狼はいくじなし

コンコン、とノック音がして、わずかな隙間から七海の目が見えた。「大やもり、ちょっといい?」隙間が少し大きくなって、今度は七海の顔全体が見える。

ずっと暗いところにいたせいか、彼女の後ろの光が眩しい。思わず目を細める僕に、七海は「あ、眩しかった?ごめんね」と言った。


「…大丈夫。どうしたの?」
「バイトでクリームパンもらったんだけど、一緒にどうかなと思って」
「…いいの?」
「もちろん。大やもりが良ければ、なんだけど」


それは僕のお城である七海の部屋のクローゼットの中から出るということだった。正直なところ、ここから出たくないとは思っている。だって僕、引きこもりだし…。
けれどすぐに思い直した。クリームパンは食べたいし、何より七海のお誘いなのだ。意を決して、こくりと頷く。それを見た七海がにっこり笑って、クローゼットの扉に手をかけた。ゆっくり完全に開いていく、僕と七海を隔てる扉。僕を気遣って、必ず許可をとってから開くようにしてる七海は、とても優しい。

のっそりクローゼットから体を出した。いくら引きこもりとは言えど、狭いところは体が凝る。思わずぐっと背を伸ばせば、七海はまた楽しそうに笑った。

久しぶりの外の世界(といっても七海の部屋だけど)は何だか眩しくていい匂いがする。それはクリームパンだけじゃなくて、七海の匂いもあるのだろう。何だか安心する匂いだ。そんな七海の傍に、ずっといることができたらいいなあと思う。けれどそう思っているのは僕だけじゃない。だから彼女の近くには誰かいることが多いのだ。

今日も他の誰かがいたりして。

きょろきょろと部屋を見渡す僕に、七海は不思議そうに首をかしげていた。

「大やもり?大丈夫?」
「…ん、大丈夫。なんでもない」


とりあえず今のところ突撃がない様子に、僕は安堵の息をもらす。良かった。しばらく二人きりでいることができるだろう。おかしな行動をとる僕に、再び彼女は首をかしげていたが、特に深く突っ込まれることはなかった。


「じゃあテーブル出してあるから、座ってね」
「…うん」


七海に促されて、僕は準備されたテーブルの一角に腰を下ろした。「はい、どうぞ」差し出されたお皿に、クリームパン。紅茶も添えてくれる。「…いただきます」手を合わせてからクリームパンを口に含むと、優しい味がした。


「ん、美味しい」
「ねー!美味しいよね!本当、うちのお店のパンはどれも美味しくて困っちゃうよ」


「全然痩せなくてさ〜!」そんなことを言いながら、七海もクリームパンにかぶり付く。その全く正反対の行動に、僕は小さく笑った。七海はいつもそうなのだ。「痩せたい!」と言いながら、何だかんだしっかり食べている。もちろん僕は彼女にはダイエットなんて必要ないと思うから、何も言わないのだけど。

クリームパンを頬張りながら、僕らの間で他愛ない会話が続く。それを食べ終え、紅茶に口をつけた後、「そういえば」と七海が言った。


「ん?」
「大やもりは普段何してるの?」
「え?」
「ほら、クローゼットの中で。ゲームとか?」


唐突だなあと思いつつ、頷く。僕に興味を持ってくれるのはとても嬉しかった。

確かに彼女のいうとおり、普段はゲームやネットサーフィンはしている。僕が懐から愛機を出すと、「あ、妖怪パッド」と七海が言った。


「これで遊んでることが多いかな」
「妖怪パッドはウィスパーも持ってるよね。便利?面白い?」
「…うん、便利だし面白いよ。触ってみる?」


軽くそれを掲げて見れば、七海はぱっと目を輝かせた。「いいの?!」「うん、七海が良ければ…」まるでどこかで聞いた台詞だ。けれど彼女はまた楽しそうに笑って、僕の横に移動して座った。
そして横から手を出して、僕が持つ妖怪パッドに触れる。


「わ、すごい!便利!」


彼女が少し動く度、いい匂いがする。僕ら妖怪が好む匂い。その至近距離にドキドキしてしていることを、彼女は気づいているのだろうか。だって少し顔を寄せたら、彼女にキス、できそうな距離。僕だけが意識していて、少し悔しい。


「妖怪の世界もハイテクなんだなあ」
「う、うん。とはいっても、ここ最近だけど、ね」
「そうなんだ!私が妖魔界に行っても暮らしていけそう」
「えっ妖魔界に、来るの?」
「違うよ、例えばの話」


何だ、例えばの話か。がっかり半分、安堵半分。七海が妖魔界に住んでくれたらどんなに楽しいだろう。七海も妖怪になるということだから、ずっと一緒にいることができる。
けれど逆に言えば、今のこの『同居人』という関係はなくなってしまうということだ。今の僕にはどちらの選択肢も好ましくない。何だかんだ僕は今のこの関係に満足している。ただ、それ以上に、僕には彼女に思いを告げる勇気がないのもまた事実で。


「妖怪大辞典見てもいい?」
「うん。誰が見たいの?」
「大やもりがいいなー」
「えっ…やだ」
「いいじゃんー!見せて見せて!」
「やだ」


身を乗り出す七海から、妖怪パッドを高く掲げて、その手を避ける。今度は不自然な体制になる七海を、ちょっと引っ張ればきっとその体を僕の腕に閉じ込めることができるだろう。けれど勇気のない僕には、やっぱりその衝動に身を任せることができないんだよなあ。


「大やもりのケチー」
「ケチじゃないし、他のなら見てもいいから…」
「ほんと?じゃあとりあえずジバニャンから見ようかな?」


七海は僕の好きな人。大切な人。
僕は七海が誘ってくれるから、外の世界にも出るし、こうして他愛ない会話もする。これが相手が大ガマだったら、絶対外にさえ出ないだろう。

七海だから一緒にいたい。
七海だから、苦手なことも頑張れる。


いくじなしの僕は、今日も彼女にこっそり、恋をする。


いつか伝えられたらいいけど、それはずっと先のことなんだろうなって、きゃらきゃら笑う七海を見て思った。