姉の初恋(2/3)

小学生にとっての夏休みは長いようで短い、時間の連鎖だ。ただ無意味なようで有意義な毎日を、駆け足で過ごしていく。
当然私もその中を、ただひたすらに駆けていて、終わりなんてないように感じていた。

彼にあったのはそんなとき。あの暑い夏の日。忘れもしない、私が初めて恋をした日だ。


その日、私は学校のプールで遊んだあと、団々坂にある「かわしま商店」で駄菓子を買い友達と話し込んでいた。内容はこの前三角くじで当たった指輪のこととか、今度の夏祭りに誰を誘おうかとか、同じクラスの誰々ちゃんが誰々くんのことを好きらしいよ、とかそんな話。小学生の会話なんていつもそんなものだ。


「あ、もうこんな時間!」


小学生であっても、女の子の話は尽きることがない。気付いたときにはもう辺りは夕焼け色に染まっていた。日が暮れるまでに帰らないとお母さんに叱られてしまう。それに家に帰ったら弟の景太と一緒に遊ぶ約束していたのだ。


「ごめん、みっちゃん!私そろそろ帰るね!」
「うん、じゃあ私も!七海ちゃん、ばいばーい」
「ばいばーい!」


慌てて食べかけのお菓子をポケットに突っ込むと、友達に手を振って私は駆け出した。

早く帰らないと。そのときは確かに、そう思っていたのに。


「こっちこっちぃ〜」
「え?」


どこから聞こえた声に、私は足を止めた。辺りを見回しても何もない。なのに、声だけはしっかり聞こえる。「こっちこっちぃ〜」手招きするような、そんな声。


「…誰?」


当然呼び掛けても答えはなくて、何だか怖くなってきた。でもそのとき、怖いもの見たさの人間の本能に逆らうことはできなかったのだと思う。「こっちこっちぃ〜」「こっち?」私はいつのまにか早く帰らないといけないということを忘れて、夢中でその声の主を追ったのだった。

団々坂の坂道を上ったり下ったり。小学生の私にとってあの町は迷路だ。でも、まるで行き先を知っているかのように私は走る。
目に見えない声の主が、まだ私を呼ぶからだった。「こっちこっちぃ〜」体育が得意なわけでもないのに、不思議と息が切れることがない。走り去る私を、大人は誰も見ていなくて、まるで自分が風にでもなってしまったような感覚だった。

正天寺を過ぎて、壊れたガードレールの先に進む。「こっちこっちぃ〜」招く声はまだ止まらない。不気味なカーブミラーを通りすぎた。薄暗いその道で、チカチカと電気が瞬く。

あれ、ここはどこだろう。

そう思った瞬間、私を呼ぶ声は聞こえなくなってしまった。足を止めて耳を澄ます。でも、聞こえない。


「…ここ、どこ?」


今更ながら息が弾んできた。はっはっ、と短く酸素を求める音がやけに響いていた。辺りを見回しても、そこは私の全く知らない場所で。そこで初めて私は迷子になったのだと知ったのだった。


「どうしよう…」


何であのときあの声を追いかけてしまったのか。何で早く帰らなかったのか。後悔ばかりが押し寄せる。でも、ここには誰もいない。道を聞けるような大人も、誰一人。あの声の主だって。


「お母さん…お父さん…ケータ…」


このまま私は、誰にも知られずここで死んでいくのだろうか。もうお母さんにも、お父さんにも景太にも会えないままで。最近生意気になってきた弟だけど、かわいくて、今日も遊ぶ約束をしていたのに。

私はここで一人死んでいくの?


「う、うう…」


泣いちゃ駄目だ。そう思っても、涙が溢れていく。ぽた、ぽた、と地面に染み込んでいってついにしゃがみこんだとき、だった。


「おや、こんなところに人間の子どもがいる」


頭上から声がした。
はっと顔をあげれば、その人の顔は暗がりでよく見えない。でも大人の男の人。


「だ、誰…?」

「君こそ誰だい。ハジメマシテの人にはちゃんと名前を言わないと」


確かに、この人のいうとおりだ。
もしもこの人が怒ってどっかへ行ってしまったら、私は永遠にひとりぼっち。そんなことにはなりたくなくて、子どもながらに必死で頭を動かした。

なるべく、礼儀正しく。

私はぐいと涙を拭うと、立ち上がって頭を下げた。「私は…天野、七海、です」落ちていってしまいそうな顔をあげて、精一杯この人を見上げる。そこでようやく、その人の顔を見ることができた。金に近い髪の毛を後ろで縛っている、端正な顔立ちなお兄さんだ。

「七海?」私の名前を確かめるように呟いたあと、ふうん、とまるで興味がないように、この人はいう。「あの。お兄さんは、」必死で絞り出した声は、不安に掠れていた。


「ボクはきゅ…いや、尾裂狐(おさき)」
「おさき、さん?」
「そう。よろしくね」


尾裂狐さんと名乗ったお兄さんは、私の身長に合わせるように膝を折ると、ぽん、と手を頭にのせた。ひんやりしたその感触だったのに、安心して涙がまた出てくる。「おやおや」困ったような楽しそうなそんな声に、私は涙を止めようと必死だった。ここで泣き続けたらこの人はどこかへ行ってしまう。そう思ったから。


「あのっわたし、迷子、で!」
「うん、そうだろうね。普通こんなとこに来ないし」
「か、帰り道がわ、からなくて、」
「そりゃ、迷子だものねェ」
「お、おさきさんは、」
「ん?」
「帰り道、知って、ますか…?」


溢れる涙を拭いながら、私は必死に尾裂狐さんを見上げた。お家に帰りたいの。私の宝物をあげるから、お願い。尾裂狐さんはしばらく何も言わずに、じーっと私を見下ろしていた。けれどふっと口元を緩めると、再び頭に手を乗せてくしゃくしゃと髪の毛をかき混ぜてきた。突然のことに思わず涙も引っ込んでしまう。ようやく手が止まったとき見上げれば、彼は細い目をさらに細めて、笑った。


「仕方ない子だねェ。今日だけ特別だよ」


それは肯定の返事だった。良かった、これでお家に帰れる!「ただし、」一度言葉を切ると尾裂狐さんは立ち上がった。キョロキョロと辺りを見回して、一つ頷く。「ボクは一緒に行けないよ」


「えっ…何で…」


私がわかるところまで連れていってくれるのではないのか。この薄暗い道を、一人で歩いて帰るの?再び不安が押し寄せて、涙が出そうになる。「泣かないの。帰り道を教えてあげるから」でも、一人で帰れるかわからないのに。


「大丈夫。ボクが絶対に迷わない道を教えてあげる」
「ほん、とう?」
「もちろん。いいかい、ここから真っ直ぐだ。ただ真っ直ぐ走ればいい」


尾裂狐さんが指す指の先を私は目を凝らしてみる。ただ薄暗くて、逆に迷ってしまいそうな道だ。本当にこの道でいいの。そんな一抹の疑念を込めて見上げれば、落ちてきたのは存外優しい彼の目だった。


「大丈夫。この道をいけば必ず帰れる。でもね、一つ言うことを聞いて」
「?」
「決して後ろを振り向いてはいけないよ。もし約束を守らなければ…ボクにはもう、どうすることもできない」
「それって、どういう…」
「とにかく、後ろを振り向かない。そのまま走る。いいね?」


思わぬ気迫に私はこくこくと首を振った。「よし、いい子」再び頭の上に手がおかれる。二三度撫でられて、そのままするりと頬が撫でられた。


「そんな不安そうな顔しないでよ」
「だって、」
「それじゃあボクが君に魔法をかけてあげよう」


それから、前髪を優しくかきあげられて、そこに触れた柔らかな感触。一瞬だったけど、私は確かにそのとき、尾裂狐さんにキスを落とされたのだった。
「え、」という暇もなかった。「さあ、お行き」柔らかい声で、尾裂狐さんが私の肩を掴むと、くるりと帰り道に向かせて背中を押した。お礼を言いたくて振り向こうとしたけれど「振り向かない。約束だろう?」そう言われて、私は振り向きたくなる気持ちをこらえて走り出した。ただひたすら、前へ前へと足を動かす。また不思議と息が切れることはなく、尾裂狐さんのいうとおり、恐怖もなかった。

そして気づけば、私は正天寺の前にいたのだった。