おてんきあめ

「いらっしゃいませー…あ、」

覗かせた顔にキュウビ、と言いかけて、私はすぐに口を閉じた。キュウビはキュウビなのだが、今の彼は人型を取っている。ぎろりとこちらを睨んでいるところを見ると、やはり本名は呼ばれたくないらしい。一拍おいて「いらっしゃいませ、理科の先生」と言い直せば、彼は満足げに眼鏡の奥で笑った。そして「やあ」と軽く手をあげると、適当なパンを物色し始めたのだった。

なぜ彼はここにいるのだろう。キュウビの好物は油揚げの筈だ。わざわざ人型を取って買いに来るほど、彼はパンが好きなわけではないのに。ひょっとして、人型を取っているときは、人間らしくパンや米を主食としているのだろうか。
優雅な手つきでトングを使い、クリームパンをトレイに乗せる彼を見る。他にお客さんがいないから、余計に彼を目で追ってしまっていた。

ふと顔をあげたキュウビと目があった。私を見たキュウビはますます笑みを深くして、私がいるレジ前へやって来る。「フフフ、狐につままれたような顔してるねェ」実際つままれてるのですけど。…キュウビは何だかとても機嫌が良さそうだった。

「えっと…どうしてここに?」
「どうして?パンを買いに来たのだけど?」

見ればわかるだろう、とトレイを押し出され、渋々お会計をする。

正直、私は納得いってない。だって彼はわざわざパンを買いに来るほどパンが好きではないのだ。ここに来たのも、別の目的があるのだろう。パンを袋に詰めている間、キュウビの視線を感じながら一人思案する。キュウビがここに来た理由は何なのだろう。

「キミはお客さんを前にして、いつもそんなに難しい顔をしているのかい?」
「…はい?」
「眉間にシワ。寄ってるけど」

つん、と眉間をつつかれて、思わずそこを手で隠す。「ククク。キミは本当に見てて飽きないよねェ」と、またキュウビは機嫌よく笑った。

「良かったよ、キミが日本(ここ)に残ってくれていて」
「えっ?」
「ほら、お会計は?」

今、キュウビは何と言った?
しかし聞き返した途端、会計金額を促されてしまい、再度その台詞を聞くことは叶わなかった。

450円です、と告げてキュウビからお金を受け取る。聞き返さなくても、本当は何と言ったか聞こえていた。けれど思わず聞き返してしまったのは、そのときの声色がいつもの意地悪なキュウビらしくなく、とても優しいものだったからだ。そしてふいに触れた指先にどきりとしてしまったのも、それが原因に違いない。

パンを詰めた袋を彼に渡すのにも、何だか勇気がいる。顔をあげることさえ恥ずかしい。「お待たせ、しました」俯きながら商品を渡すなど、接客業としてはあるまじき行為だ。

しかしキュウビはそんな私に不機嫌になることなく、ふふふと笑った。

「ケータがいなくなって、つまらなくなるかなと思ったけど」
「え?」

キュウビは笑みを眼鏡の奥で目を細めると、レジのあるカウンターに身を乗り出した。反射的に仰け反る私の手首をつかんで、耳元に口を寄せる。「キミがいるなら問題ない」
香水の匂いがする。キュウビに、そんな趣味があったのか。

「…これからもよろしくね」

末永く、ずっとね。そう囁いて、キュウビは私の手首を解放した。茫然とする私を置いて、彼はお店を去っていく。

──お店に誰もいないからって、調子に乗りすぎだ。

そうは思いながらも、私は自身の顔が火を吹くほど熱いことに気付いていたのだった。