息をつくのはぬらりひょんの方だった。仕方ないなと言いたげに首を振ると、「七海殿」と彼女の名前を呼ぶ。


「はい?」
「お茶を持ってきます。大王様の話し相手をして差し上げてください」
「えっ」
「はあ?!」


ぬらりひょんの提案に、エンマ大王と七海の声が被った。


「おい、ぬらり…!」
「あ、ちょ、ぬらりひょんさん?!」
「では失礼」


有無を言わせず、ぬらりひょんは部屋を出ていく。気を使われたのだと気付くと、急に情けなく、恥ずかしかった。

残されたエンマ大王たちの間に沈黙が落ちる。


──この状態から、どうやって脱却しろと?!

二人きりになれたのは嬉しかったが、とにかく気まずかった。再度頭をがしがし掻いて、何かを発しようと口を開く。しかし上手い言葉は出てくるわけもなく、声にはならない。代わりに、口を開いたのは七海のほうだった。


「エンマ大王さま」
「お、おう」
「えっと…何話します?」


──そんな話題の振り方あるか。

けれど、至極真面目な顔で七海がそう言うものだから、今までクサクサしていたエンマ大王の心の中は、すっかり元通り。ようやく彼女の意識が自分だけに向いたことがただ嬉しい。


「…じゃあ、七海が最近好きな音楽教えてくれよ!」
「えっ音楽ですか?私そんなに詳しくないですけど」
「いいんだ。あんたが好きな曲を、俺も知りたい」


先ほどまではぬらりひょんしか写していなかったその瞳が、エンマ大王だけを見る。今はそれだけで、ただ満足だ。

そしてあとでぬらりひょんには、謝罪と共に好物である中華料理を振る舞ってやろうと思ったのだった。