あの夜に還りたい
執務中、ふと視線を感じて顔をあげれば、こちらをじっと見やる七海と目があった。どきりとしたが、そんな様子はおくびにも出さない。
頬張っていたりんご飴を手に持ち直すと、「何だ?」と平然とした顔で聞き返した。
「いえ、大王さまはりんご飴が好きなんだなあ、と思いまして」
「…何でそう思うんだ?」
「だって…いつも食べてますよね、りんご飴」
「何か特別な思い入れが有るのかなあって」そう続ける彼女の言葉に、再びどきり、とする。まさかあの日のことを覚えているのだろうかと淡い期待を抱いたが、それはすぐ打ち消した。
覚えているわけがないのだ。久しぶりに再会したときにも確かめている。あの頃彼女は幼くて、エンマ自身も今の風貌とはまるで違ったのだから。
「あー…まあ、好きだな」
「美味しいですよね、りんご飴。私も好きですよ」
何ともなしにそう言う彼女に曖昧に頷くと、エンマ大王は手に持っていたりんご飴を再び口へと運んだ。それは僅かな苛立ちと悔しさを隠すためだった。
──自分だけが、覚えている。
その事実が、ただ悔しいからだ。
あの日のこと。
「人間」という存在の概念を覆されたこと。
初めて抱いた感情のこと。
彼女にずっと会いたいと思っていたこと。
なぜ、りんご飴が好きなのかということを。
仕方がないとは思っていても、いざ目の当たりにすると、どうしようもない黒い感情が渦巻いてくる。
エンマ大王にとって、七海はまさに「妖怪生」を変えた人物だった。それなのに、彼女にとって自身はとるに足らない存在だと思われているような気がして、卑屈的になってしまう。
──「らしく」ねぇ、な。
エンマ大王は出かけたため息を飲み込むと、もう一度彼女を見やった。りんご飴の話はもう終わったようだった。今は既に先程任せた仕事に取りかかっている。
横顔にかかる髪の毛のすき間から、伏せた睫毛が見える。そこに妙に色気を感じて、こんな感情を抱くこと自体間違っているのかとさえ思った。わが優秀な部下であるぬらりひょんが聞いたら、どう思うのだろう。「人間に恋慕の情を抱くだなんて、何をお考えか」と怒るだろうか。
「なあ、七海」
「はい?何ですか?」
「もしも、俺が」
──アンタを好きだといったら、どう思う。
「いや、やっぱり何でもねえ」
喉まで出かかった台詞を飲み込んで、エンマ大王は首を振った。不思議そうに、七海がこちらを見ていたが、今はそれを真正面から受けとる勇気がなかった。
「仕事がたくさんたまってたし、疲れちゃいました?」
「いや、別に。そんなんじゃねぇんだけど」
「少し休憩しましょうか!あ、えびせん食べます?」
「私たくさん持ってるんですよ」と言いながら、彼女はがさごそと自身の鞄をあさる。そうやって気を使うところは彼女らしく、「好きだなあ」と思うのだが、その優しささえ今は苛立ちと悔しさを助長させる原因だった。
人間と妖怪。この差を埋めることはきっとできない。
「あ、あった。一つでいいです?」
「いや、いらねー」
「えっ。そうですか?」
「今食べたら、りんご飴の味と混っちまうだろ」
それは自身の「想い」を汚されているような気がして。エンマ大王は未だに心配そうに見つめる彼女の視線を避けて、書類へと目を向けた。
「…大王さま、あまり無理はしないようにしてくださいね」
「ああ、わかってる」
いつからこんなに苦しくなったのだろう。
伝えることも、交えることもできない想いをどう消化したらいい。
りんご飴の味が、初恋の味なのかと密かに思いながら、がりっとそれを噛み砕いたのだった。