もしもウィスパーが黒幕だったら(2/2)

拭っても拭いきれなかった違和感は、嫌な予感に変わり、ついには確信に変わっていた。

いつもなら急いで向かうバイト先への道を引き返し、慌てて家へと向かう。そこに答えがあるわけではないのに、ただこの「繰り返す夏休み最後の日」から、少しでも違う時間を作りたかったからだった。

暑い。暑いし訳がわからない。

照り返しの強い道を走っているせいで、すぐに息が切れてしまう。特別運動神経が得意なわけでもない普通の私だから、超特急で帰ろうとしても足が追い付かなかった。それでも急いで帰らなければ。重くなっていく足を無理矢理動かし、浮き出る汗も気にせず走る。角を曲がり家が見えたときには既に、走っているのか歩いているのかもわからないような状態だった。


「た、ただいまっ!」


ぜぇ、はぁ、息を切らして玄関を開ける。家の中は静まり返っていた。当然だ。今日は皆出掛けているのだ。お母さんは買い物、お父さんは仕事。そして景太は、友達の家で夏休みの宿題を終わらせに。明日はまた夏休み最後の日だというのに。

とにかく、部屋へ行って着替えよう。一度気持ちを落ち着かせる必要がある。それから。


「おやぁ?なぜ七海さんがここにいるんでしょう?」


突然聞こえた声にはっと振り返れば、ウィスパーがいた。
玄関扉の前で、笑みを浮かべている。
でも、いるのはウィスパーだけだ。


「ウィスパー!景太は?それからジバニャンも!一緒じゃないの?」
「おやおや、七海さん。先に質問したのは私でうぃすよ」


ウィスパーにしては珍しい返事だった。「どうしてここに?」ついと顔を寄せられて、思わず仰け反る。「そんな、避けるなんて酷いでうぃす」という調子はいつも通りではあったのだけど。


「七海さんは今日、バイトのはずでは?」
「あ、えっと。そうなんだけど、その、」
「もしかして、気づいちゃいました?」


「何を?」と条件反射で答えそうになった言葉は一瞬にして声にならなくなった。
「今日」が繰り返している。直感でウィスパーはそれを知っているのだと気付いたからだ。でも、それならなぜ今まで教えてくれなかったのだろう。


「う、ウィスパー、『今日』って、」
「ああ、やはり気付いてしまったのでうぃすねぇ」


ウィスパーはやれやれと頭を振ると、すぐに喉の奥で笑った。嫌な予感に、ドクドクと心臓が鳴っていた。


「せっかく、夏が終わらないように、『アレ』を目覚めさせたのに。全く七海さん、貴女は『素質』がありすぎる」
「な、何のことを言ってるの?」
「ねぇ、七海さん」


ウィスパーは一度言葉を切ると、くるりと私の周りを回った。ウィスパーの尻尾みたいな部分が私の首に巻きついて、耳元に口を寄せられる。ひんやりするそれに、鳥肌がたった。

さっきまではあんなに暑かったのに。


「私がどうして、『今日』を終わらないようにしているかご存知でうぃす?」
「し、知らないよ…。『今日』が繰り返されるなんて困るって!」


元に戻してよ。
そういう私の言葉は、微かに震えていたと思う。それに気付いたウィスパーは、少し声を和らげて「怖がらせてすみません」と言った。それだけ聞けば、いつもの、いやむしろいつも以上に優しいウィスパーだった。
「七海さん、これは貴女とケータくんのためなのでうぃすよ」
まるで諭すような、ウィスパーの声。


「私とケータの?」
「ええ、もちろん。『今日』」が終わらなければ、貴女たちは大人になりませんから 」


──どういうこと?


「ずっと、一緒にいられます。年を取ることもない、死ぬこともない。私と同じ妖怪になっていただければ一番なのですが、それにはあまりにも時間がかかりすぎてしまいますからねえ」
「ちょ、待ってウィスパー!意味がわからない…!」
「おや。言葉のとおりでうぃすが」


ウィスパーはもう一度私の周りを旋回すると、今度は反対側の耳に口を寄せた。鳥肌がたつ。酷く寒い。ガチガチと歯の根があわない。

なぜ。なぜ、ウィスパーは。


「でもね、何も怖くありませんよ。ただ同じ日が繰り返されるだけなんでうぃす」


この夏は牢獄だったのか。


「ずーっと、一緒にいましょうね、七海さん」


ウィスパーの囁く言葉が、頭の中で響いていた。