蜘蛛の赤い糸(2/2)



小指に巻かれた糸が気になり出した私は、日中小指を眺めることが増えた。ぎらぎら光るその糸は、取れることはないし、もちろん赤くもない。

一体何のために、誰が巻いたのか。

未だにわからずじまいだった。

そして、あれから私は少しだけ、女郎蜘蛛に警戒している。でも女郎蜘蛛は変わらず優しかったし、先日くれたハンドクリームは私の手によく馴染んだ。いつもどおりお喋りして、お菓子を食べて、いつもどおり「友達」同士。別に変なこともされていない。

──やっぱり思い過ごしなのかな。

何度も自問自答しては、女郎蜘蛛の顔をみる度に否定している。でも心のどこかで疑っているのもまた事実で。

「はあ、」

何となく憂鬱な気分になって、ため息を吐き出すのだった。



その日は珍しく、バイト先での閉店処理に時間がかかってしまっていた。

お店を出て時計を確認すると、10時近い。高校生である私が出歩いていていい時間ではなく、足早に家へと向かう。

あと少しで家だというところで、嫌な予感がした。
粘着質な空気が、私の周りを囲っている。

──誰かに見られている?

足を止める。大きく息を吸って、意を決して振り向いた。
生暖かい風が頬を撫でるけれど、誰もいない。

「気のせいか…」

早く家に帰ろう。
私の嫌な予感はよくあたるのだから。

先ほどよりも早く足を動かすけれど、やたらと足が重かった。

「ちょっと、」

勘弁して。

しかしその声も、出てこない。まるで金縛りにあってしまったみたいだ。
ついに私の体は動かなくなった。

ぞわぞわと背筋に悪寒が走る。鳥肌。生暖かい風は相変わらず頬を撫でていく。
かろうじて動くのは眼球だけで、下を見ると、真っ黒い「何か」が私の足元から上へと這い上がろうとしているところだった。

怖い。

──誰か助けて!

叫びたくても叫べない。
恐怖とともに、私の体が黒い何かに覆われていく。
何で、何で、こんなことに。

──誰か!



「七海!」

その声が聞こえた瞬間、私の体は一瞬にして軽くなった。
崩れ落ちそうになった私の体が、誰かに抱えられる。白粉の匂い。「大丈夫?」少し低くて、男性なのに優しい声。

「じょ、女郎蜘蛛…」
「よかった。無事だったみたいね」

女郎蜘蛛だった。

にこりと笑って「もう大丈夫よ。怖かったわね」と優しく頭を撫でてくれる。
彼の顔を見て、ようやく私は助けてもらったんだということを理解した。

「女郎蜘蛛…!」
「大丈夫。大丈夫よ」

ぎゅっと強く袖を握る。
着物にシワがつくかな、なんて考える余裕もないくらい。
生まれてこの方、味わったことのない恐怖だった。
「私」という存在が「無」に帰ってしまうような気がした。
涙がぽろぽろとこぼれて、止めようと思っても体の震えは止まらない。
女郎蜘蛛にお礼を伝えることも、大丈夫だということも言えずに、ただ彼の胸にすがるしかなくて。

けれども、そんな私に、女郎蜘蛛は優しく声をかけてくれる。私が泣き止むまで、震えが止まるように肩や背中を撫でてくれたのだった。


「…そろそろ落ち着いたかしら?」

どれほどそうしていただろう。私の震えが収まった頃合いを見計らって、女郎蜘蛛が私の顔を覗き込んだ。

「う、うんっ。ごめん。ありがとう女郎蜘蛛」

女友達みたいな女郎蜘蛛とは言え、彼はれっきとした男性だ。
急に気恥ずかしくなって、涙を拭うと慌ててその腕から抜け出そうとする。けれどそれは叶わずに、逆に抱き込まれてしまった。

「じょ、女郎蜘蛛!?」
「よかったわ。何事もなくて」

今度は女郎蜘蛛が震えているようだった。ぎゅうと強くなる腕の力が、少し痛い。

「七海に何かあったら私…」そこまで心配させてしまっていたなんて。ありがたさよりも申し訳なかった。

「あの…心配かけてごめんね」
「いいのよ。結果的に無事だったのだから」

痛いくらいの力が緩んだ。ぽんぽんと背中をたたかれて、女郎蜘蛛の腕から解放される。
暗がりで顔が見えなくてよかったと思う。だって私、絶対今顔が真っ赤だ。

「女郎蜘蛛、さっきのは一体…」

恥ずかしさが増してきて、慌てて話題を変えるように、スカートを直しながら聞く。女郎蜘蛛は困ったように眉を寄せると、横に首を振った。

「私にも正体はわからないわ。ただ、あなたを狙っていたことは確かね」
「え!?」

狙われる?

確かに妖怪から目をつけられることが多い私だけれど、今までこんなことなかったのに。

「小指。糸が巻かれているでしょう」

はっとなって、慌てて小指を掲げる。その糸はこの暗さでもぎらぎらと光っていた。

「これはね、妖怪が人の子を食らうときに、獲物につける印なのよ」
「え!?!?」
「七海は霊感が強いから…。さっきの輩は、きっとあなたを食べて力をつけようとしたのね」
「そんな…」
「本当はずっと気になっていたのだけど…早く教えてあげればよかったわね…」

「七海を怖がらせないようにしないと、と思って…」と女郎蜘蛛は続ける。どうやら私を慮ってあえて狙われていることを言わず、襲われないようにと守っていてくれたらしい。

この糸を巻いたのは女郎蜘蛛ではない。あの得体のしれぬ妖怪だった。
そして女郎蜘蛛は、そんな妖怪から私を守ろうとしてくれていたのだ。

「女郎蜘蛛…!ごめん!ごめんね!あの、私、この糸を巻いたの、」
「わかってるわ。私だと思ったのよね」

静かな声だった。相変わらず困ったように眉を寄せて、微笑んでいる。

罪悪感で押しつぶされてしまいそうだ。

「うん…。あの、本当に、」
「いいのよ」

女郎蜘蛛は再び距離を縮めると、私の体に腕を回した。
白粉の匂いが、優しく鼻に香る。女性らしいのに、男らしい。こんなにも優しい彼を、どうして私は疑ってしまったのだろう。

「あなたが危険な目に合わなくて済むなら、私は疑われてもかまわないわ」
「女郎蜘蛛…」

「でも、一つお願いしてもいいかしら?」

一度言葉を切ると、女郎蜘蛛は額を私の額に合わせた。初めてここまで近づいた距離にどきりとしてしまう。
きりっとこちらを見つめる女郎蜘蛛の瞳が、少し熱っぽかった。


「またあの妖怪がいつ襲ってくるかわからない。だから、私にあなたを守らせて」

うん、とうなずく返事の代わりに私は彼に抱き着いた。
疑ってしまったことへの謝罪と、彼からのお願いに答えるように。






「ありがとう七海。私のかわいい子。」

熱に浮かされた私は、その言葉の真意に、一生気づくことはないのだろう。
小指に巻かれた糸は、ぎらぎらと光り続けて、堕ちるところまで堕ちるしかないのだから。