もしもの話

太鼓の音。笛の吹鳴。提灯からもれる光。そして沢山の人の笑い声。何もかも「初めて」が詰まった場所に、幼いエンマは降り立った。ちょうどその場所──おおもり山の神社では、夏祭りが行われていた。

こっそり抜け出してきた妖魔界では、今ごろぬらりひょんが自分のことを探していることだろう。帰ったら正座で説教だけではすまないかもしれない。ただでさえ祖父が人間との交流を良しとしていないのに、人間界に出掛けたとなったら何て言うか。全くもって想像に固くなかった。

でも、本当に人間は妖怪にとって悪しきものなのか。幼いエンマにはまだそれがわからなかったし、今の彼にとっては好奇心の方が勝っていた。

人間界とはどんなところなのだろう。
この目で見てみたい。

だからエンマは、ぬらりひょんの目を盗み、今こうして人間界へとやってきたのだった。

もちろん、人間の姿に化けて、というのは言うまでもない。


「さあ、いらっしゃい!わたあめあるよー!」
「金魚すくいはどうだー?」


エンマが歩く度に、露店商は声をかけていく。
どれもキラキラ輝いて見えて、自然と気持ちが高揚してくのがわかった。

この世界はいろんな音で溢れている。エンマが人間界に来て最初に思ったのはそれだった。太鼓の音、笛の吹鳴、笑い声。それからたくさんの光と、たくさんの「初めて」。エンマにとってはどれも魅力的に映っていた。


──これが、人間界。


人々は皆楽しそうだった。ふとエンマの目に映ったのは、赤い棒状のお菓子だった。それはまるで宝石のように輝いて、きれいに並べられている。もっと近くで見てみたい。あれがほしい。自然と足が動き、気づけば店の前までやって来ていた。


「いらっしゃい!りんご飴はどうだ?」


エンマの姿を認めた店主は、愛想よくそう言った。赤い宝石のようなお菓子は、りんご飴というらしい。

「一本ちょうだい」
「あいよ!一本350円だよ」
「350円?」

けれどもエンマにはその時人間界の「お金」という概念がなかった。
350円を「どのように出したらいいか」わからないと思ったのか、店主は再度「100円玉三枚に、50円玉1枚だよ」と言った。けれどもエンマには対価を払うという仕組みがわからない。

「350円って?」

それからただじっと見上げるだけのエンマに、店主は、しびれを切らしたらしい。「坊主。りんご飴が食いたいなら、かあちゃんから小遣いもらってきな」と言ってすぐやってきた別の客に「いらっしゃい!」と声をかけたのだった。

欲しいと思っただけではもらえない。

それはエンマが初めて経験することだった。今までのエンマは、欲しいと思ったものは努力をせずとも当然に与えられていたのだ。

だからそれは、エンマの常識が崩れた瞬間でもあった。

──何かを得るためには相手に何かを与えなければならない。

考え込むようにエンマは歩き出した。エンマが思っていた「当然」が通用しない世界。それが人間界。

考えるのに夢中になっていたエンマは、きちんと前を向いていなかった。瞬間、どんっと衝撃を感じ、思わず地面に手をつく。「あっぶねーなー!ガキ、ちゃんと前見て歩け!」上から降ってきた怒号に、エンマははっと顔をあげた。体格のいい男がエンマを睨み付けるように見下ろし、ふんっと鼻を鳴らして通りすぎていくところだった。


「…」


エンマが他人からこんな悪意を投げられるのも初めてだった。もちろん祖父やぬらりひょんから怒られることはある。けれど今みたいな理不尽な感情をぶつけられたことはなかった。

──これが、人間。

急に悔しくなってきた。地面に手をつくエンマを、他の人間は見てみぬふりして通りすぎていく。誰もエンマのことを見ていない。楽しそうに周りの景色だけがくるくると踊る。


──やっぱり、人間界は。


「だいじょうぶ?」


まるで鈴を転がすような声がした。一気に周りの音が消え、その声だけがはっきり聞こえる。「ねえ、だいじょうぶ?」エンマより少し年上だろうか。まだ少女と呼べる女の子が、エンマを見下ろしていたのだった。


「転んだの?けがした?」
「あ、ううん…」
「ここにいると危ないよ。手貸すから立ち上がろう」


少女はすっと手を差し出すと、エンマの動きを待った。おずおずと握ってみれば、エンマより少し大きな手の、柔らかい感触がする。
「はい、たっち!」引き上げるようにエンマを立たせると、少女は笑った。


「おかあさんたちと来たの?」
「ううん…ひとり」
「えっひとり?」
「うん」


少女は驚いたように目を丸めると、首を捻った。「一人で来ていいって言われたの?」どうやら祭というのは誰かと来るのが当然の場所らしい。首を振れば、今度は少し困ったような顔をした。「えっと…早くかえったほうがいいんじゃないかな。おうちの人が心配するよ」それは彼女の言うとおりだった。きっと今ごろぬらりひょんが探していることだろう。

そのときふと、エンマは少女の手にりんご飴があることに気付いた。「それ、」食べたくても食べれなかったりんご飴である。近くで見るとやっぱり、赤くて綺麗だ。彼女は350円を、あの店主にあげたのか。

己の手元をじっと見つめているエンマに気付き、少女も視線を落とした。それからりんご飴を凝視するエンマとりんご飴を交互に見やる。


「りんご飴?」
「うん」
「ほしいの?」
「…うん」


ほしい。でも、350円を持っていない。そもそも350円が何かをわかっていないのだ。悔しさの次は悲しくなってきて、エンマは俯いた。そして同時に怖くもあった。無知であることを、まざまざと見せつけられたような気がしたのである。

欲しい。けど手に入らない。優しくない人間。

──人間界は、怖いところ?


数秒の沈黙のあと、すっと影が動いた。


「はい、これあげる」


口もとにりんご飴が差し出されていた。ほんのり甘い香りが鼻腔を擽る。そして宝石みたいに艶やかだった。

思わず見上げれば、彼女はにっこり笑っていた。「食べていいよ」さらにぐいっと近づけられて、エンマの唇がりんご飴に触れる。甘い。いい匂い。


「…いいの?」
「うん。あげる。でも次からはちゃんとお金持ってこないとダメだよ」


彼女はエンマにりんご飴を握らせると、今度はぽんぽんと頭を撫でた。そんなことをされたのも初めてだった。でも全然嫌ではない。撫でられたところに手をやれば、まだ彼女の手の柔らかさを感じられるような気さえする。

その時後ろから「ねえちゃんー?!どこー?!」という声が聞こえてきた。どうやら彼女の弟か何かのようだ。「わ、ケータのこと忘れてた」慌てて振り返り、走り出してしまった。まだ、お礼も言ってないのに!


「待って!」エンマの声に、彼女は振り返った。


「その、ありがとう!」
「どういたしまして!」


最後の笑顔は、提灯からもれる光よりも眩しかったと思う。

少女の姿が雑踏に消えたあと、エンマはもらったりんご飴を食べることにした。何だかもったいない気がするが、せっかくもらったのだから食べないわけにはいかない。
ぺろりと舌を出して、少し舐めてみる。甘い。先程唇が触れたときより味がはっきりする。甘いけど少し酸っぱかった。


「おいしい…」


このあと少女の名前を聞かなかったことをとても後悔するのだが、数年後再会することになろうとは、今のエンマにはまだ、知らないことである。



※もしも姉主が子エンマと会っていたら