07.変化 ー共鳴ー

「お待たせしました。これよかったら……」

 コンビニから戻って来た安室さんはそう言って、冷えたキャラメルマキアートを手渡してくれた。そのチョイスに優しさを感じて、僅かに緊張が解けていく。

「あ、ありがとうございます」

 さっそくストローを刺して、一口味わうと、キャラメルの甘さが口一杯に広がっていった。久しぶりに飲んだけれど、今の私には必要な甘さだったのかもしれない。

「すみません、一ノ瀬さん」
「はい、」
「その……念のためお伺いしたいのですが、お付き合いをしている方はいらっしゃいますか?こういった案件は男女の話が絡んでいることがありますので」

 でも、突然のその質問に、顔がまた強張ってしまう。それは、赤井さんを失って以来、まだ聞かれたことのない質問。聞かれたくない、質問だった。

 ずっと言葉にすらしていなかったその事実を、言わなければいけない状況に、気持ちは張り詰める。でも、それが事実……。

「いない、です」

 長い間を置いた後、声を絞り出すように伝えたその言葉は、暗い車内の中、静かに広がっていった。今まで、スムーズに会話を運んでいた安室さんも、何故か言葉を失ったように口を閉ざす。

「いないん、です」

 二人して沈黙するこの空間は、とても重苦しい。

ー”いない”

 それは今までと、同じ返事の仕方。会社や、周りの人に恋人の存在を尋ねられても“いない”と答えてきた。赤井さんとの交際を隠し通すために、嘘をついていた。だから、言葉自体はいつも通りなのに、今日はこんなにも言うのが辛い。いないという事実を認めるのは、とても……。

「それは、お辛いでしょう」
「……え?」
「亡くされたのですよね、恋人を」

 その言葉に、心臓が止まるかと思った。安室さんは目を伏せながら、申し訳なさそうに言うけれど、その瞳には確信が込められている。私は、彼を亡くしただなんて、一言も、言っていないのに。

「……ち、違うんです!そうじゃなくて、いないんです、付き合っている人が!」
「そうですか?失礼しました、病院で泣いていらっしゃったので、てっきり」
「あ、あれは……知人が、知人に不幸があって」
「ほー。知人ですか」

 咄嗟についた嘘を、安室さんは当然の如く信じていないようだった。その瞬間、ごくり、と生唾を飲み込む。でも、彼はそれ以上追及してこなかった。



 降谷は名前を送り届けた後、車内で一人、深く息を吐き出していた。

 一ノ瀬名前は、楠田陸道と繋がっていた。それが、彼女が組織の存在を知っている真相だろう。それなら、車を見て恐怖したことや、病院で涙していた理由も説明がつく。

 そこまで分かれば、この件はもう終わりだ。彼女に組織の情報を流したであろう男がFBIに拘束されてるなら手出しはできないし、手柄にはなり得ない。

 この時降谷は、彼女が赤井の恋人だとは考えもしなかった。赤井の行動や考え方を間近で見ていたからこそ、少なからず自分に似た部分も感じ取っていた。だから、確信できる。組織を追っている以上、他人と深い関係を築くのはリスクでしかなく、そもそもそんな時間も惜しいぐらいだと。

 “赤井が本気の恋人など、作るはずがない”

 その思い込みが、いつもの洞察力をも惑わしていた。人は、信じたいものを信じてしまうという、基本的なことに気づくことができず……。

 そうして数日置いてから、降谷は速やかにこの件を終わらせるため、名前にストーカー犯を特定したと連絡を入れた。

「え?!もう、ですか?」
「ええ。犯人の車のナンバーも、住所も、顔も特定しているので、いつでも警察に突き出せますと言えば酷く怯えて謝罪もしてきました」
「そ、そうなんですね」

 全くの作り話を、名前に聞かせる。男が近所に住んでいないこと、ただの出来心、家族がいる。ここまで伝えれば、ただでさえ平穏な日常に早く戻りたいと願っているはずの彼女がこの件を大事にすることはないはずだ。

 もちろん仮に警察の介入を要望されたとしても、どうとでもなる。

「じゃあ、もう……大丈夫なんですよね?」
「ええ、かなり遠くの街に住んでいるようですし、もう二度と会うことはありません。安心してください」
「……分かりました。なら、これで、終わりでいいです」

 その言葉を聞いて、安室透らしく丁寧な口調で終わりの挨拶を続けていく。これでもう、二度と一ノ瀬名前に会うことはないだろう。そう思いながら電話を切ろうとしたとき、彼女が声を上げた。

「あの、!」
「何でしょう?」
「今回は、本当に、本当にありがとうございました」
「いえいえ、そんな」
「私、本当に怖くて……どうしたらいいか分からなくて」

 その声は僅かに震え、悲しみに満ちていた。

「実はいろいろあって……正直、なんかもう、いいかなって思ったり、していたんですけど」

 たどたどしくも、自分の気持ちを吐露する彼女の姿が、目に浮かぶ。

「安室さん、すぐに駆け付けてくださって……一人じゃないって思えたんです。だから、本当に、感謝しています」

 名前の切実そうな言葉に、降谷は心の中に何か温かいものが流れていくのを感じた。

 こんな気持ちは久しぶりだった。ストーカー紛いの行動を指示し、追い詰めたのは自分であるのに、こうも感謝されるとどうしていいか分からない。そもそも、こうやって誰かの心を救い、直接感謝されることはいつ振りだろうか。一人じゃない。その言葉はまるで自分に返ってくるようだった。

「こちらこそ」

 彼女の言葉をしばらく味わいながら、降谷は改めて挨拶をする。

「では、お元気で。一ノ瀬名前さん」

もう二度と、会うことのないであろう名前に、別れを告げ彼は電話を切った。