大人の宿題

どうしてこうなったんだろうと考えても、私の中で答えを見つけることができなかった。


ぬらりひょんの執務室にやって来たのはつい数分前のことだ。その間ただの世間話をしていただけのはずなのに、私はどこで彼の琴線に触れてしまったのか。あっという間に手を取られて、執務用デスクに追いやられてしまった。

ぬらりひょんが左手を掴んだまま私を押さえつけ、右手はデスクにつけている。
逃げる道はなくて、このままだとデスクに乗り上げてしまいそうだった。

さらりと彼の白い髪が頬を掠めた。
こんな近い距離まで近付いたのは初めてだ。ぬらりひょんはどこか私と距離をとっていたし、私もそうだったはずなのに。彼は意図も簡単に距離を縮めてみせた。

私はどこかで、彼にはそんなこと無理だと思っていたのかもしれない。だからこそ今、こんなにも動揺している。

「ぬ、ぬらりひょんさん…?」

私の呼び掛けにも、彼は黙ったままである。ただ私のことをじっと見下ろしている。黒というよりも灰色に近いその瞳の奥で、ぎらりと何かが光ったような気がした。

「あの、」
「七海殿は」
「はい?」
「七海殿はなぜここに、この妖魔界にやって来る」

ようやく言葉を発したと思ったら、予想外の質問に再び思考が止まる。なぜと言われても、エンマ大王に仕事を手伝って欲しいと頼まれたからだ。もちろん私はこの世界が好きなので、頼まれなくても手伝いに来ることはあるが。そんなようなことを伝えると、ぬらりひょんはふん、と鼻をならした。

「大王様、か」
「え?」
「そなたがここに来る理由だ」

正直、ぬらりひょんの言いたいことがわからない。確かにここに来る理由を「作ってくれている」のはエンマ大王だけど、それがどうしたのだろう。まさか気軽にここに来てはいけなかったとか?
私がここに来るのは、ぬらりひょんにとって迷惑だということだろうか。

「えっと…ご、ごめんなさい」

しかしそういう私に、彼は露骨に顔をしかめたのだった。

「なぜ謝る?」
「その…迷惑だったのかな、と思いまして…」

最後の方、私の声は尻すぼみになっていた。けれどこんな近い距離だから、彼も聞き漏らすことはしない。ぬらりひょんは一瞬の沈黙のあと、「迷惑…そうだな、迷惑かもしれぬ」と言った。

「七海殿が、大王様目当てに来られるのは甚だ迷惑だ」

ああ、やはり迷惑だったのか。確かにここは人間が気軽に来てはいけないところなのだろう。特に私みたいな凡人が、エンマ大王とお近づきになるなど端からおかしな話だったのだ。
そしてそれは当然、議長であるぬらりひょんにも言えることで。
今まで出会ってきた妖怪たちは、皆気安い子ばかりだったから、調子に乗っていたのかもしれない。

「その…本当に、ごめんなさい、私…」

自分の立場も弁えずに。

私を押さえつける彼の手に、少し力がこもる。「何か勘違いしているようだが」戸惑いながら見上げれば、相変わらず不機嫌な目と目が合った。

「エンマ大王様が理由でなければ、それで構わんのだ」
「…はい?」
「…私でもいいではないか」

一瞬、何を言われたのかわからなかった。ぽかん、と口があいたまま、彼を見上げる。いつもは冷静なその表情に僅かな焦りとすがるような目が見えて、一気に顔が熱くなった。

ぬらりひょんは、エンマ大王目的ではなく、彼自身に会いに来てほしい、と。

まさかそんなことを言われるなんて、誰が想像しただろうか。

「えええっと、その!あの!」
「私とて仕事が山ほどあるのだ。わざわざ大王様を経由せず、直接私のところに来い。七海殿であれば…歓迎する」

最後、早口にそう述べると、ぬらりひょんは手を離した。先の尖った耳が、わずかに赤くなっている。
体が離れて自由になったと言うのに、あまりの衝撃に動けなかった。

「それから」
「は、はい!」

振り返ったぬらりひょんに、びくりと肩が揺れた。コホン、とわざとらしい咳払いが一つ。緊張しているのは、私だけではないらしい。

「犬まろや猫きよに甘すぎだ」
「ご、ごめんなさい」
「頭撫でるのは控えろ」
「努力、します」
「…ならいい」

まだ他にも言いたげな雰囲気であったが、ぬらりひょんはふん、と鼻を鳴らすと、再び私に背を向けた。「私はエンマ大王さまのところに行ってくる」ぬらりひょんこそ、エンマ大王のことばかりではないかと思ったけれど、結局口にすることはなかった。「…ここで待っててくれ」こちらを振り向くことはなかったその背中を、「はい、」と答えながら見送ることしかできなかったから。

私とぬらりひょんの関係は、これからどこへ向かうのだろう。

その答えを、ぼんやりする頭で考えていた。