呼応

体全体が吸い込まれ、すぐに吐き出される感覚のあと、私の足は地についた。カツン、とローファーの踵が音をたてる。静かなその場所に、音はよく響いた。


「ありがとう、うんがい鏡!助かったよ」
「ぺろーん。どういたしまして〜。私はいつもここにいますから、必要であればいつでもどうぞ〜」


振り返り、私が「通ってきた道」、うんがい鏡の鏡面を撫でる。「くすぐったいです七海さん〜」ひんやりしたその感触は私の指先に気持ちいい。そしてうんがい鏡も、くすくす、と嬉しそうに笑った。


「それはそうと、夜の学校は危険ですからね〜。いくらオロチ様がいるとは言えど、お気をつけて〜」
「へっ?!あ、ああ、うん」
「オロチ様とはぐれないように〜」


擽られた仕返しとでも言うように、今度は悪戯気に笑う。まさか私がここに来た理由を知っているとは。不意をつかれ、逆に恥ずかしい。「皆さん誰もが知ってますよ〜」オロチと「特別な関係」であることは、隠しようがないことのようだ。


「…ちゃんと気を付けるよ。それじゃあ行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃいませ〜」


うんがい鏡はヒラヒラと腕をふると、自分を抱えるようにして目を瞑った。それを見て、私も歩き出す。今日はオロチのパトロールに同行する日。今夜はどんなことをするのだろう、とワクワクしながら、オロチの待つ学校の屋上へと向かったのだった。


私とオロチが会うのは、だいたい夜の時間だ。なぜなら彼は妖怪で、昼よりも夜の方が得意だし、私も昼間は学校・バイトと忙しいからである。もちろん、オロチがバイト先まで迎えに来てくれるのは今も日課になっており、そこで会うことはできるのだが、短い逢瀬では物足りなくなると言うのが恋人たちの世の常と言うもの。とはいってもオロチは、夜の時間はこのさくらニュータウンの平和を守るため、見回る必要がある。結局、私がオロチのパトロールに付き合うことで、埋め合わせをすることにしたのだった。ちなみに、本人は私を危険にさらしたくないからと渋い顔をしていたが、今では容認している。それほど私たちは、「お互いの時間」が忙しいのだ。

ローファーを脱いで廊下を歩いているからか、今度は布が擦れる音が響いていく。しんと静まり返った学校は、とても不気味だ。いくら私に妖怪の耐性がついているからと言っても、怖いと感じてしまうのは当然だろう。妖怪のオロチには会いたいけれど、幽霊には会いたいと思わない。…そういえば幽霊と妖怪の違いって何なんだろう。今度オロチに聞いてみようかな。

廊下の突き当たりに、屋上へと続く階段がある。そこに足をかけようとしたときだ。「…?」どこかで何かの物音がした。ピアノの音のような気がする。ぽーんぽーんと鍵盤を確かめるような音が、遠くで響いていた。「な、なに…」これはもしや妖怪不祥事案件──いや、学校の怪談で言うところの、「真夜中の学校の音楽室でひとりでに鳴り出すピアノ」だろうか。「さささすがに私も怖いんですけど…?!」一人で呟いたところで誰も会話をしてはくれない。オロチは屋上なのだ。震えだしそうになる足をなんとか動かし、足を階段にかけたところで。


「おい」
「んぎゃ??!」


ぽん、と肩を叩かれた。思わず蹲れば「七海、何やってるんだ」呆れたような声が落ちてくる。見上げればそこにいたのは私が会いたかったオロチで。「お、オロチ〜!」心臓はバクバクだ。リアル学校の怪談(階段)だよ!おもしろくない冗談だ!


「どうした、そんなに顔を真っ青にして」
「だ、だって、ピアノ!おと!それから肩をぽんて!いきなり!!」
「…よくわからんが悪かった。落ち着け」


蹲ったままの私の頭をオロチがポンポンと叩く。その手を受けて私は深呼吸すると、ようやく暴れだしそうだった心臓も落ち着いてきた。そして次にやってきたのは羞恥心。いつも「落ち着いている」と言われることの多い私にはあるまじき行為である。なんて恥ずかしい。

「ごめん、落ち着きました…」立ち上がって、不思議そうにしているオロチに向かい合う。「それなら良かった」薄く微笑む彼の目を見て、ほっと人心地つけたような気がした。


「さっき、どこからかピアノの音が聞こえてきてね。さすがに怖くなっちゃって」
「…ああ、あのピアノは音楽室でモテモ天が弾いているんだ。レディに聞かせるために練習しているとか言っていたな」
「ああ、そうなの…」


モテモ天。なんて迷惑な妖怪なんだ。


「七海が怖がるなんて珍しいな」オロチはそういうけれど、私だって悲しいほどに普通の女の子なのである。


「いや、さすがに私も夜の学校はちょっと…ほら『学校の怪談』とか『七不思議』とかよくあるじゃない?」
「ああ、あれはだいたいそこに住む妖怪たちの仕業だな。気にすることない。遊んでるだけだから」
「そ、そうなの…」


オロチに言われると、全く大したことのないような気がしてくるから不思議だ。ただそれでもまだ私の顔色が悪かったのか、一瞬口をまごつかせると、そっと手を取られた。


「オロチ?」
「…行くぞ」


手を引かれて、階段を登りだす。温もりはないけれど、オロチの手は優しい。この手に掴まっていればもう怖いものはないだろう。

半歩前をゆくオロチのマフラーが、気遣わしげに私を振り返った。大丈夫だよ、という意味を込めて頭を撫でる。そこでふと落ちてきた疑問。

「そういえば、オロチはどうしてここに?てっきり屋上で待ってると思ったんだけど」

ぴくりとオロチの肩が跳ねたが、こちらを振り替えることはなかった。代わりにぼそぼそと何かを口にしている。


「ん?ごめん聞こえなかった」
「…早く、会いたかったからだ」


「だから迎えに来た」そして付け足した言葉は、尻すぼみになっていった。半歩後ろから見下ろすオロチの耳は赤い。私の頬も熱い。


「ありがとう、オロチ」
「…いや、礼には及ばない」


オロチのおかげで、私が感じていた恐怖はもうすっかり消え去っていた。
私も早く会いたかったよ。そんな気持ちを込めて、ぎゅっと彼の手を握ったのだった。