08.危機呼ぶ赤い前兆よりー彼ー

 安室さんの言う通り、ストーカーの一件が終わってから、不審なことは一度も起きなかった。彼に頼んで良かったのだと、本当に感謝しても仕切れない。随分と気持ちも楽になっていて、もう、家で映画を見るのは当分いいかなと思える程だった。

 なら今日は思い切って出掛けてみようと、私は現在“うまいもの展”を開催しているという米花百貨店を目指す。

 車通りの多い道へ出ると、自然と道路に視線を向けてしまっていた。今はもう意味のない、その癖を無意識にしていたこと気づいて、胸の奥が痛み出す。急に襲われた喪失感に、唇を噛み締め、ぐっと堪えた。

 もう、シボレーを探しても、見つかるはずはないんだったね……。

 そうして見上げた空は、澄んだ色をしていて、彼が優しく見守ってくれているようだった。



 米花百貨店に到着し、私はエスカレーター付近のフロアガイドを見ながら階数を確認する。

 ふと、誰かが私を呼ぶ声がしたけれど、気のせいだろうと思い、そのままエスカレーターへ向かう。でも、いざ乗ろうとしたら、誰かに手首が握られ、身体がぐっと引き戻された。

「わっ、!」

 やや恐怖も覚えながら、驚いて顔を上げると、その人物は沖矢さん。

 今度会えたら必ずお礼を、と思っていた矢先の再会に、本来は喜んで挨拶をするところだけど、荒く掴まれた手首と彼の真剣な空気感に身体が固まってしまう。

「すみません名前さん、急に呼び止めてしまい……」

 沖矢さんは申し訳なさそうにそう言うと、手を離してくれた。そのまま、周りの人の邪魔にならないように端の方へ、誘導される。

「い、いえ!あの……?」
「名前さん、今日はお一人ですか?」
「え?……あ、はい。少し買い物をしようと」

 本当は、うまいもの展に惹かれて来ていたけれど、食い意地張っているように思われるのも憚られやんわりと濁す。沖矢さんは、何故か常に周りを警戒して視線は遠くを見ていた。

「では、今日はやめておいた方が宜しいかもしれません」
「え?」

 どうして、そんな事を言うのだろう?何で、そんなことを言われなければいけないのか。先ほどの行動も重なって、眉間に皺を寄せてしまう。

「名前さんは、眠りの小五郎という探偵をご存じでしょうか?」
「あ、はい。テレビで聞いたことが……」
「先ほど、彼をこの百貨店で見かけました。何かあったのかもしれません。それに不審な男も見受けられますし」
「え……」
「お一人でしたら、何かあったときに心細いでしょうし、今日はここから立ち去った方が賢明かと」

 彼の物言いは柔らかいのに、どこか有無を言わさない雰囲気だ。本当に何かあるなら、みんな避難した方がいいのではと思うものの、さあ、と言いながら百貨店の出口に連れていかれるため何も言えなかった。

 今日の沖矢さんは、やっぱり雰囲気が違う。でも、肩に触れる手はどこか優しい。気がつくと出口まで連れられていて、自動ドアの前で軽く背中を押された。

「行くんだ」

 ぽんっと、一歩前へ押し出される。でもどうして、とやっぱり疑問が湧いた。それに、沖矢さんはどうするつもりなのだろうか。そう思って後ろを振り向くけれど、もう沖矢さんの姿はなかった。



 私は百貨店を出た後、偶然見つけたお洒落な洋食店に入り一人でランチをした。このまま帰ろうかなと思うものの、あれからもう随分時間も経っている。本当に百貨店で何かあったのかな……。そんな好奇心にも似た気持ちで、近くを通って帰ることにする。

「ホント、災難だったわよねー」
「もう疲れちゃったわよ」

 歩みを進めるにつれて、そんな会話が飛び交うものだから沖矢さんの言う通り何かあったんだと察する。でも一体何が。そんなことを考えながら、百貨店の方を伺うようにして足を進めるけれど人が多い。

 ちょうど流れに歯向かうように歩いているため、一度道の脇に寄って、この波が落ち着くまで待とうと足を止めることにした。

「え、」

 でも、ふと視線を上げた先。百貨店の向かいのビルの窓から、黒い筒のようなものが伸びているのが見えて、私は固まる。

 それは、まさに映画の中で見るライフルを構えた人の姿。誰かが狙われているんだと遅れて理解した私は、咄嗟に銃口の先を見るけれど、そこで私は息を詰めた。

「……っ!」

 いるはずがない。いるはずがないのに。それでも、全身が訴えてくる。私が、願ってもやまない、心の底から会いたいと願っている彼だと。赤井さんが、いるのだと。

 でも、理解ができない。溢れ出す様々な感情に、心臓が激しく波打ち出す。

「ま、まっ、て……っ!」

 でも、ライフルの存在を思い出して一気に血の気が引く。まさか……そう思い声を出そうとするけれど、上手くいかない。人が多く、その姿を見失いそうになる。追わなきゃと思うのに、身体が言うことを聞かない。

 すると急に人の流れが変わり、一斉に皆デパートへ逆戻りをし始めた。誰かに体を押され、前に躓きそうにもなる。人々の声が頭に響く。人混みにまみれる。ああ、この感じ。杯戸中央病院の近くで発生した、映画館火災の時のようだ。

「あ……っ」

 あの時の恐怖も蘇って来て、頭が処理しきれない。なんだか胸の詰まり、苦しさも感じる。無意識に息を止めていたのかもと思って、吸おうとするけれど上手くいかない。

「あ、れ……」

 溺れているのかと思う程の状況に焦って、喉元を押さえた。何か、身体が変だ。

「はっ、」

 息が、できていない。必死に、酸素を取り入れようとするのに、呼吸が、できない。自分の身体に起こった急な異変。もう、一人で立っていられず、よろける様にしゃがみ込んで地面に手をついた。浅い呼吸が、続いていく。

「あらあら、どうしたの?!大丈夫?」

 誰かが来てくれたのに、何も説明することができない。そんな余裕もなければ、自分でも今の状況なんて分かっていないため、どうすることもできなかった。そんな恐怖も芽生え余計にパニックになる。

 苦しくて苦しくて涙が溢れた。息が吸えない。時折、言葉にならないような声が口から漏れる。死ぬかも、しれない。そんなことが脳裏に過ぎった。