えんえん続く畦道の果て
私はいつから、この道に迷いこんだのだろう。そしてどれくらい歩いているのか。ぼんやりと足を動かしながら、私はそんなことを考えていた。
真上にある太陽を見上げてみる。日を遮るものが何もないから、眩しい上に暑い。鞄に入れていたペットボトルを取り出すと、残りはあと僅かとなっていた。
飲み物が欲しい。水でもお茶でも、喉の乾きを潤せるものが。
しかしそう思ったところで、ここは畦道だ。見渡す限りの田んぼと、ところどころ不気味に立っている案山子が見えるくらいで、飲み物を買える店も自動販売機もないのが現実である。
やっぱり、歩き続けるしかないか。
でも、いつまで──
自問自答の答えを知るのが怖くなって、私は慌てて頭を振ったのだった。
一度止めかけていた足に力を込めて、前へと進む。ふと誰かの視線を感じた気がして振り向いたが、そこには何もない。気のせいだと思い直して前向くと、遠く霞んだ先から何かがこちらに向かってくるのが見えた。それはゆらゆらと空中を浮遊していて、まるで私の足はそれに引き寄せられるように向かっていく。
あ、という声が口元まで出かかっていた。こちらに向かってくるのは水色をしたフクロウだったのだ。けれど、多分あれはただのフクロウではない。
妖怪だ──
本能的に、「この何もない道で妖怪に出会うのはまずい」と判断した私は、吸い寄せられるように動かしていた足を無理矢理止めた。フクロウはゆっくり近付いてくる。
すれ違う寸前、きょろりと私を見やったフクロウだったが、それは一瞬だけでふいとまた前を向く。「そら耳かなあ〜」そんなことを呟いていた。そして何事もなかったように通りすぎていくと、私が来た道へと消えていってしまったのだった。
いつの間にか息を殺していたらしい。すっかり忘れていた呼吸を取り戻して息を吸う。ドキドキと心臓の血が流れ出した感覚を覚えて、私は大きく息を吐いた。
額にはじんわりと、汗をかいていた。
その後も、私は何体もの妖怪とすれ違うことになる。私が知らない妖怪ばかりかと言えばそうではなく、唐傘おばけのように知っている妖怪もいた。しかし、どの妖怪も私には気付かなかったように通りすぎていくだけだった。もちろん私もすれ違う度息を殺してはいたけれど。
「何なの、ここは…」
そして見つけた自動販売機。確かに飲み物が欲しいとは思っていたけれど、何でこんなところにあるのか。古めかしいその箱を見上げれば、飲み物がディスプレイされているものの、100円と1000円のボタンしかない。
「1000円ってぼったくりじゃない…」
喉を潤せるなら、水でもコーラでも何でも良かった。但し、高いのは論外だ。
肩にかけていた鞄から財布を取り出して、迷わず100円を取り出す。そしてコイン投入口にいれようとしたときだった。
「おやおや。こんなところで会うなんてねえ。その自動販売機は使わない方が身のためよ」
「えっ」
突然近くで聞こえてきた声に振り返る。するとそこには今までいなかったはずのおばあさんがいた。
田んぼの収穫途中なのだろうか。手に鎌を持っている。私より少し背が低く、にこにこしながらこちらを見上げている。
「あ、」
良かった。ヒトだ。
妖怪ではないその存在は、私にとっては心強いものだった。しかし、その考えも一瞬で訂正される。
この道は、妖怪ばかりが通りすぎていく道なのだ。
──もしかして、このおばあさんも…
私が一歩後ろに下がると、そのおばあさんは困ったような顔をした。
「おや。怖がらせてごめんねえ。貴女が困っているみたいだったから」
鎌を背中に隠して、もう一度「ごめんねぇ」と苦笑する。その様子に、今度は途端に罪悪感に見舞われる私だった。一体、私は何をやっているのだろう。初対面の人に対してあまりに失礼ではないか。
「あ、こちらこそすいません…少し、驚いてしまって」
「いいのいいの。私が急に話しかけたりしたから」
「気にしないで」と言うおばあさんに、私は小さく頷いた。
「あの、ところで、この自販機のことなんですけど」
「あら、やだ!私ったら何で貴女に声をかけたのかすっかり忘れてたわ。年かしらね。ふふふ」
おばあさんは鎌を地面に置くと─私への配慮らしい─、今度は私の横へと並んだ。自動販売機を一緒に見上げる形になる。
「この自動販売機、壊れているみたいなの。飲み物ではなくて、たまに変なものが出るのよ」
「変なもの?」
「そう、例えば──」
──妖怪とか。
ぞくっと背筋に悪寒が走った。ばっと隣を見下ろすと、変わらずおばあさんはにこにこと笑いながら自動販売機を見上げている。
ごくりと生唾を飲み込んで、気付かれないように距離を取ろうと試みたが、すぐに彼女はこちらに気づいた。
細い瞳が、私を見つめる。
「あ、」
「…なあんて、ね」
「…えっ」
「ふふふ。妖怪が出る自動販売機だったら面白いわよねえ」
どっと汗が吹き出していた。しかしどうやらあれは彼女の冗談だったらしい。再び殺していた息を吸って吐き、思わず「吃驚した…」と呟くと、「妖怪が自動販売機から出てくるなんてあり得ないわよね」とおばあさんは言った。
そうだ。自動販売機から妖怪が出てくるなんてあり得ない話なのだ。
全く、笑えない冗談である。
「ふふふふ。さて、私はそろそろ行こうかねえ。ねえ、貴女名前は何て言うの?」
「えっ、あ、七海です…」
「七海ちゃん。良いお名前ねえ。これを貴女にあげるわ」
おばあさんが差し出してきたのは、私が欲しいと思っていた飲み物だった。「い、いいんですか?」「ええ。驚かせてしまったお詫びよ」逡巡したものの素直に受け取り、「ありがとうございます」と頭を下げる。これで少しは喉の渇きが潤いそうだ。
おばあさんは素直に受け取った私ににこりと笑うと、「よっこらせ」と呟きながら置いた鎌を持ち上げた。そしてゆっくり、私が来た道へと歩き出す。
このままもう二度と会うこともないのだろう。そう思いながらすれ違う瞬間。
「ねえ、七海ちゃん」
「はい?」
「次、会う時には──」
「えっ?」
私よりも低い、おばあさんを見下ろす。おばあさんも、また細い目で私を見上げている。今、彼女は、何を──。
「ふふふ。何でも無いわ」
おばあさんはヒラヒラと手を振ると、ゆっくり道の先へと消えていった。そこに残された私は、ただその後ろ姿を見送るだけだった。
───次、会う時は、食べ頃かしらね?
本当は、耳に残っていた。あのとき、聞こえた『彼女』の呟きは、一体──。
おばあさんから受け取った飲み物を握りしめて、私は、おばあさんとは反対の方向へと再び歩き出した。あえて何も考えない。ただひたすら、無心で進んでいく。それが私にとって、一番いいことだと思えたから。
静かだった畦道に、遠くから蝉の声が戻ってくる。
この道の終わりは、もうすぐそこだ。