対岸のきみ

失礼します、と声をかけて扉を開けると、そこにいたのはエンマ大王ではなかった。


「あ…こんにちは…」
「……」


気まずそうに頬を掻く人間──七海である。彼女を前にして、ぬらりひょんは深いため息をついた。なぜ彼女がここにいる。しかも大王席に座ってる状態で。


「あの、すいません、ぬらりひょんさん…!」
「七海殿、どうしてここに」
「それが、エンマ大王さまに頼まれまして…」


話を聞けば、エンマ大王に仕事を手伝うよう連れてこられ、ここにいるとのこと。確かに仕事は山のようにある。が、人間に頼んでいいものでもない。「それで、大王様は」「えっと、息抜きということで散歩に…」再び深いため息が漏れた。全くあのお方は。


「七海殿、軽率に大王様の仕事を肩代わりするのはやめていただきたい」
「ですよね…ごめんなさい」


彼女は常識ある人間だ。だからこそぬらりひょんの言いたいことを理解したのだろう。恐縮そうに、七海は小さくなっていた。

眉間のシワはそのままに、ぬらりひょんは七海のいる大王席に近付くと、抱えていた書類をデスクの上へと置いた。反動で数枚の書類がひらりと浮き上がる。それを七海が手で押さえた。


「また増えましたね…」
「溜めるから山になる」
「確かに…」


至極当然のことであるのに、七海は素直に頷く。そしてすぐに訪れる大変気まずい雰囲気に、ぬらりひょんはどうしたものかと思った。七海はエンマ大王が気に入っている人間だ。ゆえに無下に扱うこともできない。とはいえぬらりひょんも特別話上手なわけでもないので、結局黙りこんでしまうのだった。

トントン、と七海が書類の角を整えていく。先程仕事を肩代わりするなと言ったが、ぬらりひょんもここから離れるタイミングを逃してしまい、手持ちぶさただった。だからお互い、無駄に書類を整えているしかない。

静かな部屋に、トントントンという音と、紙の擦れる音が響く。七海のチラチラする視線を感じ、今にもどちらかが我慢の限界を越え、口を開こうとしたときだ。


「ぬらりひょん様」
「書類が追加になりましたですニャ」


ひょっこり現れたのは従者の猫きよと犬まろだった。大きな巻物と書類をそれぞれ抱え、よろけながら室内に入ってくる。いいタイミングだったと思ったのは、きっとぬらりひょんだけではないだろう。これでこの気まずい沈黙が解消される。


「エンマ大王は…ニャ?!七海殿?!」
「…なぜここに」


どうやら二人は書類の山で、七海の姿を見つけるのに時間がかかったらしい。大王席の近くまで来て、ようやく驚きに目を丸めたのだった。


「こんにちは。猫きよ、犬まろ」
「お世話になります」
「こんにちはですニャ!」


二人は一生懸命背を伸ばして、抱えていた書類や巻物を大王席へと置こうとした。それを七海が身を乗り出して受けとる。「たくさん仕事があって大変だね」「そうでもありません」「我らの仕事ですから当然ですニャ!」「そっかあ」先程ぬらりひょんと二人きりだったときとは違い、和やかだ。

七海はにこにこしながら大王席から降りると、猫きよと犬まろの前で腰を折った。
二人もワクワクした様子で彼女を見上げている。おい、またか。


「今日もかわいいねー!」


七海は犬や猫が好きな人間なのだそうだ。犬まろと猫きよを見ると、いつも頭を撫でていく。一度我が従者を甘やかすことのないように、と嗜めたことがあるのだが、それもすっかりぬらりひょんのただの小言程度に留まってしまっていたのだった。

「もっふもふ!可愛い」


七海の顔は緩みまくっている。撫でられる度、犬まろはきりりと口を結ぶのだが、尻尾かぶんぶん左右に動くものだから、誤魔化しきれていない。「ニャ!七海殿!我は顎の下がいいですニャ!」猫きよにいたっては言うまでもないだろう。

この雰囲気は何なんだ。

ぬらりひょんからしてみれば、正直言って面白くない。普段は頼りになるクールな犬まろでさえ、七海の前では変わってしまう。垂れた耳の下に手を差し込まれ撫でられた時など、見ていられなかったほどである(猫きよは言うまでもない)。高潔である妖怪が人間に懐くなどあってはならないと思っていたのに。


「ところでエンマ大王はどこに行ったのですニャ?」
「それが散歩だって言って、どこかに行ってしまったんだよ…私がここで代わりにお手伝いしつつお留守番」
「探してきましょうか」
「うーん、でもそのうち帰ってくるんじゃないかな。ワイハーリゾート内にはいるって言ってたよ」
「ニャニャ、であればこちらの書類は我らがお手伝いします!な、犬まろ!」
「そうだな」
「わあ!ありがとう!」


きゃっきゃっと盛り上がる3人を見て思う。だからこの雰囲気は何なんだ、と。いくら人間との交流を許したとしても、ぬらりひょん自身はすぐに適応できているわけではなかったのだった。

──懐きすぎだろう。犬まろも猫きよも。

もう一度はっきり言おう。全くもって面白くなかった。七海にすんなりと懐いた彼らだけでなく、ぬらりひょんといるときは緊張している七海に対しても。


──そう、私だけ。


すっかりのけ者にされたぬらりひょんは、本日何度目かというほどの大きなため息をつくしかなかった。ただ、不思議とこの雰囲気が嫌ではないのもまた事実なのである。それは彼女の持つ匂い──妖怪の好む匂いだ──のせいなのか、それとも彼女自身の性格がそうさせるのか。いやむしろぬらりひょん自身が「変わりつつ」あるからなのか。今のぬらりひょんには判断がつかない。

一歩近付けば、わかるだろうか。

この胸の奥に、何となくつっかえているもの。複雑で色さえもわからない、言葉にすればどこかへ消えてしまいそうな、それの正体を。

──全く、私らしくもない。

ぬらりひょんは思考を止めるように、一度かぶりを振った。それから一歩足を踏み出す。かつん、と靴の音がした。


「仕方ない。エンマ大王様も不在だ。休憩とする」
「おやつの時間ですかニャ?!」
「こら、猫きよ」


すぐに反応したのは猫きよだった。それを犬まろが嗜める。七海は目を丸めていた。


「えっ、いいんですか?」
「もともとこの書類の山は大王様でないと片付けられないものばかり。七海殿が少し弄ったくらいでは何も変わりません」
「うっ確かに…すいません」


再び小さくなる七海に、ぬらりひょんはふと顔を緩めた。


「先日の礼をまだしていなかった。お茶くらいはご馳走しよう」


今度目を丸めたのは七海だけではなかった。猫きよと犬まろもこちらを見上げている。「…いただいた恩は反さないと、エンマ大王様に叱られてしまうからな」急に恥ずかしくなり、最もらしい言い訳を呟くと、ぬらりひょんはさっと踵を返した。「先に行っている。あとから食堂に来るといい」

カツカツ、と靴音を立ててぬらりひょんは部屋の入り口へと向かう。
踏み出した一歩は大きかったのか、それとも。


「ありがとうございます、ぬらりひょんさん!」


ただ、七海の言葉の柔らかさが、じんわり滲むように広がったことを、ぬらりひょん自身はまだ気付いていなかった。